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歌っているのはだれ?

КОТО ТАТО ЛЕЬА
1980年 ユーゴスラヴィア
監督:スロボダン・シヤン 
出演:パブレ・ブイシッチ/ドラガソ・ニコリッチ/アレクサンダル・ベルチェク
 1941年、セルビアの田舎にバスに乗ろうとする人々が集まってくる。彼らはみな首都ベオグラードに行きたいのだ。負けず嫌いで体力自慢のお金落ち、オーディションを受けに行く歌手、退役軍人のじいさん、まぬけなハンター、肺を病んだ病人、二人組みのジプシー、結婚したばかりのこどものような夫婦が、バスに乗り合わせる。オンボロバスの運転手は父子で、父は欲張りで抜け目のないやつで、猪突猛進型の息子は運転手。
 みんなベオグラードに早く行きたいのに、バスが次から次へとアクシデントに見舞われて、時間が延々伸びていく。旅は道連れといわんばかりに、道中の混乱ぶりは大層なもので、なかなか笑わせてくれる。それでも、田舎の道路を石炭の煙をだしながら走るバスを見て、のんびりしているよなあと思ってしまう。
 途中途中で始まるジプシーの歌で、「ビヨヨヨ〜ン」となる楽器が使われているのだけれど、あれはなんていう楽器なんだろう?
 実はこの映画の日時設定は、ドイツ軍がベオグラードを侵攻する前日ということになっているのだ。後半に進むにつれて、軍人たちが現れてバスの乗員をふりまわしていくなど、徐々に不穏な空気が漂い始める。最後の唐突な終わりまで見て、やはり、同じユーゴスラヴィアの映画監督エミール・クストリッツアの「アンダーグラウンド」を思い出した(今はユーゴだっけ?)。最後が似ている、というのではなく、悲惨な現状にもかかわらず、笑いを提供する図太い精神が、ユーゴスラヴィアならではなのかとあらためて思ったのだ。
 映画の発表は1980年。チトー政権が終わった年だけど、その後の民族紛争による最悪の状況を思えば、まだこの時期はそれほど深刻な時代ではなかったというしかない。となると、最後のシーンは、その後のユーゴスラヴィアを暗示したということになるのだろうか。

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2001年宇宙の旅

2001: a Space Odyssey
1968年 米
監督 スタンリー・キューブリック
出演 ケア・ダレー 
ゲーリー・ロックウッド 
ウィリアム・シルベスター


 もう2002年だけど、はじめて観た。その壮大さ、難解さゆえに映画史上に残るという超有名作品。第一の感想は、思いっきりアメリカンな映画だなーというところ。つまり、1960年代アメリカの科学的合理主義と神秘思想の合体という印象をうけた。1960年代のアメリカは、まだ経済力も衰え知らずだし、ソ連とはりあって軍事開発やら宇宙開発やらに莫大な金をかけていたし、ヒッピーだのウッドストックだのサブ・カルチャーもめちゃくちゃ勢いあったわけで、そういうアメリカン・エンパイヤーにしかできない壮大さがある。宇宙開発事業も今は昔の勢いないし、映画にしろ文学にしろ、良かれ悪しかれ、こういうスケールのでかさを追及するのは無理な時代になったなあと感慨ぶかい。
 映画はかなり哲学的だと聞いていたので楽しみにしていたのだが、正直、あの黒い板が人類進化の謎を秘めている、みたいな陳腐な進化論的ヨタ話に話がオチたらどうしようと思った。映画に関するかぎり、そういう風には展開していない、というか、明確に結末を提示せずに終えているから何ともいえない。ただ、たしかによく分からない最後だが、この「分からなさ」をなんとしても理解したいという欲求があまり生まれなかった。映像や音楽のセンスは圧倒的なものがあるし、文句なしにすばらしいのだが、内容的にはぐっとくるものがあまりなかったなあ。一般にいわれるほど哲学しているとも思えなかった。2002年に観たりするからでしょうか。(てゆーか、キューブリックが、こういうハッタリと目くらましが好きなんだろー。喰えないオッサンだから)
 哲学というよりは、神秘思想に近いと思う。思考よりも感覚の映画なのではないか。呼吸の音だけが聞こえる無音の宇宙で、コンピュータHALとデイブが孤独な闘いを繰り広げる場面までは、圧倒的に人間の理性と知性が表現されていた。デイブが一人土星に向かって以降は、理性の放棄だね。延々つづくサイケな宇宙映像が大脳を直撃してきて、ほとんどトリップ感覚におちいる。この対比はなかなか鮮やかで、かっこいい。
 「理性の支配」と「理性の溶解」が同居しても平然としているような精神は、いまさら語れないよなあと思っちゃうので、おお懐かしき20世紀よ、というところかな。
オマケです。)

