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マルコビッチの穴

Being John Malkovich
1999年 米
監督:スパイク・ジョーンズ
出演:ジョン・キューザック
キャメロン・ディアス
キャサリン・キーナー
ジョン・マルコビッチ


 想像していた以上に屈折した映画だった。もう少し笑える映画だと思っていただけに、後味がかなりしつこく残るのが意外だった。後味が悪いという意味ではないんだけど、しいていえば、ゲテモノ系の高級料理を食べたあとみたい。
 偶然みつけた穴がマルコビッチの頭のなかにつながっている、という設定もヘンだけど、15分たったら高速道路わきの土手に放り出されるというのも、シュールなのか単にヒネリがないだけなのか、とにかくヘン。最後に、あんなにたくさんの老人がマルコビッチの穴に入っていっていいのか? マルコビッチの脳内でみんなどう落ち着くんだ? なんか謎多くて消化不良気味。「永遠の命」のロジックがよーわからんかった。
 とりあえず、マルコビッチがマルコビッチの穴に入っていって、ぜんぶ「マルコビッチ!」と絶叫するくだりはサイコーでした。あと、マルコビッチの無意識下(?)もおもしろかった。彼、すんごーくイジめられてるんですけど、あれは願望なの?トラウマなの? 心理学にも精神分析にも詳しくないので、理屈があるのか単におちょくってるだけなのか分からん。恋愛関係の黄金パターン・三角関係も(いやマルコビッチを加えると四角関係か)、こういう風に描かれるとおもしろいですね。ただスマートに描いているというよりは、ヘンタイ的。決してキライではありませんが、この映画、ヘンタイ度高し。個人的には、主人公の人形使いのウザさ加減に辟易。最近のアメリカ映画って、ナイーヴでコミュニケーションへたくそで、ちょっとオタク気味な男子がでてくるのが多いわよね、って素朴すぎるコメントでしょうか。
(08.Feb.03)

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吸血鬼ノスフェラトゥ

1922年 独
監督:F.W.ムルナウ
出演:マックス・シュレック
アレクサンダー・グラナック
グスタフ・フォン・ワンゲンハイム


 ドイツ表現主義の映画といえば、F・ラングとともにムルナウが並び称される。ヴァンパイアやフランケンシュタインを扱った映画はすごく多いけど、この映画はその原典といったところだろうか。
 「カリガリ博士」の場合、あの歪んだセットによって独特の不気味さを醸し出しているとすれば、ムルナウのこの映画は、ドイツの町並をそのまま使いながら、ノスフェラトゥの恐怖を描き出すのに成功している。ノスフェラトゥが運んだペストによって、ブレーメンの人々がバタバタと死んでいき、いくつもの死者の棺おけを担いだ黒衣の人々が、坂の上から何人も下りてくるシーンなど、なかなか印象的だった。
 吸血鬼をはじめ怪物を扱ったその後の映画は、どちらかというと、怪物をかなり人間臭く描くようになっている。ところがこの古典映画では、怪物は怪物のままに、その不気味さをこれでもかといわんばかりに表現してくる。映画的表現も、音声がなく、今の映画みたいにめまぐるしく画面展開したりするわけではないから、ノスフェラトゥの姿が入り口にじーと張り付いていたりすると、画面から妖気が漂ってくるような気配になっているのですよ。あれを感情移入できるような対象として見るのは無理だと思う。人ならぬものの不気味さをこうも描けるというのは、なかなかの力量なんだろうなあ。脇を固める登場人物もしっかり描かれているし、物語としても十分おもしろいと思った。
 でも、トランシルヴァニアからドイツのブレーメンに引越してくるのに、わざわざ不動産屋を呼びつけて契約したり(妙に律儀)、自分の棺おけを自分でかついでドイツまで密航していったり(せこい)、いつも肩に棺おけを抱えて一人で移動したり(いちおう「伯爵」なんだからもう少しお供を連れてくるとかさー)、見ていて「?」「?」となるシチュエーションも多かった。ちょっと笑えた。
 もうあんまり覚えてないんだけど、ピーター・カッシングの出てくるドラキュラ映画にハマった記憶がある。あの映画よりもこれは古いんだよねー。怪物のなかでもドラキュラはカッコイイ系ではないかと思うんだけど、その意味では「ノスフェラトゥ」はルーツではないかもしれない(だって壁にはりついてじーとこっち見てるんだもん、、、)。
(23,jun,2003)
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ウェイキング・ライフ

