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パーフェクト・サークル

le cercle parfait
1997年 ボスニア、仏
監督:アデミル・ケノヴィッチ
出演:ムスタファ・ナダレヴィッチ
アルメディン・レレタ
アルミル・ポドゴリッツァ


 
 90年代の後半だったか、ベルリンのクロイツベルクというトルコ系住民が多く住む町に足を運んだとき、案内をしてくれた人が、道端に座り込んでいた女性と子どもをさして、「あの人たちは難民だ」と教えてくれた。一瞬通り過ぎただけで、彼女たちがいつからそこにいて、いつまでそこにいたのかは知らないし、本当に難民だったのかもよく分からない。ただ、内戦によって生み出された難民が西ヨーロッパに大量に逃げてきているという事実報道と、道端に座り込むしかない二人の姿が重なりあって、東欧からバルカン半島にかけての民族紛争がほんとうにすぐ近くで起こっていたことなのだという実感をもった瞬間だった。
 この映画では、旧ユーゴスラヴィアの内戦渦中のサライェヴォを舞台に、老いた詩人と孤児となった兄弟が、互いに見知らぬ者同士ながら、擬似家族を作りつつ生きていく姿が描かれている。
 タイトルとなった「完全なる円」が何を意味するのか気になっていたのだが、作中、詩人がコンパスも使わずにぐるりときれいな円を作る場面がでてくる。「完全なる円」はそのまま、セルビア兵の無差別攻撃によって包囲されたサライェヴォの街と重なる。詩人は自殺願望と詩も紡げなくなるほどの深い絶望によってサライェヴォの街を離れようとせず、幼い兄弟は詩人の尽力にもかかわらずサライェヴォの街を離れることができない。「難民」になることすらできなかった、あるいは難民になろうとしなかった人々がいたのだということに、胸を衝かれる。内戦に巻き込まれた人々にとって、気がついたら、「完全なる円」の内側に閉じ込められていたという事態だったのだろう。自分たちが暮らしていた場所が、ある日、世界から隔絶された絶望の地と成り果てていたのだ。
 1997年の作品で、撮影はまだ内戦の渦中で撮られたという。直接の戦闘シーンが描かれるわけではない。しかし、普通の人々が内戦下でどのように生活していたかがよく分かる。水の配給、闇市での物々交換、家中に隠しておく食料、燃え上がる建物、砲弾で崩れた家屋、炎上した車両、横転させた車や車両で作ったバリケード、背を屈め小走りに大通りを渡る人々、常に聞こえる銃声の音――いつどこから弾丸が飛んでくるか分からないという「日常」は、悪夢以外の何ものでもない。
 そうした状況下で描かれる詩人と子どもたちのエピソードは、一つ一つが切なく、輝かしい。詩人自身の自殺するイメージが頻繁に繰り返されて、絶望の度合いが深まっていくにつれて、子どもたちの無邪気さや健気さが何ものにも替えがたいものとなってくる。秀逸な映画だと思う。ただ、わたしは多くを語ることはできない。感情の固まりが、見終わったあとにも胸のなかで疼いてる気がして、言葉にすることができない。
(09.jul.2005)
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ノン、あるいは支配の空しい栄光

Non au a Vã Glária de Mandar
1990年 葡・仏・西
監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
出演:ルイス・ミゲル・シントラ
ディオゴ・ドリア
ミゲル・ギレルメ


 オリヴェイラ監督の映画で見たのはこれが二本目である(一本目は『神曲』)。意欲的で哲学的な映画を作る人だなという印象はますます強まった。この監督が好きかどうかはまだよく分からないのだけれど、1908年生まれでなお現役で映画を撮りつづけるその姿勢にはひたすら脱帽する(しかも毎年一本! 生産力高すぎだよ)。
 「ノン、あるいは支配の空しい栄光」は、オリヴェイラがポルトガル史を通して「敗北」を描こうとした作品。ポルトガル史そのものについては、ヴァスコ・ダ・ガマを除いてほとんど知らないことばかりだった。おそらく、この「知られなさ」というのは「敗北」と密接に関連している。「敗北」はグランド・ヒストリーから排除されていくことであるのだから。
 以下、かんたんなあらすじを述べておく。
 