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フィツカラルド

Fitzcarraldo
1982 年 西独
監督: ヴェルナー・ヘルツォーク
出演: クラウス・キンスキー
クラウディア・カルディナーレ
ホセ・レーゴイ


 「アギーレ」につづき、今度は「フィツカラルド」について。ストーリーは、南米のジャングルにオペラハウスを建てるという夢を抱いた男の話。オペラハウスに必要な資金を集めるため、フィツカラルドは、金になるゴムの木を求めて未開の土地探しに乗り出す。そのために購入した巨大な船が、アマゾン川の支流を昇っていく。姿を見せない原住民の威嚇の音楽が暗い川面にこだまするなかで、フィツカラルドは蓄音機からオペラを流して対抗する。これだけでもかなり異様な光景なのだが、その後、「船が山を登りだす」というトンデモナイ場面にでくわすのだ。
 フィツカラルドが、支流と支流を結ぶ陸のラインを船で乗り越えるという計画をたてたから、というのがその理由なのだが、山の木々を原住民に伐採させ、ダイナマイトで土地を平らにし、木々を組み立てて巨大な船をひっぱりあげる装置を作り出し、無数の原住民を使ってその装置の歯車を回していくシーンを大画面で延々観ていると、アタマのなかがぐるぐるしてくる。
 メイキング・オブにもなっている「キンスキー、わが最愛の敵」を見たとき、この部分はほんとうに船が動かず、スタッフが監督に見切りをつけ監督は2週間孤立したというエピソードになっている。そういうことを知ってしまうと、映画のほうも、もはや一種のドキュメンタリーとしてみたほうがよかろうと思ってしまう。
 話を元に戻すと、船は山を登り、フィツカラルドの計画は最大の難関を突破する。だが彼の計画は結局のところは失敗してしまうのだ。彼に船を売った男にフィツカラルドは次のような謎めいた話をする。ナイアガラの滝を見てきた人間が、故郷に帰ってナイアガラの滝のことを人に伝えようとするが、誰も信じてくれない。証拠は?と聞かれてその男は、私がそれを見たことだと答える――フィツカラルドはこういう話をして、それから、本来実現しようとしていたオペラ座をあきらめる代わりに、ただ一回限りの水上オペラを上演して、沿岸から歓声をおくる人びとにオペラを聴かせるのだ。
 彼があの航海を通じて「見た」ものは何だったのか。運命だったのか、崇高さだったのか、神だったのか、人間のちっぽけさだったのか――彼が何を「見た」かは、わたしたちにはつまるところは分からない。だが、彼はそれを一回かぎりの水上オペラという形に変換して、人びとに何かを投げかけるのだ。
 アギーレの語る言葉は人びととの一切のつながりをもたない性質のものであり、それゆえに彼は「狂気」を体現していた。ジャングルにオペラ座を立てるという夢を抱いたフィツカラルドもまた狂気すれすれのところにいる。だが、彼は最後にもう一度、世界に向かって何かを投げかけるのだ。この点でアギーレとフィツカラルドはまったく対照的な姿を見せている。つまり、世界との断絶を表象していたアギーレとは対照的に、フィツカラルドはもう一度、世界とのコンタクトを結ぼうとするのだ。船上オペラが上演されるなか、観客は彼を喝采で迎えて、映画は幕を閉じる。
 観終わっての感想。ヘルツォークという監督は、理性とファナティックさが同居していてなんだか得体の知れない人物なのだが、この二本の映画にはかなり魅了されてしまった。
(Sunday, April 30, 2001)

