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キンスキー、我が最愛の敵

Mein Liebster Feind
1999 年 独・英
監督: ヴェルナー・ヘルツォーク
出演: クラウス・キンスキー
フォン・デア・レッケ夫妻
フスト・ゴンサレス


 ヘルツォークとキンスキーの目の眩むような邂逅。互いが互いを触媒として爆発力を高めたような関係。濃すぎる。船が山を登ったっておかしくない。
 それでも、キンスキーから離れない蝶々と笑い戯れる彼の姿をずっと撮っている最後のシーンは、とても切なくて、すばらしい。この映画はキンスキーに対するヘルツォークの、ユーモアと愛惜に満ちた美しいオマージュだ、と思った。
by kiryn (2001/10/8)

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オルランド

Orlando
1992 年 英・露・伊・仏・蘭
監督: サリー・ポッター
出演: ティルダ・スウィントン
シャーロット・バランドレイ
ヒースコート・ウィリアムズ


 ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』を映画化した作品。エリザベス1世の時代から現代まで、時空を超えて生き続ける青年貴族オーランドが主人公。
 エリザベス女王の時代にロシアの姫君と氷上スケートを楽しむ様子、大使となって中近東に赴任する様子など、見事な絵巻物になっている。
 いちばんのハイライトは、オーランドが病に伏したあと、女性に変化するシーン。なぜ女性になったのか、などは問われない。オーランドは女性になった自分をすんなりと受け入れ、「わたしはわたし」と呟く。このあたりは、フェミニストとしてのウルフの思想が鮮やかに簡潔に表現されているところだろう。オーランドは今度は、青年貴族の姿から美しい貴婦人の姿となって皆の前に姿を現す。
 ところが時代は18世紀。女性に相続権や財産管理権など、貴族の家長としての権利は一切認められていなかった。オーランドは一切の財産を失う。そして彼女はアメリカに渡り、南北戦争を舞台にある男性と恋に落ちる。彼とのこどもを生み育てるとき、オーランドは20世紀に生きている。
 オーランドは、彼であり彼女であり、女性の恋人であり男性の恋人であり、自由にジェンダーの境を越境し攪乱しつづける。不思議な魅力と力強さに満ち、わたしたちの想像力を喚起しつづける。
by kiryn (2001/12/12)

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アナザー・カントリー

Another Conunry
1983 年 英
監督: マレク・カニエフスカ
出演: ルパート・エヴェレット
コリン・ファース
ケーリー・エルウィス


 この映画、80年代半ばくらいに一部でものすごくブレークした。美青年モノというかヤオイ系というか、その方面ではもはや古典中の古典ですね。岡野玲子の「ファンシイ・ダンス」等でもパロディにされたりしてましたね。でも、ストーリー自体はしっかり作ってあって、見ごたえはいろんな意味である映画だと思う。
 筋立ては、イギリスのエリートコースから脱落してスパイになり、ソ連に亡命した人物の回顧というもの。こういう政治くさい設定にはちょっと弱い。
 感想は、なんというか、パブリック・スクールに通っている連中って、こんなに性格悪いやつばっかなの?というところ。主人公のエリートコース脱落の原因となった同性愛の相手は、顔だけが取り柄のアホウってかんじだったのに、最後には大蔵省かなんかの方向でエライ出世したという説明がついていて、うっそぉ!!てかんじだった。
 この映画をみた人間からは、コリン・ファースの演じた「ジャドがよかった」というコメント以外は聞いたことがない。ジャドくんは消灯時間なのにベッドでマルクスなんかを懐中電灯で読んだりして、おまけにスペイン内戦に義勇兵で参戦してあっさり戦死しちゃったという人だ。このおもいっきりイデオロギー左翼で硬派なお兄さんに、日本のうら若きオトメたちがラブコールを送ったのは何ででしょうかねえ。他の連中の性根が腐っているからではないか、というのがわたしの推測です、はい。
by kiryn (2001/10/9)