 まず、国連の勧告に反して植民地を手放さそうとしなかったサラザール軍事政権によって、植民地維持のためアフリカに送り込まれたポルトガル兵士たちが登場する。この小隊を率いる陸軍中尉はかつて大学で歴史学を研究していたという人物であり、彼が部下たちに向かって、任務の合間にポルトガルの「敗北」の歴史を語るというスタイルが取られている。
 「敗北」の歴史は4つ。1つ目は、紀元前、古代ローマと闘って敗れたルシタニア部族の話。2つ目は、王子の不慮の死によるポルトガル王国建設の頓挫(誰か忘れた、、、あとで調べます)。3つ目はドン・セバスチャン王が、モロッコの内紛に乗じて始めたアルカセル・キビールの戦い。このとき、行方不明となったドン・セバスチャンは、いつかポルトガルの解放のために戻ってくるという「伝説」の人物なのだという。この「伝説」は映画の最後で効果的に用いられている。ついでにいうと、それぞれの「敗北」の歴史には、物語を語る例の中尉が出演している。
 最後に4つ目として、現在(1970年代当時)の国際的孤立のもとで植民地政策を遂行するポルトガルの「敗北」を、ゲリラと衝突した中尉たちが「実演」していく。爆音や、何分も続く機関銃の発射音だけが密林のなかで延々に響き渡る。それから、負傷した小隊の兵士たちは軍のヘリで病院に運ばれ、ある者は足を失い、ある者は顔面を包帯で覆われてベッドの上に横たわる場面が続く。中尉はここで最期を迎えるのだが、その苦悶の死を、顔面を包帯で覆われた負傷兵の目が凝視する。映画の末尾に近い後半部分は、それまでの中尉たちの饒舌な語りと比べて、話し声はほとんど消え去り、一切が沈黙のうちに終わってしまう。後半の異様な緊張感をもった展開は、必見である。
 中尉の最期は、敗北の歴史の幕でもある。彼の夢のなかに、アルカセル・キビールの戦いの敗北のあと、死体が累々とつづく平野に、「支配の空しい栄光」を「ノン」という否定語でもって語り自害する老人が登場する。映画のハイライトともなる部分であり、オリヴェイラが語りたかった部分だろう。
 『神曲』をみただけで、オリヴェイラについては何も知らないが、彼の作品にはニーチェやドストエフスキー、実存主義の影響が色濃いように思うし、二極論的思考が強い。ここで言われるNONも、「支配の空しい栄光」を否定したり批判したりしているというよりは、ある意味普遍性をもった「絶対否定の極致」をさす言葉なのではないかという気がする。もう少し踏み込んで言えば、NONという言葉の発話行為のなかに、歴史や運命の不確定性に翻弄される人間が、拒絶の意志と精神をもつ存在でもあるという、ぎりぎりの存在意義を収斂させているのではないかと思った。その言葉は、表舞台から消され、沈黙のうちに葬りさられていく大半の歴史を掘り起こしていくときに、また、そうした狭い回路を辿ることによってのみ、浮かび上がってくる文字なのだろうし、監督が映画を通して浮き彫りにしたかったテーマそのものかと思われる。
 最後、伝説の王セバスチャンが登場し、剣の切っ先を自らの腹にさして自害する場面は、「ポルトガルの解放」と1974年のカーネーション革命とが重ねられている演出である。映画を終えるためのピリオドは一応打たれている。しかし、NONという言葉がポルトガル史の枠を越えるものである以上、ピリオドは永遠に打たれることはないのだろう。
(27. jun. 2005) 

