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ぼくのバラ色の人生

Ma Vie En Rose
1997 年 ベルギー・仏・英
監督: アラン・ベルリネール
出演: ジョルジョ・デュ・フレネ
ジャン・フィリップ・エコフェ
ミシェール・ラロック


 ドレスが好き、お人形さんが好き、好きな男の子と一緒に遊びたい――「でもあなたは男の子なのよ」。この言葉が何を意味するのか、自分の振る舞いでどうして家族が苦しむのか、どうして近所の人たちから白い目で見られるのか。まだ小さなリュドが、自分の行動によって起こる周りの反応に気づいていかなくてはならない、その哀しさに胸がつまる。
 まっすぐなリュドの心が萎縮しないような世の中であればいいのに、と思う。かつて「リュド」であり、今まさに「リュド」であり、これから「リュド」であることに気づく人たちが、心を萎縮させることなく生きていける、そんな世の中であればいいのに、と心から思う。
by kiryn (2001/10/9)

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僕たちのアナ・バナナ

Keeping the Faith
2000 年 米
監督: エドワード・ノートン
出演: ベン・スティラー
ジェナ・エルフマン
アン・バンクロフト


 エドワード・ノートンの最新作「僕たちのアナ・バナナ」(Keeping the Faith)を観た。いろいろ盛りだくさんで2時間たっぷり楽しめた。つくりは巧いしテンポもいいしセリフも歯切れ良くてカッコイイし、映画ネタもあちこちに散らばしてあって笑わせる仕掛けはたくさん仕込んでありました。
 ストーリーは、幼馴染のユダヤ教のラビとカトリックの坊さんがこれまた幼馴染のイケてるアナを好きになるという三角関係もの。今どきの若いニューヨーカーの青春物。ただ聖職者という設定のせいか、ちょっと説教くさいかなー、優等生っぽいかなー、おまけに終わり方はどうしようもなく陳腐だぜって感じです。楽しみつつもまじめに人生考えているんだよ、っていうメッセージがちょっとうっとうしかった(われながらイヤミな見方だなー)。でも同じ三角関係物なら「チェイシング・エイミー」のほうがおもしろかったかもしれない。こっちの登場人物たちのナイーブさのほうが、まだ共感できる(少女まんがみたいーと思ってたら、そのあとほんとに少女まんがになっててびっくりしたけど)。
 ただ、お気楽観光気分でニューヨークには行ってみたくなった。島の上ににょきにょき高層ビルが生えてるかんじがよく分かって、その辺の映像はおもしろかったです。
(Sunday, February 18, 2001)

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夏物語

contes des quatre saisons: conte d’ete’
1996 年 仏
監督: エリック・ロメール
出演: メルヴィル・プポー
アマンダ・ラングレ
グウェナエル・シモン


 数学専攻でもうすぐ企業で働くことが決まっているガスパール(メルヴィル・プポー)が、アコースティック・ギターを片手に、夏のリゾート地にやってくる。観光客で賑わう海水浴場や街中を一人歩き回るが、彼は来るかどうか分からない恋人レナ(オーレリア・ノラン)をあてもなく待っている。
 7月17日から始まる夏の日々、ガスパールは小さなレストランでバイトするマルゴ(アマンダ・ラングレ)と仲良くなる。民族学を専攻するマルゴは、どんな人間に対しても興味を示し、親しく打ち解けて話をすることができるけれども、ガスパールは集団が苦手で人となかなか打ち解けられない。女の子に対してもナイーブで、レナとの関係も友だち以上恋人未満な状態が続いている。「ぼくは愛されないと愛せない」と呟き、自尊心が高くて不器用な姿を垣間見せる。
 海辺や陽の照らす山道やお城のそばを歩きながら、マルゴとガスパールの会話が続く。
 マルゴは、美形なのにナイーブなガスパールにかなり好感をもつんだけど、ガスパールのほうは、今度は、セクシーなソレーヌ(グウェナエル・シモン)の積極的なアプローチにあっさりついていってしまう。あれあれあれ?というかんじで、軽ーいオトコになってしまう。そのあと、さらにレナが登場して、ガスパールはワガママでプライドの高いレナに振り回されるハメになる。マルゴとソレーヌとレナの三人に「ヴェッサン島へ一緒にいこう」と同じ内容の約束をしてしまうため、ガスパールはさらに窮地に立たされてしまう。
 結局この窮地は脱したものの、二兎どころか三兎とも得られないまま島を去ることになり、ガスパールは、女の子とうまくいかないのがぼくの運命だ、とうそぶく。でも、マルゴにあっさり、自業自得でしょ、と釘をさされてオシマイ。
 見ているうちに、マルゴに感情移入していっちゃって、マルゴの視線でガスパールの「もう!しょうがないわね」的な行動を追ってしまう。赤いビキニもかわいいし、美人ではないけど一番魅力的だった。
 ガスパールは黒髪ボサボサで顔がきれい。すごくかわいいかんじ。女の子たちはガスパールがまわりの男の子と毛色がちがうからついつい惹かれてしまうし、そういう気持ちもよく分かる。でもつきあうと優柔不断でへんにプライド高くてクセモノ。セクシーなソレーヌにふらふらと惹かれていくあたりは、おいおいってかんじだったけど、ソレーヌもまた気性が激しくて、竹を割ったような性格なので好感はもてる。いちばんわかんないのが、レナ。ガスパールの「理想の女性」ということで登場してくるんだけど、ぼてぼて歩くし喋り方はだるそーだし、ちょっとエラはってるし性格悪いし、ガスパールの趣味が悪いのか、単なるミスキャストなのか迷うところだ。
 でも「ラブコメ」なんて言葉で片付けるのはもったいないほど、主人公たちの心の動きが繊細な映画だと思う。映像も色合いが柔らかくて、やさしいかんじ。
by kiryn (2001/12/14)