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ゼロ・シティ

Zero City
1990年 ソ連
監督:カレン・シャフナザーロフ
出演:レオニード・フィラトク
オレーグ・バシラシビリ
ウラジーミル・メニショフ
 不条理な作品といわれるものは多々あるが、その「不条理さ」がどの程度のものであるかは、現実の社会の混乱度を如実に反映していると思われる。
 シャフナザーロフ監督の「ゼロ・シティ」は1990年の作品である。1991年のソ連崩壊直前の発表で、すぐに国が消滅したということになる。とにかく、ソ連末期の相当な混乱状況のなかで制作されたのだろう。この事実を念頭におかなければ、理解の手がかりがないような映画である。
 社会の腐敗や混乱を風刺しているとか糾弾しているとか、そんな風にいえるようなエネルギーすらもはやなくなっていて、みんなわけのわからない世界に振り回されている。主人公のヴァラーキン(レオニード・フィラトフ)はこの世界からいくら逃げ出したいと思っても、そんな彼の意志などおかまいなしに、泥沼にはまっていくように、ナンセンスな状況にからめとられていく。
 仕事で訪れた事務書の秘書は、なぜか素っ裸でタイプライターを打っているし、レストランに入ると、デザートとして自分の首のケーキが運ばれてくる。給仕が首ケーキに頭からさっくりナイフを入れて、頭4分の1を切り分けてくれるの見て、ヴァラーキンは人並みに抗議するが、逆に、ケーキを食べないとこれを作ったコックが自殺すると脅される。ふざけるなと席を立とうとすると、例のコックがいきなり後ろでピストル自殺。しかもこのコックは、かつてこの町ではじめてロックンロールを踊った人物であり、そこには陰謀らしきものが隠されていて、ヴァラーキンはコックの息子として町のロックンロール大会で挨拶することになる……とここまで読んで、何を言ってるのか分かる人はいないでしょう。
 わたし自身、連日の疲れがたまっているせいか、ついついロシア語睡眠学習をしてしまい、ストーリーを見失ってしまっていた。もう一度巻き戻して見るんだけど、巻き戻してもこれがぜんぜん分からない。もう電波系映画だから仕方ないと、途中であきらめた。
 ヴァラーキンの首ケーキもすごかったけど、彼が町から逃げ出そうとするなかで、森の中の郷土博物館に行き着いてしまうシーンがある。この郷土博物館がすごい。地下25メートルくらいのところまでわざわざ下りていくと、蝋人形(まさかホンモノの人間?)で見る町の歴史という企画が展示されている。どれもこれも「オイオイ」てかんじの作品だけど、一番最後に出てくるのは絶句モノだ。等身大の人形が三層になって、しかも2台並んで高速回転している巨大な謎の物体を見たときは、思わず心のなかで「ハラショー!」と叫んでました。これは必見かも。
 話の展開はとにかくワケがわからないけど、このナンセンスさは、ある意味つきぬけたものがあって、あっけらかんとしているとも思った。最後に主人公はボートに乗ってとにかく脱出を試みるんだけど、どこに行くのかはぜんぜん分からない。先行きがあまりにも見えないと、「なるようにしかならん」とふっきれるのかもしれない。

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女は女である

une femme est une femme
1961年 仏・伊
監督 ジャン・リュック・ゴダール
出演 アンナ・カリーナ
ジャン・クロード・ブリアリ
ジャン・ポール・ベルモンド


