2001年宇宙の旅

2001: a Space Odyssey
1968年 米
監督 スタンリー・キューブリック
出演 ケア・ダレー 
ゲーリー・ロックウッド 
ウィリアム・シルベスター


 もう2002年だけど、はじめて観た。その壮大さ、難解さゆえに映画史上に残るという超有名作品。第一の感想は、思いっきりアメリカンな映画だなーというところ。つまり、1960年代アメリカの科学的合理主義と神秘思想の合体という印象をうけた。1960年代のアメリカは、まだ経済力も衰え知らずだし、ソ連とはりあって軍事開発やら宇宙開発やらに莫大な金をかけていたし、ヒッピーだのウッドストックだのサブ・カルチャーもめちゃくちゃ勢いあったわけで、そういうアメリカン・エンパイヤーにしかできない壮大さがある。宇宙開発事業も今は昔の勢いないし、映画にしろ文学にしろ、良かれ悪しかれ、こういうスケールのでかさを追及するのは無理な時代になったなあと感慨ぶかい。
 映画はかなり哲学的だと聞いていたので楽しみにしていたのだが、正直、あの黒い板が人類進化の謎を秘めている、みたいな陳腐な進化論的ヨタ話に話がオチたらどうしようと思った。映画に関するかぎり、そういう風には展開していない、というか、明確に結末を提示せずに終えているから何ともいえない。ただ、たしかによく分からない最後だが、この「分からなさ」をなんとしても理解したいという欲求があまり生まれなかった。映像や音楽のセンスは圧倒的なものがあるし、文句なしにすばらしいのだが、内容的にはぐっとくるものがあまりなかったなあ。一般にいわれるほど哲学しているとも思えなかった。2002年に観たりするからでしょうか。(てゆーか、キューブリックが、こういうハッタリと目くらましが好きなんだろー。喰えないオッサンだから)
 哲学というよりは、神秘思想に近いと思う。思考よりも感覚の映画なのではないか。呼吸の音だけが聞こえる無音の宇宙で、コンピュータHALとデイブが孤独な闘いを繰り広げる場面までは、圧倒的に人間の理性と知性が表現されていた。デイブが一人土星に向かって以降は、理性の放棄だね。延々つづくサイケな宇宙映像が大脳を直撃してきて、ほとんどトリップ感覚におちいる。この対比はなかなか鮮やかで、かっこいい。
 「理性の支配」と「理性の溶解」が同居しても平然としているような精神は、いまさら語れないよなあと思っちゃうので、おお懐かしき20世紀よ、というところかな。
オマケです。)

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フィツカラルド

Fitzcarraldo
1982 年 西独
監督: ヴェルナー・ヘルツォーク
出演: クラウス・キンスキー
クラウディア・カルディナーレ
ホセ・レーゴイ


 「アギーレ」につづき、今度は「フィツカラルド」について。ストーリーは、南米のジャングルにオペラハウスを建てるという夢を抱いた男の話。オペラハウスに必要な資金を集めるため、フィツカラルドは、金になるゴムの木を求めて未開の土地探しに乗り出す。そのために購入した巨大な船が、アマゾン川の支流を昇っていく。姿を見せない原住民の威嚇の音楽が暗い川面にこだまするなかで、フィツカラルドは蓄音機からオペラを流して対抗する。これだけでもかなり異様な光景なのだが、その後、「船が山を登りだす」というトンデモナイ場面にでくわすのだ。
 フィツカラルドが、支流と支流を結ぶ陸のラインを船で乗り越えるという計画をたてたから、というのがその理由なのだが、山の木々を原住民に伐採させ、ダイナマイトで土地を平らにし、木々を組み立てて巨大な船をひっぱりあげる装置を作り出し、無数の原住民を使ってその装置の歯車を回していくシーンを大画面で延々観ていると、アタマのなかがぐるぐるしてくる。
 メイキング・オブにもなっている「キンスキー、わが最愛の敵」を見たとき、この部分はほんとうに船が動かず、スタッフが監督に見切りをつけ監督は2週間孤立したというエピソードになっている。そういうことを知ってしまうと、映画のほうも、もはや一種のドキュメンタリーとしてみたほうがよかろうと思ってしまう。
 話を元に戻すと、船は山を登り、フィツカラルドの計画は最大の難関を突破する。だが彼の計画は結局のところは失敗してしまうのだ。彼に船を売った男にフィツカラルドは次のような謎めいた話をする。ナイアガラの滝を見てきた人間が、故郷に帰ってナイアガラの滝のことを人に伝えようとするが、誰も信じてくれない。証拠は?と聞かれてその男は、私がそれを見たことだと答える――フィツカラルドはこういう話をして、それから、本来実現しようとしていたオペラ座をあきらめる代わりに、ただ一回限りの水上オペラを上演して、沿岸から歓声をおくる人びとにオペラを聴かせるのだ。
 彼があの航海を通じて「見た」ものは何だったのか。運命だったのか、崇高さだったのか、神だったのか、人間のちっぽけさだったのか――彼が何を「見た」かは、わたしたちにはつまるところは分からない。だが、彼はそれを一回かぎりの水上オペラという形に変換して、人びとに何かを投げかけるのだ。
 アギーレの語る言葉は人びととの一切のつながりをもたない性質のものであり、それゆえに彼は「狂気」を体現していた。ジャングルにオペラ座を立てるという夢を抱いたフィツカラルドもまた狂気すれすれのところにいる。だが、彼は最後にもう一度、世界に向かって何かを投げかけるのだ。この点でアギーレとフィツカラルドはまったく対照的な姿を見せている。つまり、世界との断絶を表象していたアギーレとは対照的に、フィツカラルドはもう一度、世界とのコンタクトを結ぼうとするのだ。船上オペラが上演されるなか、観客は彼を喝采で迎えて、映画は幕を閉じる。
 観終わっての感想。ヘルツォークという監督は、理性とファナティックさが同居していてなんだか得体の知れない人物なのだが、この二本の映画にはかなり魅了されてしまった。
(Sunday, April 30, 2001)

