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陽だまりのグラウンド

Hardball
2001年 米
監督: ブライアン・ロビンス
出演: キアヌ・リーブス
ダイアン・レイン
ジョン・ホークス


 ギャンブルでえらい借金を背負ってしまったコナー(キアヌ・リーブス)は、ひょんなことから少年野球の監督をすることになる。最初はいやいや引き受けたのだけど、貧しい地区に住む黒人の男の子たちとのチームワークができてくるようになり、コナーは監督としてこどもたちと心を通わせていく。
 かんじとしては、少年マンガのチームワーク系スポーツ物に近いかも。必殺技を繰り出す宮本武蔵系スポーツ物ではないのはたしかです。
 エンディングが悲しい終わり方をするから胸のつまる思いはするのだけれど、非常にストレートなつくりの映画で好感がもてる。凝った映像とか複雑なストーリーばかりが映画じゃないさ。
by kiryn (2002/4/7)

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バーディ

Birdy
1984 年 米
監督: アラン・パーカー
出演: マシュー・モディン
ニコラス・ケイジ


 鳥が好きで、とても繊細な心をもったバーディと、彼の繊細さを理解したうえで付き合っているアルが主人公。でも時代はベトナム戦争で、二人とも戦争に行く。バーディの繊細さは戦場の過酷さに耐え切れず、彼は心のバランスを壊してしまう。アルがバーディに再開したのは、真っ白い病院のなかで自分を鳥だと思い込んで鳥になってしまったバーディの姿だった。
 十代のころにみたときは、バーディの繊細さが痛々しくて、すごく好きな映画だった。この映画は、一種の反戦映画といえるかもしれない。でも今思えば、アメリカの立場からみたベトナム戦争をあまりにもナイーブに描きすぎている。
 戦争を描く、戦争を扱う、というのは、ある国に属する人間がどのような立場で(国民か、移民か、亡命者か、強制労働者か)、どのように「あの戦争」を解釈しているのかが、あからさまに露呈してしまう。バーディにしろ、アルにしろ、戦争によって人生を狂わされてしまう被害者であるかのような描き方がなされていたように思う。それはたしかに悲劇だ。けれどもそこにはベトナムの人々の姿は現れない。そこにあったであろう悲惨さを知ることが、あらかじめ排除されている。今なら、こんな映画は、良心的であろうとするならば、撮れないだろうな、と思う。
by kiryn (2001/10/15)

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炎のランナー

Chariot of Fire
1981 年 英
監督: ヒュー・ハドソン
出演: ベン・クロス
イアン・チャールソン


 「炎のランナー」、このタイトルだけは許せん。原題はChariot of Fireだよ? 「炎のランナー」じゃ、スタローン系の戦争オタクモノを想像するではないですか。ぜんぜんちがうのにっ!
 1924年のパリ・オリンピックに陸上競技選手として出場する二人の英国人を扱った映画。
 音楽はいいし、ファッションもいいし、清潔なスポ根モノでスタローン的なものはぜんぜん関係ないんだけど、登場人物の描き方は、実は日本の文化圏にはなじみのないものを扱っている。
 ハロルド・エイブラハム(ベン・クロス)は、その名が示すとおりユダヤ系(といっても説明されないとピンとこないけどね)。彼が大学の校庭を学友たちに囲まれて走るシーンで、その騒ぎを上から見ていた学長だかだれだかが、エイブラハムという名前を聞いたとたんバカにしたように、「ユダヤ人か」と呟く。ハロルドが走るのは、人種的偏見を実力で跳ね返すことであり、差別する者を見返すことだった。(もちろん、こういった偏見・差別が日本になじみがないという意味ではなく、ユダヤ人差別はなじみがないということです。)
 もう一人の主人公エリック・リデル(イアン・ホルム)は、スコットランドの宣教師一家の息子で敬虔なクリスチャンである。彼は、人より速く走ることができる能力を与えられたことに神の愛を感じ、神を愛するがゆえに喜んで走る。だから、オリンピックの当日が安息日にあたっていると分かったら、それは神の御心にかなわないことだからと、あっさり出場を取りやめてしまう。
 周りの英国人が逆にびっくりして、英国のために走ってくれとエリックを説得するのだけれど、彼は聞き入れない。
 1920年代という、ナショナリズムが今ほど問題視されもせず、肯定的に捉えられていたような時代に、「英国のために」走ろうとはしなかったエリックの存在はとても興味深い。おそらく、エイブラハムの自我のありかたは、そういったナショナルなものに荷担しやすい危うさを秘めている。ただし、映画そのものは、オリンピックで英国優勝という終わり方だから、この映画自体はナショナルな語りに収斂している。
 ハロルドにしろ、エリックにしろ、人間のありかたを描くという点でとてもおもしろい映画だった。
by kiryn (2001/12/28)