 ゴダールって、こんなコミカルな映画もつくっていたの?とまずびっくりした。「24時間以内にこどもがほしい」と突然いいだすアンジェラ(アンナ・カリーナ)と、結婚するまでこどもなんか欲しくないと突っぱねる、パートナーのエミール(ジャン・クロード・ブリアリ)、このカップルの痴話げんかに巻き込まれるアルフレッド(ジャン・ポール・ベルモンド)の三人で繰り広げられるコメディ「女は女である」。
 いってみれば他愛のない三角関係モノだけど、たとえばもし今これをリメイクするのは相当難しいかもしれないな、と思った。何より、映像のこのセンスのよさは越えられないのでは? とにかく文句なくカッコいいし、アンナ・カリーナのかわいらしさは全開です。オープニングや字幕の文字の入れ方、アンジェラとエミールの住む部屋のインテリア、エミールの働く本屋さんでカラフルな色彩にいるアンジェラ、アンジェラの粋なファッション等々、絵になる映像のオンパレード。
 目玉焼きをポン!と空中に放り上げて、電話をとりにいき、もどってきてまたフライパンに目玉焼きをうける、というシーンがあって、こういうアソビってゴダールにしては珍しくない? そのあとアンジェラが、階段で目玉焼きをフォークでつっつきながら食べていて、これを見たとき、今日のばんごはんは迷わず目玉焼きにすると決心したよ。

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ユマニテ

l’humanite
1999 年 仏
監督: ブリュノ・デュモン
出演: エマニュエル・ショッテ
セヴリーヌ・カネル
フィリップ・ティリエ


 ブリュノ・デュモン監督の「ユマニテ」(l’humanite,1999年、仏)について。「ユマニテ人間性」という倫理的な響きを帯びたタイトルで、デュモンが現そうとしたものは何なのか――。
 晴れた日にはイギリスが見えるという町に住むファラオン(エマニュエル・ショッテ)は、刑事だ。二年前に妻と子を亡くして、今は母と二人暮し。自転車で汗を流し、畑で野菜を育てている。ある日彼は、11歳の少女の強姦殺人事件を担当することになる。目撃者がなかなか見つからず、捜査は難航する。捜査の静かな進行とともに、ファラオンが、隣に住むドミノ(セヴリーヌ・カネル)に誘われてその恋人ジョゼフ(フィリップ・テゥリエ)と3人でドライブをしたり海岸に遊びにいく日々が丹念に描かれる――。
 
 映画が始まってほどなく、殺された少女の下半身が映し出される。修正がかけられてはいるが、性器が映し出されている。開かれた白い足には赤い痣が点々とつき、蝿が這っている。草むらに放置された少女の死体を目撃したファラオンは、警察の廊下ですすり泣く。人間のすることではない、と。だが上司に、感傷より捜査だ!と怒鳴られる。
 また別のシーン。アルジェリア出身の麻薬の密売人が検挙される。おそらくひどく訛っているフランス語、母を知らず、麻薬のからんだ生活から逃れることなど思いつきもしない、貧しい男。彼に対してファラオンは言葉をかけず、ただ彼の匂いを嗅ごうとする。強姦殺人事件の犯人が最後に検挙されたときも、ファラオンは泣き止まない被疑者を抱きしめてキスをする。
 ファラオンはおそらく刑事には不適格なほど、繊細である。彼は他人の「悲しみ」や「痛み」を感じ取り、それを嗅ぎ取ろうとする。不器用に思えるほど、「言葉」を人間に対してはかけない。人間に対しては、彼はただ「悲しみ」を抱きしめ嗅ぎ取ろうとする。
 だが、少女の家族も、麻薬の常習犯も、精神病院の患者たちも、ファラオンによって癒されるわけではない。もちろん「癒される」と考えること自体が傲慢である。他人の「悲しみ」がそこにあることを無視せずに向き合うには、ファラオンのような形で共鳴するしかないと思う。けれども誰も救われはしない。
 それに、生きている者には「悲しみ」があるけれども、死んでしまった少女は心ある人々の「悲しみ」の材料になるだけだ。殺された少女の剥き出しの性器は、「強姦」「殺人」という行為のもつ暴力性を露呈させる(いやさせているはずだった。ここに機械的に修正をかけた映倫は、この映画が表現しようとしたことをこれまた暴力的に殺いでいる)。一人の少女がある日突然、誰かによってその生を強制的に奪われる。映画には、彼女の名前も顔も出てこない。死体となって、モノとなって放り出された姿以外の彼女を知る手立てはない。
 ただ傷つけられた死体を残すしかなかった少女には、「悲しみ」を表現することも許されておらず、ただ虚無だけがはぽっかりと開いたままなのだ。
(Sunday, July 15, 2001)