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猟奇的な彼女

2001年 韓
監督 :クァク・ジェヨン
出演:チョン・ジヒョン
チャ・テヒョン


 だいぶ前に話題になった韓国ラブ・ストーリー。殺伐としたわたしの日常に潤いを、ということでlove & laughを期待したうえでの選択だった。よくも悪くもマンガっぽくて、だいぶ荒削りな作りなんだけど、勢いは感じられる作品だと思った。
 やさしいけど優柔不断という男の子が主人公のマンガって、ヒロインの「女」度数が高すぎて、ヘタすると「それは作者の妄想」域に転がることも、ままある。でもこの映画のヒロインは酒癖も口調も態度も悪くて、しかも自作の小説では常にヒーローになりたがるという、見ていてアホっぽくも小気味のいい設定だったりするので、「前半戦」はかなり楽しめた。
 でもこの暴力女っぷりが「後半戦」は控えめになってしまって(いつまでもやってられないんだろうけど)、しかも微妙にオトメチックになっていって(キャラとしてはブレてませんか?)、無難にラブトーリーの枠に収まってしまった。安心してみていられる分、興行的成功作品というかんじで、あまり記憶に残りそうにない。前半はリアリティがあっておもしろいんだけど、後半はドラマ的・マンガ的に「よくある話」なんだよね。まあ、「延長戦」のオチをすっかり忘れさせていた点は、中身がそれなりに濃ゆかったってことなのかな。
コメントはこちらまで。
(07.jul.2005)

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愛の神、エロス

eros
2004年 仏・伊・米・中・ルクセンブルグ
「若き仕立て屋の恋」
監督:ウォン・カーウァイ(王家衛)
出演:コン・リー(鞏俐)
チャン・チェン(張震)

「ペンローズの悩み」

監督:スティーヴン・ソダーバーグ
出演:ロバート・ダウニーJr.
アラン・アーキン

「危険な道筋」

監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
出演:クリストファー・ブッフホルツ
レジーナ・ネムニ


 タイトルどおり、「エロス」をテーマにした三人の監督によるトリロジー。三者三様のエロス論が楽しめる、といいたいところだけど、内容的には王家衛に一番満足しました。
 「若き仕立て屋の恋」という、ルコントを思い起こさせる日本語タイトルの原題は、シンプルに「The Hand」。娼婦の「手」と仕立て屋の「手」が、場面場面で、言い尽くしがたい情念と恋情と欲望と絶望を語り、短編ながらもとても密度の濃い映画に仕上がっている。物語が狭い部屋のなかで終始しているのも、密度を高める効果を生んでいるのだと思う。王家衛特有の陰翳の深い映像美は今回も十分堪能できる。コン・リーのふくよかな肉体を包む、絹で織られたチャイナドレスの繊細かつ大胆な模様が空間を彩るあたりなど、画面構成などもすばらしい。とにかく完成度の高さはお見事。
 次の映画はソダーバーグ。「エロス」でソダーバーグ?という気持ちもあったのだが、見てみないことには分からない。でも、見ているうちに耳のおくで、だいだひかるが「ど〜でもいいですよ♪」と歌いだし、そのあと記憶がなくなった。よってコメント不可です。
 気がつくとアントニオーニの映画になっていた。こんなワケわからん映画久々に見た。コメントできないです。専門的に映像分析できる人におまかせします。昔から詩や詩的表現に対する感受性はなくて、苦手ジャンルだったりするんで・・・。
 やはり東洋人には西洋人の感覚は分からないのだろうか、とかナントカありがちなプチ・オリエンタリズム思考が頭のなかをグルグルしていたのだが、パンフレットに書いてあった文章を読んで、ムリヤリ自分を納得させることにする。
 パンフ曰く、「今年92歳を迎えるイタリアの巨匠ミケランジェロ・アントニオーニ」は、「下半身不随の上、すでに言葉も音もほとんど持たない世界で生きて」おり、「彼独自の世界観を宇宙的な視点で詩的に描いたエロス論に世界が驚愕した」、だそうです。
 わたしも驚愕しました。世界が驚愕したんなら、西洋人もきっと驚愕したんだろう。異次元です。王家衛で十分モトはとれるので、ある意味、観て損はない(多分)。
(May 6, 2005)
コメントはコチラで続いています。

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エターナル・サンシャイン

eternal sunshine of the spotless mind
2004年 米
監督:ミシェル・ゴンドリー
出演:ジム・キャリー
ケイト・ウィンスレット
キルステン・ダンスト


