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ざくろの色

1971 年 ソ連
監督: セルゲイ・パラジャーノフ
出演: ソフィコ・チアウレリ
M・アレクヤン
V・ガスチャン


 あなたがよく観る映画は洋画だろうか、それとも邦画だろうか。普段よく観る映画はやはり、多くの人にとって、欧米の映画か日本映画だろう。数をたくさん見れば、その映画の「文法」構造のようなものを知らず知らずに学習してしまう。だから普段見慣れていないパターンの映画を見ると、ものすごく斬新に思えてしまう。たとえば、ちょっとブームになったインド映画はミュージカルにジャンル分けできそうだけど、あのひたすらダンシング!な世界はもう「インド的」というしかない、というように。
 そういった既成観念を打ち破られてしまうような魅力をもった映画のひとつに、アルメニアの映画監督セルゲイ・パラジャーノフの映画を挙げることができる。ここでは彼の数少ない映画のなかでもとくに「ざくろの色」(1971年、アルメンフィルム)を紹介したい。
 ところが、紹介、と書いた途端とまどいを覚えざるをえない。ストーリーを紹介することがこの映画を語ることにはならないからだ(アルメニア、グルジア、アゼルバイジャンの詩人サヤト・ノヴァの生涯を幼年時代、宮廷詩人時代、晩年の修道院時代に分けて映像でつづるというのが簡単なあらすじである)。まったく異なる文化圏に住む人間にとって、この映画が持っている豊穣な意味は謎めいた記号でしかなく、ひたすら「感じる」ことでしか映画の世界に入り込めないのだと思う。だから、一つ一つのシーンが、まるでイコン画を見ているように神秘的で謎めいた様を帯びて現れる。聞いたことのない異国の詩、異国の言葉、登場人物の静かな動き、驚くほど平面的な構図、美しく彩色された絵本をめくっているような映像展開、抑制的でありながら目くるめくような色彩にあふれ、エロティックでさえあるような映像、美しい王妃と青年詩人を同一人物が演じることから醸し出される両性具有的な雰囲気――といったように。
 この映画は、幼いころに遊んだ万華鏡の世界を思い起こさせる。くるりくるりと回していくと、色とりどりの小さなビーズがぱたぱたと位置を変えては繊細な模様を編みだしていく――それが不思議でいつまでも回しつづけていた、あのこどものころの感覚にいざなわれる。
 思うに、パラジャーノフの世界には何か混沌とした生命の豊かさのようなものが根底に流れているのだ。「ピントリッキオとラファエルの主題の変奏」という彼の作品がある。そこでは美しい少年の頭に孔雀の羽飾りや螺鈿の飾り物、顔には薔薇、胸元には貝や真珠がひたすらにコラージュされてある。ドレスデンの美術館にこのオリジナルの絵画が展示されてあるのだが、パラジャーノフによって装飾された少年は、オリジナルとはまったく異なる豪奢で耽美的な雰囲気を醸し出している。何というか、パラジャーノフの作品に接すると、彼は身体のうちに過剰なるものをもっていて、それがとめどめなく溢れでているのだと感じざるをえない。尽きない泉のように、言語化できない何か混沌とした意識の渦がそのまま表面に溢れでているのだ、と。
 その混沌の渦はわたしにとってたとえようもない魅力である。彼の魔術的世界には幻惑される。はじめて「ざくろの色」を見たときからずっと、わたしは幻惑されつづけている。
(Wednesday, November 15, 2000)