Waking Life
2001年 米
監督:リチャード・リンクレイター
出演:ワイリー・ウィギンズ
イーサン・ホーク
ジュリー・デルピー


 実写の映像をデジタル・ペインティングでさらに加工するという手法は、とりあえずスゴイ。たとえそれを思いついたとしても、金と手間と時間を考えたら、誰がそんなシンドイことするんだ?って思うようなことをやっている。実写でもなくアニメでもなく、しかもずっとユラユラ揺れていて、すごく不思議な映像だ。トリップ系の映像です。しかもストーリーがほとんどないに等しいので、催眠効果はばっちし。
 というわけで、映像のおもしろさはホメておきましょう。さて肝心のストーリーですが、主人公(ウィギンズ)が夢から醒めると、突然まわりの人たちが哲学を語りだすというもの。このあらすじを読んだときは「おもしろそう」と期待したのだが、実際にみたらちょっと冷や汗モノだった。なんとゆーか、『ソフィーの世界』の『STUDIO VOICE』バージョンてかんじで、かなりヤバいです。
 でてくる登場人物が深淵な哲学なり思想なりを語ってくれるのだが、これが延々続いてシャワーのように浴びせかけられる。深みのあるはずの内容が、全体としてみるとなんだかほとんど表面的な記号にしかなっていなくて、とてもじゃないけど、考えるための映画ではない。映像がトリップ系だから感覚の映画と割り切ればいいんだろうけど、それにしても、思想のカタログをぶちまけてるだけで、ユーモアもセンスもウィットも感じられない。堅すぎ。今もやってるのかしらんけど、『STUDIO VOICE』の見開きページによくあった系統樹を思い出しました。
 なんでこれが「2001年〜」と「並び」称されるんだ? 並んでないっしょ別に。映像だけ並んでもしょうがないと思うんだけど。キューブリックの教養に裏打ちされたハッタリやスカシっぷりには、ぜんぜん及んでないじゃん。だいたいこの映画みて、マジで「人間とは何か」みたいな重いテーマを考えさせられる人っているのか?(Wednesday, Jan, 01, 2003)
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予告された殺人の記録

Chronicle of a Death Foretold
1987年 仏・伊
監督:フランチェスコ・ロージ
出演:アントニー・ドロン
ルパート・エヴェレット
オルネラ・ムーティ


