国立国際美術館で開催されている「杉本博司 歴史の歴史」展を見に行く。実は二回目。一回目は杉本さんと安藤忠雄との対談を聞きにいった。このときは展覧会を十分にみる時間がなくなってしまい、もう一度見に行くことにした。あさってでおしまいなので、直前駆け込みに近い。
でももう一度見に行ってよかった。この間に杉本氏の『現な像』を読んでいったので、作品や展示の由来や背景を知ることができ、前にみたときよりは数段おもしろく鑑賞できた。
今回は骨董収集の展示がおもしろく、とくに「金銅鍍金舎利容器」の実物があまりにも小さくかわいらしいので、つい魅入ってしまった。前回はまったく見過ごしていた。
他にもいろいろあるけれど、実は対談がものすごくおもしろかった。杉本さんの作品は、置かれる場(建築物や美術館)のもつ力を借りて展示されている。空間の構成というものをとても意識されていて、建造物のもつ力が作品の力を引き出すように工夫がなされている。壁に作品を並べてライトを当てればいいというものではないようだ。
ところが、今回の国立国際美術館はその意味ではサイアクらしい。地下に埋め込まれ自然光の届かない展示室はアラも目立ち、展示室全体を暗く明度を下げるしかなかったようだ。だからとにかく暗い。そういう話を聞いていたので、こちらも否が応でも、美術館のもつアラと構造のマズさが目に付いてしまう。展示の苦労の痕をつい見つけてしまい、苦笑してしまう。海の写真などは自然光があるほうが絶対いいよね。
この美術館批判は、そのまま官僚批判と政治家批判にもつながっていき、建築家の安藤さんにもキワドイ質問を投げかけておられて、とにかく聞いていておもしろかった。
というわけで、充実の一日でした。雨がふっていたけど、ランチに食べたフレンチもとても美味しく(黒鯛の白ワインとパセリのソースがけ!)、ついでに最近お気に入りのパンデュースのパンも買い込んだし、とりあえず満足。
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三十三間堂
蓮華王院三十三間堂に立ち寄った。
観光シーズンではないからか、参拝客の数はそう多くはなく、のんびり拝観できた。
1000体の仏像が金色の鈍い光を放ちながら、並び立つ。どの地点に立っても視界に収まりきらない。中央の千手観音の前にたつと、左右に広がる仏像に圧倒される。端のほうはかすんでみえない。幾何学的に配置された観音は、どちらに目を遣っても同じように立ち並び、迷路に入り込んだようだ。日常の空間とはあまりにも異質で、足を踏み入れた途端、異空間に放り込まれたような気がする。
平清盛が造進してから800年間、来迎の光が現代にまで及んでいるのかと思うと、時間の流れが停止しているかのような錯覚に陥る。
一瞬でありながら永遠、凝縮されていながら無限。無音でありながら荘厳な音色を想像することもできる。インスタレーションとして見ても、圧巻だった。
ヨドコウ迎賓館
芦屋にあるヨドコウ迎賓館旧山邑家住宅をみてきた。
フランク・ロイド・ライトの作品ということで、昔行ったことがあるのだけど、まったく覚えていない。行ったら思い出すかとも思ったけど、やっぱり思い出せなかった。いったい何をみていたのやら・・・。
個人の別荘とあって、意外とこじんまりしている。内装をみていると、縦や横にすーっと走る木目や幾何学模様の家具など、存在感がある。石を彫刻してあったり、なかなかデコラティヴ。
3階には和室や寝室がずらーっと連なっている。端っこの部屋も小さなバルコニーがつけられていて、空間的に外へと延長していくかんじがおもしろかった。
いちばん上の階が食堂と厨房があって、広いバルコニーが広がっている。厨房には当時(大正時代)の家電などはもうないのだけれど、冷蔵庫やオーブンなど当時最新の家電を導入していたらしい。電気代もすごかったのだとか。いったいどんな料理がつくられていたんだろう。ダイニングも、広くはないけど天井が高くていいかんじ。こんなところでごはんを食べたらおいしいだろうなあ。
能鑑賞・「融」
先日、「TTR能プロジェクト秋公演・融」というお題目の能を観に行った。
かつて栄華をきわめた融の大臣の霊が、月の照らす荒野で、旅の僧侶を前に華麗な舞を披露するというものだった。秋も深まる季節にふさわしい演目らしく、月を愛でる感性と、栄枯盛衰の儚さをにじませた内容だった。