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ローラ

Lola
1981 年 独
監督: ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー


 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの「ローラ」を観た。観たのはいいんだけどドイツ語版で字幕なし。これはきつかった。自分のドイツ語力のなさをひしひしと感じておちこむおちこむ。でも今の時代、インターネットがございます。最近もっぱらご愛用のGoogleちゃんで検索して、あらすじを知ってしまえばオッケー、のはず。ところが、Google日本語では「ローラ」はヒットしないんですね。「ラン・ローラ・ラン」ばっかりでてくるの。もしかして日本では未公開なんだろうか。でも英語版に切りかえると、文句なしのドイツ語の情報をゲットできました。Googleエライ!
 映画の舞台は1950年代の西ドイツ、市役所の土木・建築責任者というかたちでフォン・ボームが赴任してくる。アデナウアー政権時代で、厳しいがそれゆえにある意味偽善的な性道徳が支配していた時代、建設ブームの波にのった企業家シュカートと彼の愛人ローラが、売春宿である賭けをする。堅物のフォン・ボームを、公衆の面前でローラの手にキスをさせられるかどうかという賭けである。ローラはそれに成功し、フォン・ボームは美しいローラを好きになる。あとでローラが夜の女だと気づいて深く傷ついた彼は、シュカートの関わっている賄賂まみれの建築計画をつぶしにかかる。けれども結局、彼の反抗はローラとの結婚で引っ込んでしまう。ローラは上流社会への切符を手にしながらもシュカートとの関係を続け、シュカートは建築計画を無事着工でき、フォン・ボームは腐敗した社会のなかにとりこまれて「幸福」になる。
 物語の最後が「結婚」で終わるのは、ハッピーエンドのパターンである。それまでどんなにゴタゴタがあろうとも、結婚によってすべては丸く収まる。この作品もまた最後を「結婚」で締めくくる。それまでのゴタゴタが収まり、みんなが「幸せ」になる。微温的に腐敗した時代には、「悲劇」などおこりえないし、「真の愛」など幻想でしかなく、実際には愛は打算的にしか現れない。だから、シニカルなハッピーエンドを描くのが精一杯なのだ。好き勝手に生きているはずのローラが、実は一番生きるのに飽きているようで、そのことが社会の閉塞感を如実に物語っているかのようだった。 
(Sunday, June 03, 2001)