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太陽と月に背いて

Total Eclipse
1995 年 英
監督:アニエスカ・ホランド
出演:レオナルド・ディカプリオ
デヴィッド・シューリス
ロマーヌ・ポーランジェ


 この映画、けっこう好き。あの寒々しい灰色の海辺にランボーがいたシーンがよかった。ランボー=ディカプリオというのがねぇ、という声もきかんでもないが、そりゃディカプリオだって、リバー・フェニックスがあんなことにならなければ出世できたかどうかわかんない役者だけど、この映画くらいいーじゃないかとちょっとだけ擁護。
 詩を書いていたときのランボーだけじゃなくて、詩をかかなくなったランボーまでちゃんと描いていたのがよかった。
 アフリカにわたって、商業活動をしていたらしい後年のランボーは謎にみちている。前半生の鮮烈で騒々しい生き方とちがって、その人生は砂漠の砂にうもれて沈黙している。
 どんなに劇的に変化した人だって、その変化は断絶面と連続面の双方があるはずだ。ランボーの場合はとくに、その双方を見たいと思う。彼のような生き様をした人は、存在そのものが詩だ。そういう人には、すなおに心惹かれる。
by kiryn (2001/12/19)

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チェイシング・エイミー

Chasing Amy
1997 年 米
監督: ケヴィン・スミス
出演: ベン・アフレック
ジョーイ・ローレン・アダムズ
ジェイソン・リー


 画面がいきなりいわゆるコミケとコスプレから始まる。アメリカ版おたく映画か?と思いきや、男A→love→男B→love→女(でもレズビアン)という三角関係恋愛モノだった(アメリカではオタクと恋愛は無理なく両立するのか?)。さくっと楽しめる映画だった。何の予備知識もなく映画館に入って、得したね楽しかったね、といいながら出てきたおぼえがある。
 たしか誰かがこれを原作にマンガにしていたはず。わたしはそこまで入れ込めなかったです。主人公の女の子が自分に好意を抱く男の子に対して、さんざん「I’m gay!!」とか涙ながらに叫んでたのに、話を追っていくと、彼女はべつにビアンでもなんでもなくて、結局あんた何なの?とツッコミをいれたくなったから。ちょっとイラッときてしまった。
by kiryn (2001/10/12)

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春婦伝

1965 年 日
監督: 鈴木清順
出演: 川地民夫
野川由美子
石井富子


 清順美学的にいえば、戦場における死とエロス、といったところの映画なのかもしれない。
 太平洋戦争中で、兵士相手の娼婦が日本軍のある兵士を好きになって、彼をずっと追いかけるんだけど、男のほうは女を突き放したり振り回されたり、といったストーリーだったと思う。最後は心中にはほどとおいんだけど、心中と見られる形で一緒に爆死。兵士は娼婦ごときと遊んでいるわけではないということを示そうとして自爆しようとするんだけど、結果的には、娼婦ごときと心中したふがいないヤツということで汚名をあびるという結末だった。
 正直、そんな皇軍兵士の心理の綾などどうでもよかった。ショックだったのは、あきらかにその娼婦たちが「従軍慰安婦」だったこと。主人公の彼女が上官にレイプされたり、兵卒が列になって部屋の外に並んで待っていて、自分の階級と名前を大声で叫んでから部屋に入ってくるシーンが驚きだった。
 この映画は告発の映画でもなんでもない。こういった場面は、おそらくある年代までの人たちにとっては、戦地における「日常」をそのまま描いた単なる風景にすぎないのかもしれない。けれどもそれがいっそう、今の時代には、犯罪性さえ感じさせてしまう。
by kiryn (2001/10/19)