 脚本家が『マルコビッチの穴』のチャーリー・カウフマンで、ラブストーリーという前知識くらいしか仕入れずに、この映画を見た。いったん別れた相手ともういちどよりを戻すというありがちな話を素材にしながら、とにかくトリッキーな作りで、予想以上に楽しめた。イヤな思い出や辛い記憶をきれいさっぱり消しますというヘンテコリンな商売をやっている会社がでてくるあたりから、『マルコビッチ』色がどんどん強くなっていって、やたらおもしろくなってくるのだ。
 映画の主人公ジョエルとクレメンタインは、つきあっているうちにお互いの粗が見えてきてケンカ別れしてしまう。瞬間湯沸かし器タイプのクレメンタインは、勢いあまってか、例の会社でジョエルの記憶を全部消してしまう。それを知ってショックを受けたジョエルが、自分もクレメンタインの記憶を消してしまおうと、例の記憶消去のクリニックに駆け込む。ジョエルが頭にでかい記憶消去装置をつけて一晩寝ている間、相当なドタバタ劇が繰り広げられるのだが、これはかなり笑える(というか、アレだよね、ドラえもんが5,6人でてきてケンカしながらのび太の宿題をする破目になる話と、状況がまるっきり一緒)。
 ともあれ、寝ているジョエルの頭のなかでは、クレメンタインの記憶が次々に消されていく。時間をさかのぼりながら思い出をたどっていくごとに、ジョエルは、消されていく彼女の記憶がなにものにも変えがたいものだったと気づいていく。記憶の底に埋もれていた二人の恋愛の記憶が掘り起こされては、次の瞬間には消去されていく――自分の記憶のなかを這い回るジョエルが、「彼女の記憶を消さないでくれ」と必死に願う気持ちに、見ている者も共鳴してしまい、ドタバタなのに切ないという、なかなか味わえない感覚を味わえるのだ。
 クレメンタインの目の覚めるような橙色の髪とかクールな青い髪とか、演出としてもとても魅力的で、印象的だった。伏線があとからどんどんつながっていく映画って、頭を使うけれど、やっぱりおもしろいね。
(14.apr.2005)

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ダンサー・イン・ザ・ダーク

dancer in the dark
2000年、丁抹
監督:ラース・フォン・トリアー
出演:ビョーク
カトリーヌ・ドヌーヴ
ディヴィッド・モース


 共産主義時代のチェコからアメリカに移民してきたセルマは、いずれ視力を失うという難病を抱えている。彼女は、自分が失明することは仕方のないことと受け入れていても、同じ病気が遺伝すると知っていながら生んだ息子ジーンには同じ苦しみを味わわせたくないと、必死に働いて手術代を貯めていた。それは彼女の「秘密」だったし、息子に「目」をプレゼントしてやることが彼女の生き甲斐でもあった。けれども、彼女が「秘密」を人に話してしまったために、彼女の運命は一気に暗転していく――。
 客観的にみるならば、セルマの人生は最初からとても幸福とはいえないものだ。移民でシングルマザーで、しかも難病を抱えている。そのうえ、運命の暗転によって、犯罪者の烙印をおされ、最後は死刑囚として殺される。あまりに悲惨な人生で、正直、裁判のシーンなどわたしは正視することができなかった。
 けれども映画を見終わったあとは、しばらくのあいだ、不思議な余韻に満たされつづけた。セルマという女性の像にぐっと近づいていくと、単純に彼女を不幸とか悲惨とか言いきることもできなくなる。
 映画のなかで、セルマ自身が、息子に必要なものは「母親」ではなく「目」なのだと叫ぶシーンがある。失明の恐怖を抱えつづけて生きてきた彼女が、同じ恐怖と苦しみを味わうと知っていながら子どもを生んだのは、「赤ん坊をこの腕に抱きたかったからだ」という。こうした立場におかれた女性が母親になることを選ぶとき、そこにはいったいどんな決断があったのだろう。おそらく、子どもを生んだことで自分の望みが果たされた以上、その子に対して彼女は「代償」を払わなくてはならないと考えたのではないか。彼女のその後の人生は、負債を払うことが第一の目的となったのだろう。だから、工場で必死にはたらいて手術代を貯めようとしたのだし、自分の命を救うために、その手術代を転用して裁判をやり直すという機会もかたくなに拒否することにもなる。彼女の生は、「贖罪」をねがう「殉教者」のそれに一番近いような気がした。
 もうひとつ、セルマにはミュージカルに対する熱烈な思いと類まれな歌唱力があった。機械の動く音や列車の走る音や換気口から聞こえる外の音や足音といった、単調でかすかな音をとらえては、空想のなかで、無限のふくらみをもった音楽とミュージカルの世界に変えてしまう。もちろん、苦しすぎる現実のなかでは、この能力も現実逃避としてしか機能せず、それがまた胸に突き刺さるのだが。ミュージカルという基本的にハッピィなものが、この映画では見事に反転させられた使い方がなされていて、それがすごく印象的だった(いや、もともと空想や歌の力というのは、悲惨な状況におかれた人間に唯一残されている自由なのかもしれない。そうした力のもつ原点の荒々しさと素朴さが表現されているともいえるのか)。
 それでも映画は最後に、彼女に「贖罪」が成ったことを教えている。おもうに、セルマにとっては、息子に「目」が与えられてはじめて、「母」であることも受け入れられたのだ。それは彼女が自分自身と和解することだったのではないか。処刑台にたった盲目の女がその声で歓喜の歌を、息子への愛の歌を奏でる場面は、彼女に与えられた才能と課せられた負債の二つが溶け合う瞬間である。悲惨の極致でありながら、魂が力強く光り輝く瞬間で、その衝撃は地味ながらもじわじわと効いてくる類のものだ。そしておそらくは、彼女の最期をみとどけた友人たちが息子への伝達者となること、それによって、母の愛を確信できずにいたであろう息子が一筋の希望をえることを期待させられるのだ。
 同じ監督の映画でも、「ドッグヴィル」を見終わったあとには、喉に骨がひっかかったような気分が残ったのだが、この映画には痛々しさだけではなく、どこかカタルシスも感じた。それは最後の結末ゆえかもしれない。
(24. jan.2005)