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アギーレ、神の怒り

Aguirre/der Zorn Gottes
1972 年 西独
監督: ヴェルナー・ヘルツォーク
出演: クラウス・キンスキー
ヘレナ・ロホ
ルイ・グエッラ


 観たいけどなかなか観る機会に恵まれなかったヴェルナー・ヘルツォークの映画をはじめて観た。予想以上に、おもしろかった。順番的には、「フィツカラルド」(1982年)→「キンスキー、我が最愛の敵」(1999年)→「アギーレ・神の怒り」(1972年)という順に観たのだけれど、今回は「アギーレ」について。
 映画の舞台は16世紀の南米、エルドラド発見という野望のためにスペイン軍に反逆したドン・ロペ・デ・アギーレは、数人の部下や捕虜とともに筏でアマゾンを下っていく。太陽の照りつける中、流れているのが分からないほどの速さで筏は進んでいく。鬱蒼とした川辺からは、姿を見せない原住民の吹き矢が放たれては部下が一人二人と殺されていく。アギーレの狂気の野望に支配された筏は、さいごは吹き矢と熱病と飢えのために彼を残して皆死んでしまう。死者を乗せた筏の上で、ただアギーレ一人が狂気の眼差しで「わたしは神の怒りだ」という独白を行うのである。
 アギーレに付き従った部下たちは、彼の野望を理解したから付き従うわけではない。その狂気と暴力を恐れて筏に乗り込んだ人々である。アギーレは世界から離れ、孤独の極北に立つ男である。その口から発せられる言葉を聞くものは誰もおらず、よしんばいたとしても、その言葉を理解することはできないだろう。映画を観ている観客にとってもまた、アギーレの野望を理解することは難しい。彼の最後の言葉を聞くのは観客なのだが、われわれもまたその言葉を理解することはできないのだ。だからこそ彼は「狂気」を表象した存在なのである。
 この映画を観て思い出したのがジェルジ・ルカーチの『小説の理論』である。ルカーチはここで、近代小説に現れる主人公を次のように特徴づける。すなわち、古代ギリシャの叙事詩で扱われる悲劇は共同体の運命的悲劇であったのに対し、近代小説の主人公は共同体と断絶しているところに特徴がある。彼の言葉・行動は他の人びとには理解されない。それゆえに近代小説の主人公は、必然的に狂人か犯罪者にならざるをえない、と。アギーレはルカーチの規定した近代人の一類型にほぼあてはまるだろう。
 ルカーチによると、近代小説の主人公は「神に見放された世界」に生きている。アギーレの独白「わたしは神の怒りだ」もまた、自分がもはや神とともにあった世界から大きく離れてしまったことへの自覚なのだ、と私は解している。つまり、この映画はきわめて(ある意味古典的な)〈近代人〉を扱ったものだといえよう。その点からすると、ある映画評論家が、ヘルツォークは「現実と夢の境がまだ判然としなかった中世の人間である」と述べているのは、わたしにとっては理解しがたい評価だった。
(Sunday, April 30, 2001)

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ブレードランナー

Blade Runner
1982年 米
監督 リドリー・スコット
出演 ハリソン・フォード
ショーン・ヤング
ルトガー・ハウアー
ダリル・ハンナ


 いまさらですが、「ブレードランナー」を観た。ただし、ディレクターズ・カット版で、80年代の公開版と比較はできない。自分がこの映画を観たのか観ていないのか自信がなかったのだけど、なぜか途中まで観ていた。なんでここまでしか観ていないのか理由が思い出せず、首をかしげるばかり。

 わたしはいい意味でも悪い意味でも?オタクではないので、コスチュームやデザイン等にマニアックな関心はあまりない。凝ってるなあと観ていておもしろかったし、そういう人たちを熱狂させたというのはよく分かる。個人的にはレイチェル(ショーン・ヤング)の、昔の女優のようなファッションはよかった。ただ、街中の猥雑さや多民族的な混沌といったものは、チョコチョコ出てくる日本趣味も含めて、今からみるとあまりにも(サイードのいう意味での)オリエンタリズムで、ちょっとうんざりした。