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セレンディピティ

Serendipity
2001 年 米
監督: ピーター・チェルソム
出演: ジョン・キューザック
ケイト・ベッキンセール
ジャーミー・ピヴェン


 ジョナサン(ジョン・キューザック)とサラ(ケイト・ベッキンセール)はある夜偶然出会い、お互いに一目ぼれ。名前と連絡先を教えてくれというジョナサンに対して、サラは古本や手袋やエレベーターといった小道具を使いながら、ほんとうに「運命」によって二人が結ばれているのかを試そうとする――。
 ってかんじの、ものすっごーくベタなラブ・ストーリーで、あまり好みの映画ではなかった。時間の流れを表現するやり方にしろ、小道具の使い方にしろ、正直あまりセンスが感じられなかった。定石どうりの脚本というかんじで、ひねっているようでひねっていない。ハッピーエンドのラブ・ストーリーはセンスが命なのよ?
by kiryn (2002/4/7)

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ジェイン・エア

Jane Eyre
1996 年 英
監督: フランコ・ゼフィレッリ
出演: シャルロット・ゲンズブール
アンナ・パキン
ウィリアム・ハート


 原作がよかったりすると、ついつい映画の評価が厳しくなってしまう。この映画も、原作をえらく端折ってしまっていたのが気に入らなかった。
 原作では、あるピューリタンの伝導師が、ジェインに強烈なプロポーズをしてくる。彼はこれからインドに布教しにいくのだけれど、信仰心から同じように強い信仰心をもつジェインを妻にしたいというわけだ。愛はないけれど、愛に匹敵するほど強烈な信仰心からジェインを求める、その伝導師の磁力に、ジェインはなかなか抗えないのですね。ピューリタンの強烈な信仰心なんてなかなか理解しがたいものだからとても興味深くて、あたしは彼に強烈な印象を覚えたわけです。
 なのに、映画ではこのピューリタンがジェインに遺産相続の話をもってくる弁護士と同一にされちゃって、映画を観ていてがくっとなってしまった。ままある話だけどね。
by kiryn (2001/10/14)

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シラノ・ド・ベルジュラック

Cyrano de Bergerac
1990 年 仏・ハンガリー
監督: ジャン・ポール・ラブノー
出演: ジェラール・ドバルデュー
アンヌ・ブロシェ
ヴァンサン・ペレーヌ


 文武ともに才能にあふれるシラノの唯一のコンプレックスは、鼻が人並み以上に大きいということ。従妹ロクサーヌを愛していても、彼女が美青年のクリスチャンを慕っていると知ってしまったら、文才のないクリスチャンの代わりにロクサーヌにラブレターをどんどん送っちゃう。あふれる才能が邪魔をしてか、なぜか日陰者には徹しきれないシラノ、実らない恋に悩んでるはずなんだけど、とにかくよく喋るので、なんだかとってもオチャメなシラノ。
 ロクサーヌはひじょうに聡明な女性なので、シラノがヘンな小細工しなければ、意外とうまくいったのではと思ってしまうが、それだとお話にならないか。
 ヘボな詩をかくパン屋さんがお気に召しております。一生懸命書き綴った詩の紙きれは、現実主義者の奥方に焼きたてパンの包み紙にされて、さっさと売られてしまう。そのときのパン屋さんのカナシミといったら!
 買ったパンの包み紙に、(たとえヘボな詩でも)詩が書いてあるなんて、なかなかイカしているじゃありませんか。
by kiryn (2002/1/20)