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ピアノ・レッスン

The Piano
1993 年 豪
監督: ジェーン・カンピオン
出演: ホリー・ハンター
ハーヴェイ・カイテル
サム・ニール


 最初見たときはすごくよかった。で、もう一度見たくて、見てみた。一度目ほどの感動はなく、状況設定はたしかに特徴的だけど、話としては、んー三角関係モノのメロドラマかなあ。そういいきってしまうのも酷だろうか。
 でも、海辺で弾いているピアノのシーンとか、ナイマンの音楽とか、印象的なのはいっぱいあった。口のきけないアダ(ハリー・ハンター)がピアノを介してベインズ(ハーベイ・カイテル)と関係を深めていくのを、夫のステュアート(サム・ニール)が嫉妬して、最後には妻の指を斧で切り落としてしまうシーンもすごい。どしゃぶりの雨のなかをふらふらとアダが倒れこんでいくとき、スカートがふわっとひろがって、ゆっくりしぼんでしまう。とても鮮烈なシーンだ。
 ジェーン・カンピオンの昔の映画って、とにかく長くて空恐ろしいくらい退屈だった。絶対途中で寝てた。この映画、最後までおもしろく見れただけでもすごいかもしれん。
by kiryn (2001/12/28)

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バロン

The Adventures of Baron Munchausen
1989 年 英
監督: テリー・ギリアム
出演: ジョン・ネヴィル
エリック・アイドル
オリヴァー・リード


 ティリー・ギリアムのなかでは「バロン」が一番好き!
 「ほらふき男爵」の荒唐無稽ぶりをそのまんま映像化。「ちょっと待てー!」と思わずつっこみたくなるオカシサが満載です。
 ユマ・サーマンの「ヴィーナスの誕生」のシーン、美しいー。もうそのまんまボッティチェリです。
 とにかく、莫大な制作費をかけて、ギリアムが偏執的なまでのこだわりを全開させた作品。楽しくマニアックな一作ですね。
by kiryn (2001/10/8)

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バウンド

Bound
1996 年 米
監督: ラリー&アンディ・ウォシャウスキー
出演: ジェニファー・ティリー
ジーナ・ガーション
ジョー・パントリアーノ


 視線を交わした二人がいきなり恋に落ちて、初っ端からヒートアップ! あまりのカッコよさにクラクラします。
 男たちがマフィア社会の掟に縛られて、ある意味、旧態依然とした行動パターンをとっているのに対して、コーキー&ヴァイオレットのスマートさはホントにクール!
 しかもブレインであるコーキー(カッコいい姉貴&マニッシュ)が、トラブったヴァイオレット(ベティさんか?と思わせるほどのお色気&フェミニン)を救いに行くのかと思いきや、コーキーにはほとんど実戦の活躍なし。「守られる」タイプっぽかったヴァイオレットが、自力でがんがん窮地を脱していくのも、監督のひねりなんでしょうね。
 ジェンダー・パターンを気持ちよく肩透かしさせていて、うまいなあと感心しました。
by kiryn (2001/10/9)

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フルメタル・ジャケット

Full Metal Jacket
1987 年 米
監督: スタンリー・キューブリック
出演: マシュー・モディン
アダム・ボールドウィン
ヴィンセント・ドノフリオ