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”シンドラーのリスト”の真実

Surviors of the Holocaust
監督: スティーブン・スピルバーグ


スピルバーグの有名な映画「シンドラーのリスト」の関連映画に「”シンドラーのリスト”の真実 / SURVIORS OF THE HOLOCAUST」という作品がある。一種のメイキング・オブにあたるのだろう。ナチスの迫害を受けてアメリカに亡命してきた人々が、自分の体験を語るドキュメンタリーである。スピルバーグが編集をしていて、さすがに構成はうまい。でもこの「うまさ」が逆にあだになっている作品である。いまさらスピルバーグに何かを期待しているわけでもないのだが、この作品を見終わったときの違和感といったらなかった。
 一人一人が語るエピソードはあまりにも辛くて、観ている間、涙を抑えることができないほどだ。自分自身の発した言葉につまって、不意に沈黙が訪れたりする瞬間、涙を流すこともなく淡々と告白を続けたあとの沈黙――スピルバーグの編集で小きれいにまとめられてしまっていてさえ、サヴァイバーたちの、語っても語りつくすことなどありえないであろう告白は、観ている者の心をわしづかみにするには十分だ。
 この作品の最後をスピルバーグは、今は愛する家族に囲まれて幸せだと語る老人で締めくくる。そして観ている側は「安堵」する。この人たちはあんなに辛い目にあったけど、今はアメリカで幸せに暮らしているんだ、と。スピルバーグは、わたしたちを不安に陥れる告白を彼女/彼らにさせながら、同時に、心配することはありません、みんな今は幸せだから、ほらやっぱりナチスはいけないよね、と語りかけているようだ。
 違和感の正体はここにある。ほんとうは、わたしたちは「安堵」してはいけないはずだから。安堵して日常の世界に戻ってきて、それっきり忘れ去ってしまってはいけないはずだから。収容所で自分の犯した「罪」の記憶にいまなお囚われているユダヤ人、彼の顔に刻まれた空虚な闇をわたしたちは覚えていなくてはならないのだ。画面に映し出された、日常の世界と調和できないまま治りきらないでいる、見えない傷跡を――。
(Saturday, November 25, 2000)

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去年マリエンバートで

L’anne’e dernie’re a’ Marienbad
1961 年 仏
監督: アラン・レネ
出演: デルフィーヌ・セイリグ
ジョルジュ・アルベルタッツィ
サッシャ・ピエトフ


ストーリーそのものはたいして複雑でもなくて、上流階級の美しい既婚女性に、男がアプローチをかけて、上流社会の倦怠の生活から出て行くことを促し、最後には女は男と一緒に行こうとするというもの。ここにいてはあなたは自分を見失うばかりだから、ぼくと一緒に行こう、というわけです。
 ところがこの映画はものすごく実験的である。
 舞台は古典的で豪華なホテルとフランス式庭園、そこに集う上流階級の人々、かれらは演劇を鑑賞し、ゲームに興じ、終わりのない歓談を楽しんでいる。着飾った人々は静止しており、カメラがかれらを正面に捉えるやいなや人々が会話をはじめる、といったようにカメラワークにもアクセントがある。
 フランス式の庭園には、植物も樹木もなく、石や砂利や大理石で囲まれた固い硬質の空間が演出されている。
 豪奢なホテルを歩き回りながら、男は同じ独白を繰り返す。呪文のように繰り返される独白は、上流の人々の集う閉じられた空間へと誘っていく。
 男は女に、去年マリエンバートでお会いしましたね、と声をかける。女の返事は、わたしはしらない、である。男は去年ふたりのあいだにあったことを語りつづける。女はつねに、わたしはしらない、と答えつづける。
 男の語る過去の記憶は、フランス式庭園のなかに凝固している。
 お人違いでしょう、おぼえておりません、という女のつれない返事が、男の過去をますます凝固させている。けれども、いつしか、その結界がほころびはじめ、過去と現在の境目が曖昧になっていく。
 女が何かを守るために嘘をついていたのか、男が嘘をついていたのかどうにでも解釈できるだろうけれど、さいごに女は男と一緒に、この閉じられた空間から出て行こうとする。
 あくびをかみ殺しながら見なくてはならないけど、映画の手法の点でもひじょうにおもしろい映画であるのはまちがいない。
by kiryn (2001/11/20)
ショートヘアに黒い膝丈のドレスを来たデルフィーヌ・セイリグが美しい。とくに、階段を上る姿や、手すりに手をおいてちょっと斜めに立つ姿など、見ていてうっとりしました。