 ガルシア=マルケスの同名小説の映画化。何よりもこのタイトルがカッコイイのだが、作品の構成もきわめて理知的で美しい。
 「予告された殺人」というのは、被害者以外全員がその殺人の行われる可能性を知っていたにもかかわらず、誰もがその殺人を阻止しえず遂行されてしまった、ということ。むしろ、「殺人が起こるかもしれない」という人びとのある種の期待感が、殺人予告者を真の殺人者たらしめてしまったのではないか、とも思わせてしまうほどだ。
 映画はその日殺害されてしまうサンティアゴ(アントニー・ドロン)が、鳥の糞を大量に浴びるという夢をみるところから始まる。なぜ彼は殺害されなければならなかったのか。それは、結婚初夜に処女でないことが分かり、夫バヤルド(ルパート・エヴェレット)に実家に突き帰されてしまったアンヘラ(オルネラ・ムーティ)が、不義の相手としてサンティアゴの名前を挙げたことによる。この恥をそそぐため、名誉のために、アンヘラの双子の兄弟はサンティアゴを殺してやると町の人びとに吹聴してまわるのだ。
 多くの人が「バカなことはするな」と双子の兄弟を引き止め、あるいは本当にはやらないだろうと思っていたのだが、運命の歯車が回るように、偶然が偶然をよんでサンティアゴを殺すお膳立てが整っていってしまう。
 運命の瞬間、大きな広場に四方八方からこの殺人の成り行きをみようとして人びとが駆け寄ってくる。ぽっかりと空間が開き、そこに何もしらないサンティアゴが登場する。「逃げなさい、殺されるよ!」という悲鳴を聞いてサンティアゴは逃げ出すが、その声に促されるかのように、双子の兄弟はナイフをもって広場に駆け出していく。殺される者と殺す者だけがその空間に踊り出て、悲劇がクライマックスを迎える。息子サンティアゴを匿ったつもりで実は安全な家から締め出していた母は、窓をあけたとたん息子が殺されたこと知り絶叫する。この一連の映像の流れは、息をとめて凝視めてしまうほど流暢で圧巻である。まさにギリシャ悲劇を彷彿とさせるような場面なのだ。
 結局、サンティアゴがなぜ殺されなければならなかったのは、何年たっても分からないままだ。ほんとうにアンヘラの不義の相手だったのかも、当のアンヘラもはぐらかしたままなのである。
 事件の発端になるバヤルドは、肩からさげた皮の鞄に大量の札束をかかえて、ある日ふらりとアンヘラの住む町にやってきた人物である。彼は花嫁を探しにきたのだという。美しいアンヘラを見初めて、彼は彼女の心を得ようと大胆に迫ってくる。彼女の家族とも打ち解け、とんとん拍子でバヤルドの思い通りにいきそうな成り行きにアンヘラは不満を抱き、バヤルドに無理難題をいいつける。バヤルドはアンヘラの言葉をうけて、彼女のほしがる家を買い取ろうとする。この家には亡き妻の思い出ととも老人がひっそり暮らしていたのだが、思い出に値段などつけられないという老人にバヤルドは大金をテーブルにのせて家を売れと迫る。家を売ることを了承した老人は耐え切れずに涙を流すのだが、このあたり、恋する男の傲慢さが本当にうまく描かれていると思った。
 買い取ったその美しい家で、アンヘラとバヤルドは盛大な結婚式を挙げる。人びとに祝福されすべてがうまくいっていたはずなのに、二人の愛はアンヘラの裏切りによって壊れる。バヤルドは町を去る。それからアンヘラは、彼とのたった一夜の思い出を胸に、毎週のように彼に手紙を書きつづけるのだ。
 何年もたち、彼女が老いを隠せぬようになった頃、バヤルドは町に戻ってくる。肩から下げた鞄にはアンヘラからの手紙が何千通も束になって入っている。その手紙がアンヘラの家の庭先にばらまかれる。彼女はそれを見つけ、木陰に佇むバヤルドと再会を果たす。
 アンヘラとバヤルドがなぜこのような試練に耐えて愛をはぐくまなければならなかったのかは、推測するしかない。映画をみるかぎりでは、彼女は不義の相手を想い続けたようでもなく、バヤルドを愛していたと思われる。彼女は自らの意志で何年も手紙を送りつづける。彼は手紙の封を切っていなかった。切らずとも彼女からの手紙が意味するものはわかっていたのだろう。今度は彼女の愛が、彼を引き寄せたのだ。
 アンヘラは、ぬるま湯のような幸福のなかで生きつづけるよりも、自らの手でその幸福を壊して、真実の愛を求めようとしたのかもしれない。自らを破滅させてまでも情熱的な愛を選ぶ女だったのかもしれない。
 サンティアゴへの双子の兄弟の復讐劇が熱いパトスの奔流であるならば、アンヘラとバヤルドの悲恋は、恋の情熱を静かに滲ませてくるような関係である。この対称的な構図も美しい。おそらくもっと多層的・多重的に読み込める物語なのだろう。おもしろい映画である。