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ゼロ・シティ

Zero City
1990年 ソ連
監督:カレン・シャフナザーロフ
出演:レオニード・フィラトク
オレーグ・バシラシビリ
ウラジーミル・メニショフ
 不条理な作品といわれるものは多々あるが、その「不条理さ」がどの程度のものであるかは、現実の社会の混乱度を如実に反映していると思われる。
 シャフナザーロフ監督の「ゼロ・シティ」は1990年の作品である。1991年のソ連崩壊直前の発表で、すぐに国が消滅したということになる。とにかく、ソ連末期の相当な混乱状況のなかで制作されたのだろう。この事実を念頭におかなければ、理解の手がかりがないような映画である。
 社会の腐敗や混乱を風刺しているとか糾弾しているとか、そんな風にいえるようなエネルギーすらもはやなくなっていて、みんなわけのわからない世界に振り回されている。主人公のヴァラーキン(レオニード・フィラトフ)はこの世界からいくら逃げ出したいと思っても、そんな彼の意志などおかまいなしに、泥沼にはまっていくように、ナンセンスな状況にからめとられていく。
 仕事で訪れた事務書の秘書は、なぜか素っ裸でタイプライターを打っているし、レストランに入ると、デザートとして自分の首のケーキが運ばれてくる。給仕が首ケーキに頭からさっくりナイフを入れて、頭4分の1を切り分けてくれるの見て、ヴァラーキンは人並みに抗議するが、逆に、ケーキを食べないとこれを作ったコックが自殺すると脅される。ふざけるなと席を立とうとすると、例のコックがいきなり後ろでピストル自殺。しかもこのコックは、かつてこの町ではじめてロックンロールを踊った人物であり、そこには陰謀らしきものが隠されていて、ヴァラーキンはコックの息子として町のロックンロール大会で挨拶することになる……とここまで読んで、何を言ってるのか分かる人はいないでしょう。
 わたし自身、連日の疲れがたまっているせいか、ついついロシア語睡眠学習をしてしまい、ストーリーを見失ってしまっていた。もう一度巻き戻して見るんだけど、巻き戻してもこれがぜんぜん分からない。もう電波系映画だから仕方ないと、途中であきらめた。
 ヴァラーキンの首ケーキもすごかったけど、彼が町から逃げ出そうとするなかで、森の中の郷土博物館に行き着いてしまうシーンがある。この郷土博物館がすごい。地下25メートルくらいのところまでわざわざ下りていくと、蝋人形(まさかホンモノの人間?)で見る町の歴史という企画が展示されている。どれもこれも「オイオイ」てかんじの作品だけど、一番最後に出てくるのは絶句モノだ。等身大の人形が三層になって、しかも2台並んで高速回転している巨大な謎の物体を見たときは、思わず心のなかで「ハラショー!」と叫んでました。これは必見かも。
 話の展開はとにかくワケがわからないけど、このナンセンスさは、ある意味つきぬけたものがあって、あっけらかんとしているとも思った。最後に主人公はボートに乗ってとにかく脱出を試みるんだけど、どこに行くのかはぜんぜん分からない。先行きがあまりにも見えないと、「なるようにしかならん」とふっきれるのかもしれない。