 実はマシュー・モディンという役者さんがそのころちょっと気に入っていて、それでいそいそと観にいったのですね。だーいしっぱーい。主人公がマシューくんだったのだけど、印象にのこるのはあの教官とあのデブ新兵ばかり。みんなそうではないでしょうか・・・。うう、監督がキューブリックじゃないかー。そうと知っていれば、もうちょっと心の準備もあったもんだが、上映当時はなんも知らんかったんだもん。
 カルイ気持ちで観にいってエライ目にあったわけですが、まじめな話、「戦争って何?」という問に対するもっとも真摯な答えとして、「この映画を観よ」とはいえる。
 普通の人間は人間を殺せない。だから戦争するためには、人間を平気で殺せる人間を造りださなくてはならない。それがあの前半のシゴキ。その結果が、鼻歌を歌いながらベトナム人を射殺しまくるアメリカ兵。
 これはアメリカだけの問題じゃないし、ベトナム戦争だけの問題でもない。戦争の本質にまちがいなくあるひとつの側面だろう。その意味で、この映画は戦争映画のなかでも見るべき価値をもつ作品のひとつだと思う。
by kiryn (2001/10/31)

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ポーラX

Pola X
1999 年 仏・独・スイス・日
監督: レオス・カラックス
出演: ギョーム・ドパルデュー
カテリーナ・ゴルベワ
カテリーヌ・ドヌーヴ


 レオス・カラックスの映画「ポーラX」(1999年)は説明しがたい不安を観る者に与える。この映画はおそらく重層的に観ることが可能だ。だがなによりも第一印象は、きわめて政治的な映画だ、というものだった。
 主人公ピエール(ギョーム・ドパルデュー)は美しいお城に住み、新進気鋭の作家であり、著名な政治家を父にもち、美しい恋人との結婚を控えている。彼は申し分なく上流階級の人間であり、将来を嘱望された若者だ。そんな彼の前に「姉」と名乗る謎の女イザベル(カテリーナ・ゴルベワ)が現れる。ピエールは彼女に強く惹かれ、美しい恋人や家を捨てて、イザベルと彼女の友人、そしてその子供を引き連れてパリを彷徨うことになる。
 わたしが「政治的」と書いた理由は、イザベルが「東」から来たことにある。彼女は祖国の戦火を逃れてフランスに不法入国した亡命者なのだ。
 上流階級のなかで生きてきたピエールが、「東」からの亡命者たちを引き連れているがゆえに、それまでは無縁であったはずの社会の蔑視にさらされていく。街中のホテルには宿泊を拒否され、警官の姿におびえる彼女たちにとまどい、タクシーには乗車拒否されてしまう。美しかったピエールは視力をどんどん失って分厚い眼鏡をかけ、杖をついて片足を引きずりながら歩くようになる。書いた小説は出版社に受け取ってもらえず、最後には悲惨な結末が待っている。彼が女によって破滅していく姿は痛ましい。
 90年代の西ヨーロッパは、コソヴォやユーゴの混乱に悩ませられてきた。彼らは「東」の民族紛争に手を焼き、ときには空爆まで行い、溢れ出す難民の流入に悲鳴をあげてきた。けれども西ヨーロッパ社会の周辺部にその姿を現す難民たちはこの時代の、いや今世紀のひとつの現実を体現している。つまり、法の外部におかれた人間、というものを。   
 ピエールはあまりにも純粋に、社会のなかに区切られた境界線を踏み越えていく。彼はフランス社会のもっとも中心部にいたはずなのだ。それは、確固たる身分・教養・慣習・法・伝統の壁に囲まれた堅固なお城だったはずだ。彼はそこからあっさりと越境し、社会の底辺にまで堕ちていく。カラックスの映画は、およそ関わりのないはずの人間を運命の恋人同士にしてしまう。それは社会の中心部に上昇するシンデレラ物語とは異なって、不穏で流動的な社会の周辺部へと下降する物語だ。
 観る者が不安になるのは、境界線を踏み越える――それを選んだのか選ばされたのかはわからないが――主人公の破滅的生を通して、現代の社会に確かに存在する、社会の周辺部の不穏さを感じとってしまうからだ。一切の調和を拒むこの映画の衝撃力は、まさに私たちの生きる時代の暗部を鮮烈に切り取っているところから生じているのだ。
(Sunday, December 17, 2000)