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神曲

a divana comédia
1991年、葡
監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
出演:Maria de Medeiros
Miguel Guilherme
Luís Miguel Cintra


 一言でいうならば、コテコテの西洋精神史絵巻というところだろうか。「アダム」と「イヴ」、「イエス」と「パリサイ人」、「マリア」と「マルタ」と「ラザロ」、白紙の第五福音書をかかげる「預言者」、ニーチェや反キリストを下敷きにしたアンチ信仰の徒たる「哲学者」、「ラスコーリニコフ」と「ソーニャ」、そして「イヴァン」と「アリョーシャ」のカラマーゾフ兄弟を一つの空間になげこんで、それぞれを対話させてしまうという映画である。ついでに、精神病院の院長とその助手、ラスコーリニコフに殺される老姉妹もでてくる。
 よくやるなあと正直思った。ヘタをするととんでもなく陳腐になってしまいかねない舞台設定である。けれども、まず舞台を精神病院(といっても瀟洒な建物だが)にすることで、現実から隔離されたメタな空間設定がなされている。それから、役者たちがそれぞれの役柄に徹して、すでに書物で語られたセリフを忠実に迫真の演技で語りなおすから、見ているうちにぐいぐい引き込まれていく。あと映像の美しさや、舞台を意識した画面構成、さいごに映画的虚構であることを強調する仕掛けなど、かなり緻密な計算と気配りとがなされていて、知的な印象を受ける映画である。こうした出来のよさが陳腐に陥ることを防いで、それなりの見物に仕立て上げられているのだろう。
 内容的には、男と女、肉体的な愛と信仰、信仰と知、精神と肉体、善と悪、英雄と貧しき者、傲慢と謙虚、科学と信仰、等々、二元論的極限形態の対抗関係が、それぞれの登場人物の口を借りて表現されている。いわば西洋思想のコラージュだ。試みはおもしろいと思うんだけど、いまひとつ心が揺さぶられるほどの感動とかはなかった。ちょっと出来すぎなのかも。以下、おもしろかった場面のだらだらとした列記です。
 まず、イヴがイエスに出会うと、誘惑する女から突然「聖女テレサ」になってしまい、アダムがオタオタしてイエスに文句をいいにいく、という設定が笑えた。また哲学者がねっとりしたイヤミな人物に描かれていて、イヤラシサ具合ではパリサイ人を断然抜いて、かなりいい味をだしている。ソーニャはちょっと小悪魔的すぎるかんじだけど、可憐でいじらしくて、トンデモ理論の持ち主ラスコーリニコフとの対話のシーンは、この映画の見所のひとつだろう。
 それから、皮ジャンにジーンズをはいたイヴァン・カラマーゾフが、バイクで病院に乗りつけるのはなかなかかっこいい。大審問官物語を完成させて、アリョーシャに聞かせにくるという設定だ。いちおう、大審問官物語の場面がこの映画のハイライトだけど、映画の趣旨に照らすならば、大審問官御大を登場させなかったのは物足りない。ドストエフスキーの原作においては、大審問官はイヴァンの部分的分身であると思うが、映画ではそこまでは読み込めない。せっかくイエスを登場させているのだから、ぜひ実写で、大審問官VSイエスをすればよかったのだ。そうすれば、権力と信仰、彼岸の王国と此岸の王国という二極論的大問題もつけ加えることができただろう。まあ、ハイライトのわりにはちょっとこの場面はショボイんだよね。イヴァンはかっこいいけど、あのヒゲ面メガネのTVディレクターみたいなアリョーシャはないだろ〜。アリョーシャらしいところがほとんど表現されてなくて、個人的にはがっかり。
 あと精神病院の院長ね。これは近代科学の代表者でしょうか? もはや信仰もなく、最後は自殺して、宙ぶらりんに浮いているのが象徴的だ。まあ近代人なんて宙ぶらりんな存在なんだろうけど、院長を殺してしまうあたり、オリヴェイラ監督の信条があらわれてるのかな、と思ったりして。
(05.jan.2005)
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2046

