manderlay
2005年、丁抹・瑞典・蘭・仏・独・米
監督:ラース・フォン・トリアー
出演:ブライス・ダラス・ハワード
イザック・ド・バンコレ
ローレン・バコール
『ドッグヴィル』を見たときにも思ったことだけど、今回の映画の内容も、何が「アメリカ的」なのかを把握するのに苦労した。もちろん、南部の黒人奴隷制というテーマはアメリカのものであるし、グレイスが体現するデモクラシーと啓蒙の精神への疑うことを許さない理想化はとてもアメリカ的ではある。とはいえ、デモクラシーが暴走する危険性は古代ギリシアから散々指摘されてきた話である。主人と奴隷の共生関係も、アリストテレスの家政管理論やヘーゲルの主人と奴隷の弁証法を思い出せば、別段衝撃的な話でもないし、まして「アメリカ」固有の話ではない。人間が平等ではないということを前提にした支配の論理は、古い歴史をもつ国々であれば大概会得してきた類の話ではあるだろうから。
だとすると、トリアーはいかなるスタンスから、かくも悪意ある戯画を描けるのか? 彼にヨーロッパ人を代表させるのも極端ではあるが、これまた戯画的に言うならば、古い歴史をもち、人間は平等ではないという前提のもとに、人種理論を発展させ、アジア・アフリカを植民地支配し、ユダヤ民族の絶滅を遂行しようとした歴史と経験をもつヨーロッパであればこそ、アメリカン・デモクラシーの幼稚さを冷笑することもできるとでもいうわけだろうか?
正直この映画は、グレイスに体現させたアメリカ的価値観の「本質」を暴露することに衝撃的な成功を収めているとは思えなかった。〈帝国〉アメリカは、シンプルで・誰にでも納得でき・希望を与えることのできる価値であるからこそ、デモクラシーと自由と人権を、多民族・多人種国家を統合する原理として採用しているのだから。その理念の影の部分やリアルな側面を暴露したところで、それがどうした?と今のアメリカならうそぶくだろう。これらの理念のもつ理想的な響きを利用しながら、国内統治と世界警察行動を展開している国なのだから。――こうした側面を逆説的に浮かび上がらせているという点では、「アメリカ」を描いているといえないこともないのかもしれないが。
(28.apr.2006)
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