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ゴースト・ワールド

Ghost World
2001 年 米
監督: テリー・ツワイゴフ
出演: ソーラ・バーチ
スカーレット・ヨハンスン
スティーヴ・ブシェミ


 アメコミ原作。アメリカの女子高校生イーニドちゃんは、下膨れなまっちろいお顔にでかい黒ぶちめがね、下半身がちょっと太り気味で、ぼてぼてと歩く。口は災いの元をそのまんま地でいくキャラクター。彼女が好奇心からか、ちょっかいをだしはじめる相手が、アメリカ版オタクのシーモアくん。
 シーモアは「名盤オタク」だ。つまり、古いデルタ・ブルースとかのレコードを集めて、同じ趣味の人たちとパーティをしたりする。パーティでの話題はもちろん、名盤について重箱のすみをつつくような話。いわゆるオタクな人たちの行動パターンを踏襲しているかと思われるが、「名盤」というあたりに多少高尚さが漂っていると思われる。この点でなんとか高校生のイーニドちゃんとの恋愛(?)も可能になったかと。これが「フィギュア」とか「特撮」とか「ビデオ」とかになってくると、多分接点がみつからなくなってくるんだろうなあ。
 にしても、イーニドちゃんの存在感はすごいですね。この女優さん、もうフツーの役はできないんじゃないかな。
by kiryn (2001/12/28)

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カストラート

Farinelli/ Il Castrato
1994 年 仏・伊・ベルギー
監督: ジェラール・コルビオ
出演: ステファノ・ディオニジ
エンリコ・ロ・ペルソ
エルザ・ジルベルシュタイン


 美声を保つために去勢された「カストラート」という、美と残酷さがないまぜになった奇妙な存在を音楽史のなかから浮かび上がらせたのは、この映画のユニークな点だ。人工的につくりだされた「不毛さ」の上に成り立つ「美」は、まさにバロック的といってもいいかと思う。ただし、この不毛さを補填しようとしたところに、ストーリー的な失敗の原因がある。
 でもそれをあげつらっても仕方ない。見所はやはりなんといっても、カストラートの舞台。彼が歌いだすやいなや、貴婦人たちがばったばったと失神していくのはなかなか壮観。半分コンピュータで合成された声だと知ってはいても、オペラに詳しいわけでもないわたしには十分楽しめた。
 つい、レコードまで買ってしまった。
by kiryn (2001/12/15)

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君さえいれば 金枝玉葉

He’s a Woman/She’s a Man
1994 年 香港
監督: ピーター・チャン
出演: レスリー・チャン
アニタ・ユン
カリーナ・ラウ


 人気女性歌手ローズ(カリーナ・ラウ)の熱狂的ファンたるウィン(アニタ・ユン)が、彼女に近づくために男装してオーディションに参加。このオーディションはローズの恋人である敏腕プロデューサーのサム(レスリー・チャン)が、企画したもの。偶然にもウィンは合格してしまい、彼女は男装したまま歌手デビューすることに。
 ところが、一昔前のテクノ少年みたいな格好したボーイッシュなウィンの飾らない魅力に、なぜかローズもサムも参ってしまう。ウィンはローズにがんがん迫られるし、サムはサムで自分がゲイではないかと思い悩むし、もうてんやわんやである。このあたりのドタバタぶりはなかなかウマクて見飽きない。
 多分に少女マンガ的ノリであるとは思うけど、気軽にさくっと楽しめる。それにアニタ・ユンの天真爛漫さぶりは、好感もてます(でもこの子、目がぎょろっとしておちょぼ口で、いやでも西川きよしを思い出すんだよねー・・・)。
by kiryn (2001/12/12)

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カサノヴァ

Il Casanova di Federico Fellini
1976 年 伊
監督: フェデリコ・フェリーニ
出演: ドナルド・サザーランド
ティナ・オーモン
マルガレート・クレマンティ