 ストーリーについていうならば、なかなかよくできていて面白かった。映画をみているかぎりでは確認できなかったんだけど、主人公のデッカード(ハリソン・フォード)もまたレプリカントなんだろうと思わせた。レプリカントと自認していないレプリカントが、邪魔者と指定されたレプリカントを始末するという設定には、彼らを造りだし利用しつくそうとする人間の残酷さが織り込まれている。レプリカントのロイ(ルトガー・ハウアー)たちが地球にもどってきて、彼らの生みの親である科学者を殺害してしまうけれど、何か綿密な計画があってそうしたとはとても思えない。奴隷であることの苦しみを人間に知らせることこそが、目的だったということになるだろうか。そして被抑圧者の苦しみを聞いた主人公もまた、彼らと同じ影の存在であろう点は、とても悲しい。
 人間の「自由」や「逸楽」は、そういったものを享受できない存在の「労働」と、彼らを作り出す差別構造の上に成り立っている。そういう意味で、この映画は差別やマイノリティの問題を扱っているともいえるだろう。
 ただ、抑圧された者、というテーマは90年代以降おそらくもっともポピュラーなテーマのひとつになっているが、この映画では、「抑圧された者」の表現が少々稚拙であったように思う。端的にいえば、デッカード自身が抱える闇の部分が見えにくいし、ロイは語りすぎている。それに、随所に見られるオリエンタリズムもまた、「オリエント」を一括りにして表象してしまう乱暴な眼差しだと批判できないこともない。ただ、それはこの映画のセールス・ポイントなので、こういってはミもフタもないのかもしれないけれど。

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ヘドウィク・アンド・アングリー・インチ

Hedwig and the Angry Inch
2001年 米
監督 ジョン・キャメロン・ミッチェル
出演 ジョン・キャメロン・ミッチェル
マイケル・ピット
ミリアム・ショア


 東ベルリンで性転換手術に失敗したヘドウィクは、やってきたニューヨークでドラック・クィーンとしてドサまわりする日々。彼/女の作った歌は昔の恋人に盗用され、今じゃ恋人は大スター。プラトンの『饗宴』をモチーフに、切り取られた魂の半分を探す美しい歌を歌いながら、ヘドウィク自身の「魂の彷徨」が語られていく。
 観る前は「ベルベット・ゴールドマイン」を想像していたけど、それよりも、「わたしの人生」を語ってくれるヘドウィクに、「トーチング・トリロジー」を思い出した。でも「トーチング」や「ベルベット」に比べても、一昔前のゲイ映画にある暗さがあまりない。元がミュージカルだから、話の展開にテンポのよさがあるのでそう思えるのかもしれないけれど、映画的にみても笑えるシチュエーションが多くて、とてもコミカル。
 だいたい、東ベルリンの瓦礫の山(ごみ置き場?)で真っ裸で日光浴しているところを黒人のアメリカ兵に見初められて結婚て、なんじゃそりゃな状況よ。おまけに性転換までして苦労して東ベルリンから出国したのに、アメリカにきたらベルリンの壁が開いちゃって、あの苦労はなんだったの?みたいなことになってるし。それに例の「アングリー・インチ」もどう考えてもオカシイ・・・とにかくこんなかんじで、ヘドウィクのキャラクターが非常によく作りこんであって、おまけに彼/女はとても美しいので、見ごたえあった。歌もよかったしね。
 難癖つければ、盗作した元・恋人は、ヘドウィクの切り取られた魂の半身としてみるには役不足すぎ。あと、ヘドウィクの「夫」として登場していたバンド仲間の兄さんは、後半あたりからやっと女性だってことが分かるんだけど、彼/女についてはもっとしっかり描いてもいいんじゃないかなと思った。男と女の境界線に立つ存在としてはヘドウィクの鏡になっているはずだけど、どうもヘドウィクばかりにスポットライトがあたりすぎて、その辺が霞んでしまっていたので、ちょっと残念だったかな。

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