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テス

Tess
1979年 仏
監督:ロマン・ポランスキー
出演:ナスターシャ・キンスキー
ピーター・ファース
リー・ローソン


 原作はトマス・ハーディ『ダーバヴィル家のテス』、映画はいわゆる「女の一生」モノです。貧乏な身分に生まれたけれど、人並み外れた美貌に恵まれた女性がどういう人生を歩むかという筋書きで、正直、あまり好きなジャンルではない。この手の話は映画の題材になりやすいのか、洋の東西を問わず多い。むしろ「女の不幸」モノというべきか。美貌ゆえに波乱の人生を歩み、美貌ゆえに落ちぶれていく――基本的に大河ドラマ的なノリだと思うので、思うほど深みが感じられない。これは監督の力量の問題なのかな。
 19世紀のイングランドの田舎が舞台で、まだまだキリスト教の伝統や村の慣習も色濃く残っている、そんなところで主人公のテスは強姦されて不義の子を生まされる。暗い過去をもつテスは、やげて別の男性と恋に落ち結婚したけれども、夫に正直に過去を告白したばかりに夫はブラジルに逃げていってしまう。テスは夫が許すというまで待つつもりでいたけれども、父親を亡くした実家の没落は悲惨で、仕方なく、自分をかつて強姦した金持ちの男の情婦になる――。
 誰もが幸福と不幸のあいだを揺らいでいて、運命に翻弄される部分と自分の意志で運命を切り開こうとする部分とが交錯していて、その意味ではおもしろい。けれども、主要登場人物たちが「そんなに善くもなければそんなに悪くもない」人たちばっかりで、彼らの行動の描き方を見ているとついつい「甘いっ!」とツッコミたくなること多し。それならそれでいいから、もう少し人間の「どうしようもなさ」をも丁寧に描いてくれていたらなあと思った。ポランスキーのこの映画も、深くなりそうでならない。どうにもこうにも物足りない。
 まあ誰もが思うことだろうけれど、ナスターシャでのみ持っているような映画だ。彼女はとにかく美しい。テスの不幸が陳腐にならなかったのは、ナスターシャの寡黙で意志の強そうな目と表情が、何よりも抑制された美を感じさせてくれたからだろう。

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博士の異常な愛情

博士の異常な愛情または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか
Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb
1964年 米英
監督:スタンリー・キューブリック
出演:ピーター・セラーズ
ジョージ・C・スコット
スターリング・ヘイドン
 この映画、昔後半だけテレビで見たことあるけど、最初からあらためて見てみた。やっぱりすごかった。最近はもうキューブリック強化月間です。でも「シャイニング」とかは絶対みないと思う…。
 とりあえず、戦闘機の設備がものすごーくアナログだったのでびっくりした。指令の暗号が届いたら、暗号マニュアルのノートをだしてきてパラパラ調べているし、燃料の残りから飛行時間を紙と鉛筆で計算しているし。ソ連に水爆を落とすという重大な任務と戦闘機のアナログ度にギャップを感じてしまった。米ソ対立の時代って設備的にはこういうものだったのかなあ? アナログ・マニアにはウケるかもしれない…。
 登場人物の狂いっぷりはすごいです。ピーター・セラーズの三役は文句なしにすごいけど、どれも役者冥利に尽きるような役柄ばかり。でもこういうヤツら、ちょっとデフォルメされているけど、実際いるよなと思わせる点で、理解できる範囲内での不条理さかも。俗物大図鑑てかんじ? しかし極めつけ、博士の「総統、わたしは歩けます!」には笑った。ウハウハ地下帝国に入るためにオッサンも必死。どうせなら博士は最後はドイツ語で喋くりたおしてほしかったな。