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バグダッド・カフェ

Bagdad Cafe
1987 年 独
監督: パーシー・アドロン
出演: マレーネ・ゼーゲブレヒト
ジャック・バランス


 太ったドイツの中年女性がアメリカの砂漠のハイウェイにある寂びれたカフェに、ある日ふらりとやってきて…で始まる「バグダッド・カフェ」(監督パーシー・アドロン、1987年、独)は、安心して観ていられる。ジャスミン役のマレーネ・ゼーゲブレヒトの醸し出す人の良さと安定感は、この映画の魅力の一つだ。彼女のチャーミングさゆえに、砂漠の寂びれたカフェが運転手たちの集まるオアシスになるという設定も生きている。ジャスミンとカフェの主人であるブレンダとの心の触れ合いも丁寧に描かれていて、心地よかった。でもどこか寂しい気持ちが残っている。なんでだろう。
 ただの旅行者のジャスミンが、バグダッド・カフェに現れてからカフェは繁盛するようになる。しかし彼女は、そこになくてはならない存在になったとき、ヴィザ切れで帰国させられてしまい、盛況だったカフェはもとの寂びれたハイウェイ沿いのカフェに戻ってしまう。でも映画はそのあともう一度ジャスミンをカフェに登場させ、バグダッド・カフェは再び活気を取り戻す。
 観ていて寂しいかんじになってきたのは、ジャスミンが再び現れて何もかもうまくいく、というあたりからで、これはカフェで暮らす人たちの「夢」なのではと疑ってしまったからだ。「こうであればよかったのに」という登場人物の願望をわたしは観ているんじゃないかという気がしてならなかった。(でもそう考えれば、ジャスミンは最初の一日でうらびれたバグダッド・カフェとヒステリックな女主人のブレンダに嫌気がさして出ていったかもしれないし、もしかしたらそもそもジャスミンなんて存在しなかったのかもしれない、と否定していくこともできる。)
 最後のバグダッド・カフェの盛り上がり方はとくに何かに似ているなー、何だっけ?と考えていて、フェリーニのサーカスに思い当たった。どこか寂しくてノスタルジックなのは、現実には起こらなかった幻を観ているような気がしてならないから、だろうか。
(Sunday, January 21, 2001)

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ひかりのまち

wonderland
1999 年 英
監督: マイケル・ウィンターボトム
出演: ジーナ・マッキー
シャーリー・ハンダーソン
モリー・パーカー


 気持ちのいい秋晴れだから外を歩こうと思っていたのに、映画館に入ってしまう。気がついたら日が暮れていた。
 というわけで、マイケル・ウィンターボトムの「ひかりのまち」(wonderland、1999年英)を観ました。これが観たい!と思って観た訳ではないので、いっさいの先入観なし。宣伝文句にはやたらと「普通」の文字が目に入ってきて(普通のひとびと、普通の家族、普通がスバラシーetc)、おもしろいのかなーと半信半疑だったのですが、よかったです。
 ネタばれにならない程度に話を紹介すると……。
 映画の舞台はロンドン、時代はまさに現代、子育てを終えた一組の夫婦とそのこどもたちのそれぞれの日常生活を描いている。一番上の姉は小学生になる男の子を育ているシングルマザー、こどもの父親との間はすっかり冷え切っている。カフェで働くまんなかの妹は恋人探しに忙しく、一番下の妹は出産間近で幸せそうだけど、父親になるパートナーが突然仕事をやめてしまう。この三人姉妹をいちおう物語の中心に、話が進む。(「いちおう」と書いたのは、この一家族そのものを主人公というのがより適切かもしれないから。)
 とにかく起こる事件といっても、ちょっとした交通事故やこどもの迷子くらいで、映画的な非日常性はまったくない。だから観ている途中で、この映画はこんな調子でどうやって終わるんだろう?と心配になったくらい。でも終盤は、そういったちょっとした事件を展開させながら、ひじょうにうまくまとめている。こういった日常性を描ききる、しかも観客を飽きさせずに、というのはなかなかの手腕だと思う。小津安二郎の映画を思い起こしましたね。
 夜のロンドンを人びとがそぞろ歩きをしている様子、道端に散らかるごみ、カフェや夜おそく走る二階建てバスの中の雰囲気、散らかったこども部屋、汚れた窓ガラス越しに見えるマンションの立ち並ぶ風景、人びとの顔に刻まれた皺、母親の疲れきった顔――「普通」というのは、つまり、「わたしもその感覚を知っている」ということ。ひかりにあふれた夜の街を主人公たちがひとりで彷い歩くシーンは、マイケル・ナイマンの静かな音楽とともに、この映画の見所の一つだと思う。
(Saturday, November 04, 2000)

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