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サイード

 今朝は北海道地震のニュースから始まったが、エドワード・サイードが死去したことも知った。[via:CNN]
 白血病だったというから死を覚悟してはいたのだろうけれど、パレスチナ問題が泥沼化して改善の兆しも見えず、イラクがアナーキーな状況に堕してしまった状況では、死に切れない思いはあったのではないか。彼の死がもつ意味は重い。

映画

 曽利文彦の「ピンポン」を見た、といっても、途中から。残念。一度ヘコんだお調子モンが再びヒーローになるまでって、まるで今年のタイガース。映像おもしろいし、テクノのリズムもかっこいいし、あー、ちゃんと見れたらよかったのに。テレビでやる映画は時間を決めてくるからキライだ。 そういやこの前「キス・オブ・ザ・ドラゴン」もテレビで見た、といってもこれも途中から。なんじゃこりゃ?? 「シェーン、カムバーク!」と『北斗の拳』が頭の中で点滅したぞ。まあ途中からなんで批評はパス。

reflection

 pallalinkのpalla氏の作品が天王寺Mioの写真奨励賞なるものに入選したので、見に行った。カタログのなかで評者に「これは写真じゃない」とコメントされてて思わず爆笑。よく入選したなー。写真というのはもう少し分かりやすくないとウケないんでしょうかね?(ホメてますっ) ともあれ、palla氏の作品はやたらデカくて一番目立ってたので(しかも立体)、いいんじゃなゃいの?(本人は自サイトで紹介する気もないようですが。) 

寒い

 すごく肌寒い一日だった。寒くて目覚めて、夜中に布団をもう一枚だして寝直した。自転車にのって図書館にいったけど、顔にあたる風が冷たかった。夏用のカーディガンでは足りないくらい。今日を境に秋に変わっていくんだろうか。温かい食べ物やお茶やお風呂がやっと体になじみそう。

クリムト展

 クリムト展を見に兵庫県立美術館に行った。梅田を通って阪神電車に乗っていく。さすがに時期的に場所的にタイガースだらけ。阪神デパートはほとんどの入り口を閉鎖しているため、地下はさほどの人ゴミではなかった(中はすごかった)。美術館は平日なのに来館者がかなり多くて驚いた。それでもまだすし詰めではなかったので、土日に来なかったのは正解だと思う。
 肝心のクリムトだが、有名な作品もかなり来ていて見ごたえがあった。というか、今回はじめてクリムトの作品をまとめて見たんだけど、自分の抱いていたイメージと実物がずいぶんちがって、見に来た甲斐があった。
 画集やポスターで見ていた分には、世紀末的な雰囲気を纏った豪奢で耽美的で美しい女性像を描いた作家、という印象だったのだけど、生の絵画はもっと倒錯していた。
 「フリッツァ・リートラーの肖像」「エミーリエ・フレーゲの肖像」では、女性たちはたしかに美しいけれど、その顔は、衣服やソファや壁の装飾が前面に押し出されることによって、背後に暗く重く沈みこんでいる。「エミーリエ・フレーゲ」などは、衣服の文様をそのままベタンと貼り付けたようなかんじで、コラージュを思い起こさせる。コラージュの手法が生き生きとした動きや表情を無機質なものに変えてしまうように、クリムトのこれらの絵画も、生身のもつ生命感を殺ぐような効果を発している。作家のこうした視線はどこか倒錯的で、サディズムに近いフェティシズムを感じさせた。
 きわめつけは「ユーディット?」だろうか。これは、女のエロティックな表情に視線が向う作品だとばかり思っていた。けれども実物をみると、とくに首に枷のように巻かれた金箔の装飾が異様なまでに存在感を発している。女の表情はたしかに恍惚としているのだけれど、全体でみると、まるで首と胴体が切り離されているようだった。
 クリムトの作品をみていて、この感覚は何かに似ているなあと思っていたのだが、そう、アラーキーの作品をみているときの感じに似ているのだ。両者には同質のものがあると思うけど、どうだろう。
 クリムト以外にもいくつか作品が来ていて、エゴン・シーレの作品もあった。一見グロテスクに見えていた彼の作風は、実はすごく素直でまっすぐだった。ショップで画集をぱらぱらと見ていたが、シーレの絵って今風。ポップ・カルチャー的というか、普通にマンガでもよく見るようなラインだったりする。今度はシーレ展見に行きたいなあ。どっかやってくれないかな。