 この映画、すごい。カサノヴァの顔がでかくて白くて、もう一瞥しただけでフツーじゃない。ゴンドラ漕いでも海は作り物っぽいし、登場人物の一人一人もフツーじゃない。悪夢とまではいわないけど、うなされそうな夢みたいな映画。表現できないです。じゃあこんなショボいコメントのせるなといわれそうですが、でも好きなんですね、こーゆーの。
 あ、瀉血される美少女は、ねこじるが使ってましたね。
by kiryn (2001/10/14)

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髪結いの亭主

le Mari de la Coiffeuse
1990 年 仏
監督: パトリス・ルコント
出演: ジャン・ロシュフォール
アンナ・ガリエナ
トマ・ロシュフォール


 妻が夫との最高の時間を永遠にとどめるために自殺する、というのは文学的なのかはたまたオヤジ妄想的なのか。唐突な最後には割り切れないものをかんじつつも、アンナ・ガリエナのワンピースの胸元から匂いたつようなエロスとか、床屋のおやじのすっとぼけたアラビック・ダンス?とか、ルコントってうまいなあと感心してしまった。
by kiryn (2001/10/9)

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カウガール・ブルース

Even Cowgirls Get the Blues
1994 年 米
監督: ガス・ヴァン・サント
出演: ユマ・サーマン
ジョン・ハート
レイン・フェニックス


興行的にはコケたらしい本作ですが、あたしはハマッテしまいました。
なんといっても、「両手の親指がやたらでかくて、ヒッチハイクするために生まれてきた女の子の物語」という設定がバカバカしくて好き。ユマ・サーマンが親指一本(二本か?)で車はおろかヒコーキまで停めさせてしまう、そのシークエンスをひたすら巻き戻して観てました。音楽もK.D.ラングでヨイです。記憶に残るイメージでは、ダン・ヒックスの「コースト・トゥ・コースト」もぴったりだと思っています。
by kiryn (2001/10/9)

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The Mirror
監督: アンドレイ・タルコフスキー


 十代のころ、気に入っていた映画の一つにアンドレイ・タルコフスキーの「鏡」があった。――燃え上がる家、風になびく草、雪のなか少年の頭にふいに止まる小鳥、憂鬱そうな母の眼差し、湿り気を帯びた、水の気配を感じさせる映像――一つ一つのシーンの美しさに息を呑んだ。
 この映画は、記憶という、とても個人的で伝えようのないものを扱っている。
 主人公は声だけで姿はみえない。妻と離婚し一人息子をめぐって「わたし」と妻は口論する。息子の状況は、かつて「わたし」が置かれた状況と似ている。父が家を出ていってしまったあとの母が、記憶のなかから立ち現れる。現在と過去が入り混じり、そこに同時代の政治的事件の記録映像が挿入されていく(政治的出来事の挿入は、唯一、「わたし」の記憶を客観化させる方法だ)。
 今の「わたし」が置かれている状況が、過去の記憶を呼び覚ましていく。
 母は憧憬と哀れみの対象だ。父は姿を現さない。父の詩が「わたし」によって読み上げられる。母を捨てた父は、妻と別れた「わたし」と重なる。「わたし」を捨てた父は、息子と別れた「わたし」に重なる。「わたし」は父にもなり息子にもなって、記憶のなかでつながり重なっていく。
 同じように、母と妻もまた一つの姿に溶解していく。けれども、「わたし」が彼女たちに重なりあうことはない。母(と妻)が何を考えていたのか、何者であったのかは、実は分からない。「わたし」は母をいくら思い出しても、「鏡」に映った母の姿しか見えない。
 母とはそういうものなのだろうか。「息子」の語る「母」は、つねに「鏡」に映った影でしかなかったのだろうか。この映画をみると、いくつもの解けない思いがよぎり、どうにも表現しがたい気分に駆られる。少なくともわたしにとっては、まるっきり自己投影できる映画でもなく、だからといって、突き放して見ることもできない映画だ。ただ、映像の比類なき美しさに誘われて、わたしもまた自らの記憶の海に沈みこんでいく。
(Wednesday, March 21, 2001)

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