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セプテンバー11

September 11
2002年 仏
監督:S・マフマルバフ、C・ルルーシュ、Y・シャヒーン、D・タノヴィッチ、I・ウェドラオゴ、K・ローチ、A・G・イニャリトウ、A・ギタイ、M・ナイール、S・ペン、今村昌平
 イラン、フランス、エジプト、ボスニア=ヘルツェゴビナ、ブルキナファソ、イギリス、メキシコ、イスラエル、インド、アメリカ、日本――各国の映画監督が「9・11」について撮った短編オムニバス。
 各国の文化的背景を背負った監督たちにあの事件をモチーフに映画を撮らせて、パッチワークのような作品にするという試みは興味深い。けれども、あの事件の衝撃度を考えると、たった1年やそこらで、あれが何だったのかを理解し説明できる者などいないだろう。だから、この映画が何らかの完成した図柄を示しているとはとてもいえない。現実の世界が劇的に変貌しつつある中での思考の軌跡、あるいは思考のドキュメンタリーと考えたほうがいい。今は、こういう形でしか表現できないのだと思う。
 あの事件に喰われていない作品などない、という前提にたてば、それぞれの映画は十分見ごたえがあった。
 ある映画監督が頭のなかに自爆テロの若者とそのテロによって死んだ若い米兵を登場させて、彼らと対話する作品(シャヒーン)、あの日NYの消防士として働いて犠牲になったにもかかわらず、イスラム教徒ということでテロリストの疑惑をかけられた息子を想う母を描いた作品(ナイール)は、事件以後、多くの人が考えたであろう事柄を比較的ストレートに扱っている。
 それから、9・11の意味など考える余裕もなく生きるのに精一杯の「弱者」が、この世界の大多数を占めているということ――あの事件はそのことをわたしたちに知らしめた。日干し煉瓦を作る難民のこどもたち(マフマルバフ)、病気の母の薬代のために学校を休んで働く少年(ウェドラオゴ)、たとえ先進国に住んでいるとはいえ、妻を亡くし孤独のなかに生きる老人(ペン)は、このテーマに関わる存在ではなかったか。
 民族浄化の悪夢の記憶をもつボスニア=ヘルツェゴビナ、自爆テロが続く泥沼のイスラエルとパレスチナ、この地域からの作品(タノヴィッチ、ギタイ)は、まるで対のようだと思った。誰もいない広場で静かにデモをする女たちの列と、自爆テロの現場でのグロテスクなスラップスティック的混乱状態。これらの地域に起こっていることが、9・11よりましだと誰がいえるのか。傷跡の深さに、言葉を失う。
 おそらく、物語はもっとたくさんあるはずで、この映画で扱えたものはほんの一部でしかない。起こった出来事のイメージだけは鮮烈だが、その背景にある謎はあまりにも複雑すぎて全貌が見渡せない。あれは何だったのかという問いに、21世紀を通して、わたしたちはずっと苛まれていくのだろう。
(Sep.18.2002)

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G.I.ジェーン

G.I.Jane
1997年 米
監督:リドリー・スコット
出演:デミ・ムーア
ヴィゴ・モーテンセン
アン・バンクロフト


 デミ・ムーアのスキンヘッドや筋骨隆々ボディやsuck my dick!ばかりが有名な映画だったけど、実際に見て、ま、そういわれても仕方ないわなと思った。
 何に話の焦点をあてたいのかさっぱり分からない。女が特殊部隊に参加して、という一点がこの映画のオリジナリティに尽きるし、湾岸戦争以降、現実に女性兵士問題は非常に大きな問題になっていったわけだから、この映画のテーマそのものは非常にユニークなものでありえたはず。リドリー・スコットもそのあたりの社会性は十分認識した上で、この映画を撮ったわけでしょ?
 会社とか大学とか議会といった社会組織においても、男性中心に組み立てられてきた秩序や組織や連帯のなかに女性が入り込んでいくのは、女性にとっても男性にとっても心理的負荷を伴うものだと思う。まして、軍隊という集団はきわめて男性中心社会であるわけだから、そこに女性が同じ仲間として入り込んでいくのは、他の社会集団の事例以上に難しいものがあるだろう。
 映画がどうも物足らないのは、オニール大尉(デミ・ムーア)の鍛え上げられていくボディ面や彼女が男性兵士に受け入れられていく様子など、客観的な側面は描かれているのだけれど、彼女の内面がほとんど描かれていないところにある。とにかく強靭な精神力をもち、男性兵士と同等に扱えと要求し、しかも彼らに引けをとらずに訓練についていくスーパーガールを目にするだけ。ただのエンターテイメントだったらこれでいいけど、ちょっとは社会性を意識している映画だとしたら、これはないんじゃない? 「テルマ&ルイーズ」では、精神的にどんどん成長してカッコよくなっていく人物を描いた監督だけに、かなり外したなあって思ってしまう。
 おまけに後半の「実戦」からはサイアクの展開。アメリカの都合で勝手にリビアに侵入して、ベドウィンに見つかったからといってリビア人を殺しまくって、挙句の果てに、作戦成功だか訓練終了だか何かで、オニール大尉たちみんながメダルをもらって終わるって、もう「ハァ?」てかんじ。疲れました。