2004年、香港・中・仏・伊・日
監督:王家衛
出演:梁朝偉
章子怡
王菲


 今のところ、この映画の醸し出しているデカダンに思考回路が麻痺している状態である。映像は細部にいたるまでとても美しい。みているあいだ、ずぶずぶにはまりこんでしまった。デカダンの感性をもった監督としてヴィスコンティをおもいだしたりしたが、ヴィスコンティの場合、背後にはまだ規範的なものや規律的なものがあって、そこから堕ちていくところに頽廃美を見いだしているように思う。けれどもカーウァイの場合、そうした規範性はすでになく、ひたすら浮遊し越境し拡散していくような、イメージそのもののもつ美の力に殉じている気配がある。ヴィスコンティのもつマチズモを嗅ぎとってしまうから、どうもわたしはあの世界には入り込めないんだけど、カーウァイの映画はどっぷりはまってしまうヤバさを覚える。
 主人公チャウと彼のまわりに現れる女たちの艶やかでありながら猥雑な姿態、恋に戯れながら痛々しく傷つき、蝋燭の炎が一瞬強く燃えるように性的な匂いを放ちながら、すぐさま儚く消え去ってしまう脆さ、チャウの描くSF的未来に織り込まれたアンドロイドの少女的中性的な美――「2046」という記号の世界から列車は未来へとつきすすんでいるはずなのに、作家の視点はつねに過去へと向いつづける。彼の過去においてきた失意の恋の記憶は、未来の物語のなかでひたすらに美しく反芻されつづける。主人公が現実の世界でなんらかの選択肢の前にたたされると、かれはつねにそこから離れ、現実に捉えられることを避けていく。現実との折り合いをはぐらかし、イメージの世界をつくりあげてそこに浮遊する彼の姿に、タナトスに近づいていく感覚が浮き彫りにされているようにも思った。
 トニー・レオンも渋いが、チャン・ツィイーの痛々しい美しさや、フェイ・ウォンの儚げで人形のような姿態、折れそうな細い肩などにはもう理屈ぬきで見とれてしまった。ああもういちど見たいと麻痺した頭で思ってしまうような美しさ。ただし、一点だけ難癖をつければ、アンドロイドの恋の相手としての木村拓哉には違和感をいだいた。彼の醸し出す雰囲気がカーウァイの映画とまったく合っていない。木村自身にデカダン的なものが欠如しているからではないかと思うが、かなり重要な場面だっただけに不満が残る。
(19.nov.2004)
おまけのコメント