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39 刑法第三十九条

1999 年 日
監督: 森田芳光
出演: 鈴木京香
堤真一
岸辺一徳


 刑法第三十九条「心身喪失者の行為はこれを罰しない。心身耗弱者の行為はその刑を減刑する」
 映画において、殺人事件の被告・柴田真樹(堤真一)は多重人格者であると認定されることから、弁護士・鑑定人・検察官は刑法第三十九条の適用に傾いていく。精神医助手小川香深(鈴木京香)は、被告との鑑定の時間を通じて、彼という人間をまるごと知ろうとする。彼女の出した結論は、被告に刑法第三十九条を適用しないことだった――。
 (ちょっといいわけになるけど、映画自体が複雑なストーリーになっていたので、あまり内容を詳しく書くのは控えたい。これだけ登場人物を出していてるのに、ひとりひとりの人間が丁寧に描かれていて、非常に見ごたえがあった。
 以下では、この映画のテーマが「刑法第三十九条」なので、この法律そのものを中心としてコメントを書いていくことにする。)
 ドイツ語では「法」と「正義」はどちらもRechtである(ちなみに「権利」の意味もある)。法は正義である。けれども、「法」が体現する「正義」は、どの程度のものなのか。絶対的な正義があるという前提で、その絶対的な正義を体現しているのか。それとも、ある社会秩序を維持するというかぎりでの「正義」にとどまるのか。
 前者の「正義」はさしあたり脇に置いておくとして、少なくとも法は、ある社会の秩序を維持し、それを守るよう社会構成員に強制する機能をもつ。法は社会構成員のもつ「権利」を擁護し、同時に、その権利を行使するさいに伴う「責任」を負うように強制する。
 具体的にいえば、わたしたちは、形式的には、自分の意志で契約を結ぶことができるし、自分の権利が侵害されたときはそれを裁判所に訴えることもできる。他方、契約に違反したり、他人の権利を侵害したときは、その罪を負わなければならない。つまり、権利をもつことと責任を負うことは一体となっている。
 ある社会構成員のなかでこの仕組みから除外されているのが、こどもと精神疾患者である。原理的にかれらには権利が与えられていない。それゆえ責任を負うこともない。
 慣習法や法の成り立ちを調べれば、そのようになってきた歴史的な理由は説明されうるのだと思う。ただ、いったん刑法第三十九条のような形で明文化されると、被告の精神状態が危ぶまれる事件になったとき、法を実際に運用する側(弁護士・検察官・裁判官)はまず、「この条文を適用できるかどうか」を問題の焦点とせざるをえない。条文が適用されると、それは「犯罪」ではなくなる。映画のなかでも、弁護士かだれかが遺族に向かって、「事故に遭ったものと思ってください」と言い放つ場面がある。「心神喪失者」と認定された者の「犯罪」は、権利をもたない人間による行為だから、熊やライオンに殺された場合と変わらないということだ。
 ここで二つの問題が浮かび上がってくる。
 一つは、熊やライオンのように檻に閉じ込められていたわけではない人間が犯罪を犯したあと、いやじつはこれは人間ではなくて熊やライオンと同じなんですよ、といわれたところで、犯罪被害者は納得できないという不条理。この〈納得のできなさ〉は一体どこに由来するのだろう。
 もう一つは、あなたは権利をもち責任を負える人間ではない、したがってあなたの行為は犯罪ではないと宣告される側の問題である。この宣告は、「心神喪失者」と認定された被告自身が、自分の行為を罪と認め、罰を受け、人間として罪とともに生きていく、あるいは死んでいく〈可能性〉が断ち切られることを意味する。
(精神を病んだ者が犯罪行為をしても罪にならないなんて理不尽だ!というありがちな意見は、少なくともこの映画の主張ではないはずだ。)
 このふたつの問題は、実は法そのもの――ここでは刑法第三十九条――に原因がある。精神的に危ぶまれる状態にある人間の犯罪を前にして、法はあたかも、彼女/彼らがもとから「心神喪失者」であったかのようにみなそうとする。つまり、実際には、法が「心神喪失者」をつくりだしている。
 犯罪被害者の〈納得のしがたさ〉の根拠はここにある。もともと狂った人間の犯罪行為だから無罪なのではなくて、法によって「心神喪失者」と認定されるから無罪になるのだ。それゆえ、不条理を生み出しているのは、まさに法そのものということになる。
 犯罪加害者にしても、法によって「心神喪失者」と認定された時点から、彼はそれ以前から「心神喪失者」であったかのように見なされることになる。もとから権利も与えられていなければ、責任も負わない存在へと変質させられる。もしも、罪を負いうることが〈人間の条件〉であるとするならば、この条文は、「罪を負わなくていい」と宣言することで、「心神喪失者」もまた人間でありうる/ありえた可能性を一切排除してしまう。
 刑法第三十九条は、加害者を一人の人間としてみなさないと宣告することで、加害者自身をいやしめ、同時に、罪を責め、あるいは赦すこともありうる対象としての加害者を奪う点で、被害者をもいやしめる。この二重の意味で、この条文は問題をはらんでいるのではないだろうか。
(January 6, 2002)

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