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オール・アバウト・マイ・マザー

All About My Mother
1999年 スペイン
監督:ペドロ・アルモドバル
出演:セシリア・ロス
マリサ・パレデス
ペネロペ・クルス
 主要な登場人物たちは一人を除いて、ほぼ全員「乳房」をもつ人間!? 性別を超えてシスターフッドな映画です。精神的にマッチョな人間だとこの世界には入り込めないかも。
 
 マヌエラ(セシリア・ロス)は息子エステパンと暮らすシングル・マザー。エステパンは物書きになるのが夢で、母について書こうと考えている。母について書くために、エステパンは母の夫であり自分の父である人についても知りたいと強く願っている。エステパンは、17歳の誕生日プレゼントに父について語るよう、母から約束をとりつける。ところが、エステパンはマヌエラの目の前で交通事故で他界する。
 エステパンは父を知らずに死んだ。そして父もエステパンを知らない。彼女はかつての夫を探しだし、エステパンという息子がいたのだと伝えようと、バルセロナへ向かう。果たされることのない息子との約束を果たすために、マヌエラは一度は抹消した自分の過去に向き合おうとする――。
 アルモドバルという監督は、色彩や映像のセンスは抜群だけど、所々都合よく話を展開するきらいがあると思う。あのーここ絵の具がはみ出てません?といいたくなるようなところはあるんだけど、まあその辺を差し置いても、バルセロナでのマヌエラの描き方はなかなかうまいと思う。全身シリコンだらけのアグラード、妊娠した尼僧のロサ、レズビアンの大女優ウマと脇を固めて、彼女たちとの関係がテンポよく、しかも深みをもって描かれていく。
 最愛の息子を失った傷心のマヌエラだが、持ち前の強さから、ロサやウマやアグラードたちを慰め、あるいは叱咤し、彼女たちにとって無くてはならない大切な存在になっていく。マヌエラも自分の悲しみに浸るよりは、彼女たちを支え励ます役割に徹している。
 そしてかつての夫との再会。それは、息子が生まれてから死ぬまでの時間だけでなく、バルセロナで体験したさまざまなことも含めた上での再会となっている。この夫の登場のさせ方や描き方は、ある意味非常にアルモドバル的なんだろう。十分にこの人物を描ききったとは思わないけれど、スポットライトをマヌエラに当てていることは分かるから、あまり多くは要求すべきではないかもしれない。
 この映画を見ていると、人と人との関係が、たとえば「死」という残酷な形で断ち切られたとしても、いつしか、新しい関係性の網目がつくられていくのだと希望を与えてくれる。最初は誰もその存在を知らない、知っていても他人でしかなかったエステパンも、マヌエラが生きていくことで、いつしか誰もが彼の存在を知り、彼と心の絆をもつようになる。ロサは生まれてくる子に「エステパン」という名前をつけ、ウマは彼の写真を楽屋に飾っている。そのことがまた、マヌエラの心の傷を徐々に癒していくだろうことは想像に難くない。
 こう書くとなんだかしんみりした話みたいだけど、「うんうん、それからどーなるの!?」といいたくなるようなテンポのよさとハデな展開に、ラテンな国の監督にしんみりさを求めるのがムリというものですね。