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華氏911

2004年 米
Fahrenheit911
監督:マイケル・ムーア
出演:ジョージ・W・ブッシュ


 この映画はもはやドキュメンタリーではないし「映画」でもない。悪しき支配者と虐げられる者たちという扇動的でベタなプロパガンダ映画の作りになっていることや、「ボーリング・フォー・コロンバイン」に比べても、構成や内容がめちゃくちゃになっていることは、このさいもうどうでもいい。ブッシュ政権の茶番ぶりを徹底的に笑い者にしつつ、その茶番っぷりは映画のなかだけに収まっていない。それこそ、この映画自体が茶番である。映画をめぐる一連の騒ぎも、憤りを感じたりカタルシスを感じたり拍手喝采したりするわたしたちも、この映画を通じて、21世紀初頭の収拾のつかない政治状況につながっている。
 いい映画だ、とは必ずしも思わないけれど、今の時代における政治的出来事の一つとしてなら意味はあると思う。見ていて体温のあがる映画であることはたしかだ。ムーアの意気込みとエネルギッシュな姿勢には脱帽。
(30.aug.2004)
コメントはこちら
こちらにもあります。

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誰も知らない

nobody knows
2004年 日
監督:是枝裕和
出演:柳楽優弥
北浦愛
木村飛影
清水萌々子


 父親の違う4人のこどもたちは、出生届けも出されず学校にも行かされずに、母とともに小さな世界のなかで生きてきた。ある日、母は新しい恋人と「幸せ」になるために家を出ていってしまう。その日から、こどもたちだけの生活がはじまった――。
 わたしたちは〈こども〉の無垢で真っ直ぐで疑うことを知らない眼差しに弱い。それをダイレクトに出しているこの映画は、監督自身のやさしさと文学性の高さを感じることができるいい映画だと思う。ただ、ヒューマンな温かさが感じられれば感じられるほど、違和感をおぼえてしまうのも事実。扱っている事件の深刻さからみると、どこか曖昧な空気に包まれている印象をうけるからだ。
 違和感の正体をさぐってみると、実際の事件そのものがもつ悲惨さと闇が何か透明なものへと翻訳されている点だろうか(実際の事件では、妹は事故死ではなく、長男とその友人による虐待の結果死んでいる)。実際の事件を題材にする以上、いくらフィクションとはいっても、事件そのものがもつ意味に切り込んでいく骨太さが必要な気もするのだが、どうもその辺が肩透かしをくらった気分である。
 もう一点。
 アリエスのいう、近代家族の出現によって誕生した〈こども〉は、現代にいたってますますその神聖さを強めている。〈こども〉の被傷性、弱者性、無垢性、無能力性は、すでにわたしたちの思考と感情にインプットされていて、罪なき〈こども〉が悲惨な境遇にあることに、わたしたち(先進国の人間、しかも成人、と限定すべきか?)の感情は耐えられない。〈こども〉は単なる労働力ではなく、取り替えのきく存在でもない。〈こども〉という存在自体に、「幸福になる権利」へのあらがいがたいメッセージが織り込まれている――少なくともわたしたちはそう解釈する時代に向いつつある。
 一方で、この世界には「貧困」というどうにも解消しがたい問題がある。多くの人間が比較的豊かな生活を享受できる先進国においてすら、貧困は発生する。貧困に対して、多くの人々は困惑をともなった無関心という態度をとる。関わり方も分からなければ、関わりたくないというのも本音だろう。見慣れてしまえば、貧困という残酷な状態すら「日常」である。
 
 この映画は、〈こども〉と貧困が結びつけられている。過剰なまでの物質的豊かさのなかで、食うにも困る貧困に落ち込んでしまう〈こども〉たち――「誰も知らない」というタイトルは、誰もあえてその貧困を直視しようとはしない、どこか困惑した無関心さを反映している、ともよめる。貧困者が〈こども〉であるという設定が、映画を観る者を一種のダブルバインドに陥らせるのだ。これは時代特有の感覚といえるのかもしれない。
 もやもやしたわだかまりを感じたまま映画館を出ることになったけれど、この映画はそれでいいのではないかとも思っている。何かを批判したり何かを弾劾したり、社会的なメッセージを送ったりするのではなく(それをすればいいってものでもないが)、むしろ映画的な文学性に昇華させてしまう点に、この映画自体が、この国にすむ人々の、貧困に対する困惑した態度をはからずも体現しているような気がした。
(17.aug.2004)
コメントさらに追加です。映画に対する評価がさらに厳しくなっていった・・・。
ダイアローグにつきあってくれた岡田さんとこのウェブログにも映画評あり。

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