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惑星ソラリス

Soraris
1972 年 ソ連
監督: アンドレイ・タルコフスキー
出演: ナタリア・ボンダルチュク
ドナータシ・バニオス
ユーリー・ヤルヴェト


 スタニスラフ・レムの原作は読んでいないので、どこまでがタルコスフキーのオリジナルなのかは分からない。ただ、かなり難解な映画だ、とは思う。
 以下、ストーリー紹介とかなり長めのコメント。
 某国において、惑星ソラリスを研究するというプロジェクトがあった。だが、ソラリスに向かった熟練飛行士や科学者がおかしくなってしまうという問題が起こり、地上では、このプロジェクトにこれ以上予算をつぎ込むべきかどうかが議論されていた。ソラリスの〈海〉が高度な知性をもっているのではないか、という仮説はすでに唱えられていたが、それは実証もされなければ否定もされないまま、ただ年月だけがすぎていた。宇宙コロニーに現在残っているのは3名の科学者だけ。主人公のクリス・ケルビンはこの計画の中止を伝える者としてコロニーに送り込まれる。
 クリスはそこで、荒んだコロニーの内部とスナウトやサルトリウスの奇妙な行動にとまどい、友人だったギバリャンが鬱病のために自殺したことを知る。彼はクリスに「これは幻覚ではない。良心の問題だ。わたしは自分で自分を裁く」という謎めいたメッセージを残していた。コロニーには彼ら以外の存在がいた。クリスのもとにも、死んだ妻〈ハリー〉が現れる。ソラリスの〈海〉が、人間の心の奥にあるイメージを具象化して送り込んでくるというのだ。
 最初にクリスがとった対応は、〈それ〉を宇宙空間に追い出すというものだった。彼は冷静に科学者として行動する。だがそれは無駄な行為だった。なぜなら、〈それ〉は異質な生命体などではなく、自らのうちに潜む「良心の問題」の具象化だったからだ。つまり、クリス自身が抱え込んできた問題を解消しないかぎり、〈それ〉は何度でも現れる。
 科学者たちは自分たちの使命として、ソラリスがもたらすこの現象を解明する義務を負う。けれどもこの現象は、科学者個人の「良心」や「罪」に関わるものが具象化するという形で現れている。科学的義務が道徳の問題に交差してしまうために、かれらはきわめて深刻な精神的危機にたたされていた。この問題に対して、サルトリウスは科学者としての自分を全面に押し出し、〈それ〉を研究対象としての単なる異質生命体と見ようと努める。スナウトは科学的義務と良心の具現の狭間に立たされて、混乱と憂鬱のなかに引きずり込まれている。ギバリャンは、良心の呵責に向き合い、そして己れを恥じて自殺する。
 クリスは〈ハリー〉を前に、ギバリャンと同じ、「良心」に従う道を選ぶ。10年前に妻は自殺した。彼は自分では気づかないうちに、彼女を追い込んでいた。おそらく、ハリー自身の神経過敏さ、クリスの少しばかりの冷淡さ、妻と母との関係がうまくいかなかったことなど、ちょっとしたひびが重なって、最悪の結末にまでいたってしまったのだろう。
 クリスは目の前の〈ハリー〉をもう一度愛そうとする。異質な生命体ではなく「妻」として。〈ハリー〉は、彼の「罪」を告発しにきたものにも、それを赦すものにもなりうる。ギバリャンは己の罪に耐えかねて自殺した。だがクリスは妻との関係を再構築していく。かつてなら見捨てたであろう妻の発作的な行動をも、心の底から見守ろうとする。彼の贖罪ともいえる行為は、〈ハリー〉に人間としての命を与え、クリス自身にも新しい命を吹きこむ。奇跡が起こった、といえるのかもしれない。〈海〉とのコンタクトが成功し、「ソラリス問題」は一応の終結をみる。
 クリスはソラリスの〈海〉を見ながら、「人間は自分や家族を愛することはできても、人類を、地球を愛したことはなかった」と呟く。ソラリスの〈海〉の混沌とした渦を前に、クリスは「人類愛」のむずかしさに思いを至らせる。
 結局、ソラリスの〈海〉が表象しているものは何だったのか。われわれに「謎を投げかける」ものというしかないだろう。科学という知のレベルを超えて、人間の存在そのものに、あるいは集合体としての人類そのものに「謎」を投げかけてくるものだ、と。そしてその「謎」とは、ソラリスの〈海〉が知りたがったこと、つまり、人間の「良心」に関わる領域に潜んでいるのだ、といえるかもしれない。
(December 20, 2001)