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バリー・リンドン

Barry Lyndon
1975年 英
監督:スタンリー・キューブリック
出演:ライアン・オニール
マリサ・ベレンソン
パトリック・マギー


 サッカレーのピカレスク・ロマンをもとに、18世紀後半のヨーロッパに生きたバリー・リンドンの栄枯盛衰を描く大作。バリーの人生は、前半と後半に分けて描かれる。
 レドモンド・バリーはアイルランドのジェントリー出身だが、父を決闘で亡くしているため、親戚の家に居候している身分。初恋の相手の従妹は、はじめて恋を知った少女のフリをして、ぼんくらの金持ちイングランド人将校の妻の座を狙う。従妹に惚れこんでしまっていたバリーは、イングランド人と決闘して、結果、ダブリンに追放される。
 時代はちょうど七年戦争で、ヨーロッパ中が戦争状態にあった。つねに人員不足の部隊は、あちらこちらで兵員を補充している。追いはぎにあって一文無しになったバリーも、イングランドの部隊に参加する。
 途中、フランス軍とイングランド軍との闘いの場面があるが、これはこの映画の前半部分の圧巻である。太鼓を鳴らしながら、一列に並んで、英軍が仏軍にむかって行進していく。銃撃にさらされて歯が抜けていくように兵隊が死んでいく。さすがに戦争モノを撮らせたらキューブリックはうまい。
 頭もいいしケンカも強いバリーだが、こんなところで命を落としてはたまらないと脱走する。ところが捕らえられて、今度はプロイセン軍の一兵卒としてまたもや軍務に就くことになる。イングランドの兵隊がそんな簡単にプロイセンの兵隊になれる、というのもびっくりだが、いまだ国民国家が完成していないときであれば、こういうこともありえたのかもしれない。
 プロイセン将校に忠誠を誓うフリをしながら、なんとか転機を掴み取って貴族社会に入り込み、今度は博打で貴族を喰い物にする生活が始まる。ここでもバリーは、いつまでもこんな生活はしていられないと、死にかけの貴族の妻に目をつけ、まんまと彼女と結婚する。
 貴族的生活を手に入れたことで、彼の前半の人生はピリオドが打たれる。上流階級の仲間入りをしたバリーの人生は、停滞と守勢にまわるようになる。
 わたしにとっては、後半のほうが見ごたえがあった。
 まず映像のすばらしさ。お城や水面の輝き、緑豊かな庭園、衣装の襞の陰影など、バロック時代の絵画がそのまま映像で表現されていて(レンブラントの絵!)、映像美のオンパレードである。音楽もヘンデルなどバロック音楽が、非常に効果的に使われていて、このあたり、キューブリックの深い教養と遊び感覚のバランスは絶妙であると思う。 
 それだけにとどまらず、この芸術作品といっても過言ではない作品は、文学として観る場合にも並々ならぬ迫力をもっている。これほどたくさんの登場人物をだしながら、バリーを中心に描く太い線はきっちり最後まで崩れない。そして周囲の人々と織りなす人間関係は、複雑で、一級の腕をもつ作家ならではの力量でもって描き出されている。絵画のような映像にはめ込まれた人々は、その動きでもって、悲しいまでに思うとおりにはいかない人生模様を描き出すのだ。
 
 戦争や権力に翻弄されながら、なんとか人を出し抜いて世渡りしてきた男は、富や名声や権力を手に入れることにしか、自分の行動目標を設定できない。それゆえ、「ミスター」バリー・リンドンでしかない彼は、貴族の称号を得るために奔走するのだが、その努力は実を結ばない。貴族の生活スタイルや生活慣習を付け焼刃で身につけることは難しく、妻とも先夫の息子とも軋んだ関係しか結べない。それでも、貴族階級出身の妻は、彼が身代をつぶしていくのを黙って容認する。人形のように美しい妻は、ひたすら借金の請求書にサインをしつづけるのだ。なぜ彼女が、身分の違う成り上がり者を夫にしたのか、なぜ彼の身勝手さを許したのか――「愛」という言葉だけでは、説明しがたい重苦しさが残ってしまう。彼女がバリーのような男を選んだことは、自分の人生に対する自虐的だが消極的な反抗だったようにも思える。
 貴族的な生活を手に入れたバリーを包む鬱屈、妻の諦念、母への妄執と義父への恨みでいびつに育ってしまう息子、明るく振舞いながらも父母の不仲に幼い心を痛めていた年下の息子――悲劇は突然やってくるのではなく、長い時間をかけて編みこんできた図柄が完成したときにそれが悲劇だったと分かるような、そういう哀しさと憐れみを感じるような映画である。
 いや、悲劇というほど大げさなものではない。自分の人生はなぜこんな人生だったんだ?と問い詰めたくなるような人のほうが、世の中には多いのではないかと思う。一見華やかな変転の人生を送るバリーも、そういう人のうちの一人でしかない。それゆえにこの映画は、人間的存在の普遍的な哀しさを描いた傑作といえるのかもしれない。
プチ・コメント

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