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ゴアイサツ・メール

 正直、逃避したくなるくらい時間的余裕がない。貴重な睡眠時間が減っていく・・・。(こんな駄文書いているヒマがあるのか!?)
 マツモトさんとヤマダさんとのお仕事が一段落ついた。仕事しているより雑談しているほうが多いぞ?という会合だったけど、すごく楽しかった。そんなこんなで、ヤマダさんから今日ゴアイサツ・メールを頂く。
 内容をはしょりながら載せると、わたしの第一印象は「よくわかんない人」でどーしたもんかと思ったけど、「やっぱり大阪人」でおもしろかった、「変な感性の人」に出会えて楽しかった、ということらしい。
 一読して、なんですと?てかんじの内容で、だいたいヤマダさんという人は、筋金入りのサブカル・オタクの兄さんで、なんでこんなワケの分からんヒトに「変な感性の人」といわれねばならんのか、まったくもって心外ですわ。返事どうしよっかなー。

冷たい水

 からだが溶けそうな暑さが続く。夜になっても、ぜんぜん涼しくならない。しかしクーラーのなかにいると、とたんに体調が悪くなってしまう。朝起きると、からだがガチガチに固くなっていて、目覚めも悪い。どこか涼しいところに行きたいという願望が日増しに強まっていく。
 大阪の水道水はこの時期、生ぬるくて、水というよりは中途半端なぬくい水が出る。まあそういうものだと思っているからどってことないんだけど、地方に行くと、真夏なのに、水道からでる水が冷たくてびっくりする。日本海側はとくに冷たい水がでるような気がする。感動のあまり、水道水を出しっぱなしにして、手を冷やしたりしていた。水道水を出しっぱなしにして、スイカや缶ビールを冷やしている映像をみるけど、なるほど、これだけ冷たければそりゃスイカも冷えるわと納得する。ああ、うらやましい。避暑にいくなら、絶対水道水の冷たいところがいいなぁ。
 夜、神社でやってる夏祭りに行く。御払い券で厄除けしてもらい、うちわと撤饌を頂く。撤饌のなかみが紅白のお砂糖でがっくりする。砂糖ってほとんど使わないから、もらっても困るだけ。まだお干菓子だったらお茶請けにするのになあ。少量でいいから、金沢名物の「花うさぎ」みたいなお干菓子を配ってほしい。たとえワガママといわれようと、砂糖なんかいらーん。
 今週は木曜日まで予定がつまっている。木曜の夕方か金曜日には絶対映画見よう。この空時間は死守するぞ。

ドストエフスキー『悪霊』

 天皇家のアイコちゃんの誕生祝にタイ王室から子象をプレゼント、という記事を読んで、ちょっと羨ましくなった。子象だよー、ぜったいカワイイって。いいなー、わたしも誕生祝いにキリンのこどもとかプレゼントされてみたいぞ。でもどこで飼うんだろう?と思ったら、上野動物園だって。ふーん。象を贈られても飼う場所に困らないなんて・・・もうわたしは今からデモクラットになるぞ。そしてすべてのコドモに子象を!だ。
 今日は台風のあとのせいか、びっくりするくらい空がきれいだった。それにどういうわけか、昨日も今日も熱帯夜ではないみたい。クーラーつけなくても過ごせるくらいに涼しい。こういう夜は、のんびり小説でも読みたいなあ。今よみかけの本、いったい何冊あるんだろう? 
 とりあえずドストエフスキーの『悪霊』、これは上巻があと少しで読み終わる。ちびちび読んでいるから、謎めいた話がずっと続いていて、ミステリーを読んでいるような気分になる。スタヴローギンという人物が謎めいていて、彼の動向が気になっている。
 無神論や人神思想といった、ドストエフスキーの作品にはおなじみのテーマも再び登場してくる。こういった問題はどう理解すればいいのか考えあぐねるところがあるけど、かなり興味をそそられている。無神論の問題は、神への強烈なまでの信仰と裏表の関係にあるんだろうとは思うけど・・・もう少し勉強してみよう。ともかく早く『悪霊』を読み終えたい。