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ラン・ローラ・ラン

Lola Rennt
1998 年 独
監督: トム・ティクヴァ
出演: フランカ・ボテンテ
モーリッツ・ブライブトロイ
ヘルベルト・クナウプ


 「ラン・ローラ・ラン」には三パターンのストーリー展開がある。それぞれに与えられた状況、それに対して主人公が最初にとった行動はまったく同じなのに、ちょっとの時間差がぜんぜん異なる結論をもたらすのだ。テクノのリズムにのってローラがベルリンの街を疾走する姿がカッコいいのもさることながら、映画の構成が美しくかつ哲学的でさえある。
 人間の人生は、すごろくのように一つのステップを踏めば次のステップが決まっているようなものではない、と思う。ひとは生れ落ちる場所も親も時代も選べないし、居住する地域の制度のなかで生きるわけだから、環境に規定された存在であることは否定できない。だが、一人の人間がどんな生の軌跡を描いていくかは、本人の一つ一つの選択の積み重ねによるところが大きいだろう。にもかかわらずその人にとって、どんな選択肢をその都度選んでいくか、あるいは選ばされていくかは、究極的には、その瞬間にならないと分からない。選んだ選択肢が次にどんな状況を引き起こし、それがどのように波及してさらなる選択肢を導いていくかは、いっそう予測不可能なことである。
 この映画はそういうことを思い出させてくれる。
 映画の話はここまでだが、もう少し話を続けてみたい。
 ひとはじぶんの行動をすべて自分で「主体的に」決定しているわけではない。
もう少し丁寧にいうと、「主体的」になにかを「選択」できる状況は、人間にとってとても限られたことでしかないとわたしは思っている。もちろんじぶんから賽を投げることは多々ある。だが、投げた賽がどのように転ぶかまでは、わたしの思惑を超えている。投げた賽が次に進む道を指し示したとき、道が拓かれたという事実そのものがわたしに影響を及ぼしはじめる。そのことになんらかの意味をみいだせれば、未来が今のわたしの行動や思考を規定しはじめる。
  では、ひとが主体的になにかを決定しきれないのだとすれば、そのひとは自分の行いや発言に責任をもたなくてもすむのだろうか。
 もちろん、ひとは自分の行いにも発言にも責任をもつべきだし、それをだれかに責任転嫁できるものでもない。ただそれは、だれかと向き合っている状態に自分が置かれているときの話である。とりわけパブリックな場においては、他者に対して「わたし」というものを、それなりに一貫した主体として立ち上げることが必要だ。だが、そのような自分を立ち上げたとしても、「そのような主体ではないわたし」というものが、わたしのなかにはつねに寄り添っている。その「わたし」は、一つの言葉にクリアにまとめあげられるようなものでは、決してない。
 「主体的に」なにかを行いうる状態は、じぶんのなかでもかなり言語化可能になっている状態(何らかのアイデンティティを受け入れている状態?)だ。けれどもそれは、そこにいたるまでに、多くのありえた可能性をすべて押し込めていった結果でもある。
 そのクリアになった状態をよしとする立場からではなく、苦痛を伴いつつ押し込められていったものを覚えておこうとする立場から、わたしは世界を見ているような気がする。明確に言語化されたものでさえ、裏にあるもの/あったかもしれないものを見たいと思っている。
(Friday, January 05, 2001)

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ライフ・イズ・ビューティフル

La Vita e Bella
1998 年 伊
監督: ロベルト・ベニーニ
出演: ロベルト・ベニーニ
ニコレッタ・ブラスキ
ジョルジオ・カンタリーニ


 俳優人の演技もすばらしいし、ヒューマンな暖かさがあるし、しかも極限状態におかれたなかでのユーモアの強さが描かれていて、この映画の評価が高いのも分からなくはない。でも、そうすっきりと感動できなかったのが正直なところ。
 ユダヤ人収容所をテーマに扱ったドキュメンタリーなり記録文学なりを目にしていれば、多分「現実」はこんな小ぎれいな話どころではなかっただろうと思わざるをえない。もし私が収容所の生き残りだったら、こんな映画は観たくないだろうな、とも思う。あまりにもきれいな話すぎて、うそっぽい。それどころか、残酷ですらある。なんで収容所を舞台にしなくてはならないのかが分からない。
 ユダヤ人であること自体が死に値する、という理不尽すぎる状況に置かれて殺された人、あるいはそこから生き延びてきた人を題材にして、そんな状況を理解することなど絶対にできない「私たち」を感動させていることに、ためらいを覚える。
by kiryn (2001/10/9)

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