能を観たのははじめてで、絶対寝るんじゃないかと思っていたけれど(すいません、途中は寝てました)、意外にも楽しめた。最後に、爺さんが融の大臣に変化して、ひたすらに舞を舞うあたりなど、なかなかの迫力で見飽きなかった。最初に出演者の方が演目の内容も懇切丁寧に説明してくれたし、解説本の内容も丁寧だったので、なんとかついていけたというのが正直なところかもしれないけれど。でも、語尾が「候」オンパレードの会話もだんだん聞き取れるようになり、中盤から後半は、こっちも調子付いてきたのだと思う。
日本の中世っていうのも、外国文化と同じくらい別の感性をもっている気がするし、そういう目線で眺めていたかもしれない。「月」とか「幽玄」の感性って、自分の生活にはまったく無縁だったりするのが、なんとも・・・。
「液晶絵画」展
国立西洋美術館で開催中の「液晶絵画」展をみにいく。
映像か写真か、あるいは映像か絵画かの境界上にある作品群。テーマ的にはとても興味がある。
おもしろかったのはヤン・フードンの作品。中国の地方の農村に生きる人々と、彼らに飼われている犬の姿が複数の画面に映し出されている。犬は飼い犬でもあり、野犬のようでもある。犬たちは群れつどい、小動物の肉を喰らい、病気になり、死んでいく。写真ではこうした題材はよく見るけれど、映像で見ると新鮮に思えた。部屋いっぱいに並んだ画面に囲まれて、荒涼とした風景を同時並行的に追体験していくのは、映像で表現することの意味を感じさせてくれた。
あとは、まあそれなりに。ビル・ヴィオラはもっとおもしろい作品があるから、ちょっと物足りなかった。ブライアン・イーノは古いけど古典かもしれないし、彼の音楽はだいすきなので、見れてよかった。千住博の作品はきれいで上品な仕上がり。あまり枠を超えるようなインパクトは感じなかったけど。森村泰昌の作品は、テーマパークでよくみるようなセットが余計に陳腐な印象を与えてないか?とかなり疑問。
このジャンルは、あまりたくさん数をみているわけではないけれど、時間や空間の表現に新鮮な驚きを感じることも多いので、これからも楽しみにしている。
「杉本博司展」 at 国立国際美術館
国立国際美術館で開催されていた「ベルギー王立美術展」と「杉本博司 新収蔵作品展」を見に行く。
今回の目的は杉本博司展。ご本人が展示プランに加わられたとのことで、どんな風になっているのかも楽しみだった。
展示の部屋に入ると、広いスペースの壁面をほとんど使っていないのにまずびっくりする。建築空間を模したのか、かなりボリュームのある柱が等間隔で室内の真ん中に置かれている。その柱を一方の方向からみると「建築」シリーズの6点が、他方の方向からみると、「観念の形」シリーズ5点が一列に並んで浮かび上がるようになっている。とにかくプレゼンの上手さに感心した。洗練された空間の使い方を見れただけでも、満足(ただ、「肖像写真」シリーズは一枚しかなくて、それがぽつんと壁面に飾られてあったのは蛇足のような気がした。ま、美術館もせっかくお買い上げになったものだから、展示したかったのかもしれないけど)。
作品の素材は「建築」と「数学」で、有名な建築群と三次関数の数式を立体化した模型が写真に収められている。何度か写真集で見たことあるものだけれど、セッティングされた空間のなかに配置された写真を見るとまた別の趣がある。
これらの作品をみるつどに疑問に思うのが、建築家や数学者がこれらの作品を見ればどう思うんだろう?ということ。・・・でも多分、何も思わないんだろうな。建築家や数学者がみたいもの/みせたいものは、あえて撮られていないから、面食らうといったところか。仏像や骨董品を撮るように数式立体模型や建築群を撮っているから、言うなれば、これらの写真は「コレクション」なのだなと思った。
ベルギー展のほうは、とりたてて目をひくものがなくてイマイチだったかなあ。出口を出たところでベルギー物産展をやっていて、そこでビールグラスを買い込んだ。デュベルのチューリップ型グラスと、オルヴァルの聖杯型グラスね。デパ地下かどっかでベルギービールを買い込むんだ〜と思ったら、今輸入物すっごく高いんだよね、、、結局、「北新地ビール」とかいう大阪の地ビールを買った。これがまたイマイチで・・・。
「戦争と芸術」展
先日、京都造形芸術大学でやっている「戦争と芸術」展を見てきた。行ったはいいけど、ここの大学遠い〜。京阪電車終点出町柳からさらに電車に乗っていくなんて、、、おまけに京都は寒い!