阪神V

つーか、阪神マジ優勝。しかも甲子園で逆転勝利って、デキすぎのシナリオ。ロードにでると全然だめで(まさか甲子園まで引きずるとは思わんかった)、甲子園に戻ったとたんのあの試合。なんでこーも調子いいのか。そのお調子モンぶりは、やっぱり愛すべき特徴なのだわ。

レニ

レニ・リーフェンシュタール死去。びっくりしました。まだご存命だったのね・・・。[via: asahi.com]

買物

 もう夏は飽きたとつくづく思う今日この頃。早く冬になれ。
 今日は文房具屋で付箋を買う。付箋もいろんなニーズに対応してか、5ミリ×1.5センチくらいのプチ付箋が安くで売っている。このくらいのサイズが欲しかったんだよね。もう少し小さくてもいいくらい。あとピンク色のボールペン。普段使う色は赤・黒・濃青と決まっているので、これはイレギュラーな買い物。もっとギンギンにハデなのでもよかったが、さすがに銀ラメ入りとかは飽きがきそうなのでやめた。

映画

 残暑がきびしく、今ひとつ調子がでない。なんかずっと低調だなあ。久々にダージリンと、お茶受けにクィーンズ・ビスケットのストロベリー・クッキーを購入。苺をそのまま練りこんだクッキーらしい。おいしいです。
 映画でも見るかと、タルコフスキーの「サクリファイス」を見た。おぼえているシーンも多かったので、やはり二回目か。昔みたときは多分すごく難しかったんだろうな(映像しか覚えていない。寝た可能性大)。今みると、スト−リーそのものは意外とシンプルだった。ただ解釈は難しい。扱っているテーマはすごく気になる。でもコメント書けるかどうか分からない。うまくまとまらないような気がする。気分が沈んでいるときに見るとさらに沈みそうな映画じゃ。といってアカルイ映画みる気分でもないんだよなあ。ああ沈む〜。

読書メモ

 内田隆三『探偵小説の社会学』(岩波書店)を買う。探偵小説は、中学生くらいのときにホームズをむさぼり読みはしたけど、それ以降はほとんど興味をもたないままだったので、何の気なしに買ってみた。けど、この本おもしろいです。
 ただ古今東西の推理小説を読んでいるのが前提だから、わたしの場合、おもしろいといってもその「おもしろさ」は半分も分かってない。少し前にポオの「モルグ街」とか「マリー・ロジェ」は読んでいたけど、他にも『緋色の研究』くらい読み直さねばと思い、途中で栞をはさんで『緋色の研究』を読み直した。原作を少しでも押さえてあると、やはりおもしろさは倍増する。
 作者によると、『緋色の研究』には二つの柱があって、その一つは、「現在の事実」を「過去」によって照らし出すことで、その「時間的な深さ」を明らかにすること。これは殺人者の「動機」を理解することであり、行為の「意味」を浮かび上がらせることである。作者は「人間学的な深さ」とも言い換えているが、なるほど、『緋色の研究』に挿入される過去のストーリーは、「行為」と「動機」を結びつける必要条件なのだなと納得した。ただこうしたリアリティの肉付けは、短編においては難しいとされる。
 もう一つは、事件のおきた「現在」にちりばめられた「微視的な痕跡=記号の群れ」を解読する作業。これはホームズ物の魅力の最たるものだと思うけど、要するに、そうした「痕跡」「断片」を集めてきて、そこからある特定の人間以外の何者でもない存在を弁別すること。
 『緋色の研究』がそれほど複雑な構成をとっているわけではないからか、作者のいう「要素のたわむれ」と「動機」は非常に見えやすいのだな。社会学ってかんじだ。まあ、ここに書いたことは本の要旨とも程遠い、たんなるわたしの「確認事項」にすぎなくて、本文はもっと含蓄あります。20世紀の近代社会と戦争体験が探偵小説に刻印した様相、とでもいうものが書かれてあって、通して読むとそのあたりがおもしろかったかな(ってまだ読んでる途中じゃん)。