個人的には写真家の杉本博司氏を見に行くのを目的に行ったのだけど、展覧会のメインは防衛「省」が所蔵している藤田嗣治の戦争画だったよう。シンポジウムが始まったとき、キュレーターの人が、「防衛庁から防衛省に変わったのでとてもタイムリーな企画です」と言ったときに、横にいた学長とかいう人が「祝賀会です!」といった趣旨の発言をしていて、、、もしかしてわたしヤバイところに来たの? キュレーターが「ちがいます」と即効で否定していたけどさー。まあ戦争画というテーマ自体はおもしろそうで、はじめて聞く話も多くて勉強にはなった。
杉本氏の写真は、「ワールドトレードセンター」「アインシュタイン・タワー」「マウント・タマルパス」の三点。個々の作品、とくにアインシュタイン・タワーの扱い方などはちょっとベタすぎる気もしたが、それでも白黒でわざと暈した撮り方をした作品群はどれも墓標めいていて、不気味で虚無的な美しさを醸し出している。このシリーズを全体を通して見るならば、「戦争」という現象の本質に迫っていく作品といえるのかもしれない。
ビル・ヴィオラ展
東京に行く機会があり、隙間時間に森美術館でやっていた「ビル・ヴィオラ:はつゆめ」を見てきた。とくにルネッサンスなどの古典絵画を引用しながら、超スローモーションで絵画のような動画をつくっている作品群がすばらしい。
古典絵画を動画にするという手法自体は、映画の『バロン』などにもボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」をそのまま実写化しているシーンが出てくるから、まったく新しいものではないと思う。でも、喜びの表情や嘆きの表情、苦悶に満ちた表情など、喜怒哀楽が微細に変化していく様子をじっと眺めていると、とても普遍的で複雑で深みのある何かに触れたような気持ちになってくる。「ラフト/漂流」という作品も見たが、突然襲ってくる災害=苦難に翻弄され、耐えぬき、助けあう人々の姿をスローモーションで見続けていると、これもまた不思議なくらい崇高な感情を覚えるのだ。時間を少し操作するだけで、「知っている」けれども普段は「気づかない」、そうした心の機微に触れるような作品群だったと思う。
あと、中世の修道院の一日を思い出させるような作品も、昔話などの物語の世界に入り込んだ気分になっておもしろかった。決して開けてはならないという箪笥の引き出しを順々にあけていくと、水田があり、稲穂が実り、収穫をしているミニチュアの世界が広がっているという昔話を思い出したりした。
プライス・コレクション 若冲と江戸絵画展
まだ紅葉の季節には早いけれど、秋の京都に遊びに行った。目的は京都国立近代美術館で開催されている「プライス・コレクション 若冲と江戸絵画展」を見に行くこと。東京の方でやっているなあ、おもしろそうだなあと思っていたので、今回は絶対見に行こうと決めていた(最近、絶対行く!と決めないと腰が上がらなくなってきたので・・・)。予想どおり混んでいたから、じっくり見ることはできなかったし、なんとなく気疲れしてしまったけど、展覧会はおもしろかった。
ただ、おもしろかったといっても、若冲どころか琳派についてもほとんど知識がない上で見ているので、専門的な見方はできない。そのうえで、印象に残ったことをメモっておく。
まずなにより、ヨーロッパの博物学の流れと共通するものがあるのではないかという印象を強く受けた。というのも、虎の毛並みや鶏や鶴など鳥類の羽の模様など、細部の描写に執念を感じるものが多かったからだ。多様な動物や鳥類を一枚の掛け軸や屏風に収めようとする作品もいくつかあって、それらはさながら博物誌の様相を呈している。そこに描かれている動物や鳥たちは、生命力やエネルギーを感じさせるものというよりは、剥製や標本に近い無機質さを感じさせる。細部へのこだわりが一種の科学的眼差しと交錯しているように思えるのだ。若冲が、従来ならば鳳凰を描くところを、それは幻想の動物だからという理由で拒否して、あえて鶏で描こうとした精神も、こうした傾向と関連していたのではないだろうか。
当時鎖国をしていた日本に、ヨーロッパの潮流がダイレクトに入ってくることはなかっただろうから、こうした眼差しが日本独自に登場してきたものなのか、それとも、世界の流れと連動する何らかの原因があったのかは分からない。とても興味深い点なのだけれど。
あと、この展覧会の作品に共通する傾向として、バロック的要素も多少はあったのかなという気がする。まあバロックというほど大仰なものでもなくて、フリーク好みといったところか。江戸後期という時代状況もあるだろうし。このあたりが、今の日本の風潮と連動している要素なのかな? あとは、細部描写の眼差しが、コンピュータ・グラフィックと近いことから(若冲のタイル画などはそのまんまピクセルにも見えるわけで)、今のわたしたちはコンピュータ的な目線で若冲を見直しているんだろうなと思った。
大絵巻展
ちょっと前だけど、京都国立博物館でやっていた大絵巻展を見てきた。量が多いわりには見飽きず、おもしろかった。セリフが書き込まれたりして、たしかにマンガみたい。ただマンガっぽいから逆に、生原稿や生セル画の一部を大量に並べられているかんじで、話の筋がいまいち分からん、全部よませろ〜という不満も残った。
友人はこの企画展が気に入って、何度か見に行ったらしい(展示の場面をときどき変えていたらしいので)。この友人に、「日本人って昔からサブカル好きなん?」って聞いたら、「絵巻物はサブカルではない」とこんこんと説教されてしまった。
パン焼きが日常と化してだいぶ経つ。冬のあいだはパンがふくらまず、粉のせいかイースト菌のせいか水の温度のせいかかといろいろ悩んだけど、最近は調子よく膨らんでいる。気温の要素って大きいんだなあとあらためて思った。