台風の天気予報

 台風が来るかとワクワクしていたのに、お昼くらいにちょこっとだけ風が吹いたくらいで、あっさり逸れていった。拍子抜けだわ。今日は篭城するつもりで、大量に食料を買い込んだっていうのに。テレビの台風情報を見ていると、いろいろ準備しなきゃという気にさせられるんだよね。今回もだまされてしまった。
 なぜかわたしは昔から天気予報が大好きで、ニュースの時間帯には各局の天気予報はしごをする。あの「気象衛星ひまわりからの映像」だの、「雲の動き」だの、「明日の天気」だの、「最低気温と最高気温」だの見ていると飽きないのだ。Yahoo!にあるピンポイント天気予報コーナーにもしびれます。なんてったって、自分の住んでいるところの天気が分かるんだからね。地方に行ったり、外国に行ったりしたときも、ニュース番組の天気予報が待ち遠しい。普段みているのと違う地形に、違う「晴れマーク」や「雨マーク」が出てきたり、まして滅多にみない「雪マーク」なんかあるときにはもう・・・とにかく目が離せません。
 そして何よりも、今日の話題は台風。台風のときには、いつもは番組の最後に位置している地味な天気予報コーナーが、番組の最初にやってきたりする。そして、白い大きな台風が、太平洋上から日本列島に覆いかぶさってくるのが分かる、あの派手な図! どうやっているのか分からないけど、台風の進路予定図まで教えてくれて、なんだかとっても科学的! そして自分の住んでいるところに台風が来るかもしれないときの、あのそこはかとない緊張感! 台風は天気予報のコーナーにとって、この時期にしかないビックイベントなのである。といっても、だから台風が好き、といってるわけではありません。派手な天気図でなくても、雲が覆っていたり、ぜんぜん雲がなかったりする、普段の天気図も大好きです。

女は女である

une femme est une femme
1961年 仏・伊
監督 ジャン・リュック・ゴダール
出演 アンナ・カリーナ
ジャン・クロード・ブリアリ
ジャン・ポール・ベルモンド


 ゴダールって、こんなコミカルな映画もつくっていたの?とまずびっくりした。「24時間以内にこどもがほしい」と突然いいだすアンジェラ(アンナ・カリーナ)と、結婚するまでこどもなんか欲しくないと突っぱねる、パートナーのエミール(ジャン・クロード・ブリアリ)、このカップルの痴話げんかに巻き込まれるアルフレッド(ジャン・ポール・ベルモンド)の三人で繰り広げられるコメディ「女は女である」。
 いってみれば他愛のない三角関係モノだけど、たとえばもし今これをリメイクするのは相当難しいかもしれないな、と思った。何より、映像のこのセンスのよさは越えられないのでは? とにかく文句なくカッコいいし、アンナ・カリーナのかわいらしさは全開です。オープニングや字幕の文字の入れ方、アンジェラとエミールの住む部屋のインテリア、エミールの働く本屋さんでカラフルな色彩にいるアンジェラ、アンジェラの粋なファッション等々、絵になる映像のオンパレード。
 目玉焼きをポン!と空中に放り上げて、電話をとりにいき、もどってきてまたフライパンに目玉焼きをうける、というシーンがあって、こういうアソビってゴダールにしては珍しくない? そのあとアンジェラが、階段で目玉焼きをフォークでつっつきながら食べていて、これを見たとき、今日のばんごはんは迷わず目玉焼きにすると決心したよ。

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リニューアル

 Mach mal Pause?のリニューアルです。サーバでいろいろトラブってたし、新規一転でtopからbbsからcinemathekから全部変えました。
 最近は映画を見る余裕もなく、新しい記事は増えていませんが、またぼちぼち書いていこうかと思います。ここを訪れてくださる皆さま、またあらためてよろしくおねがいします。

ユマニテ

l’humanite
1999 年 仏
監督: ブリュノ・デュモン
出演: エマニュエル・ショッテ
セヴリーヌ・カネル
フィリップ・ティリエ


 ブリュノ・デュモン監督の「ユマニテ」(l’humanite,1999年、仏)について。「ユマニテ人間性」という倫理的な響きを帯びたタイトルで、デュモンが現そうとしたものは何なのか――。
 晴れた日にはイギリスが見えるという町に住むファラオン(エマニュエル・ショッテ)は、刑事だ。二年前に妻と子を亡くして、今は母と二人暮し。自転車で汗を流し、畑で野菜を育てている。ある日彼は、11歳の少女の強姦殺人事件を担当することになる。目撃者がなかなか見つからず、捜査は難航する。捜査の静かな進行とともに、ファラオンが、隣に住むドミノ(セヴリーヌ・カネル)に誘われてその恋人ジョゼフ(フィリップ・テゥリエ)と3人でドライブをしたり海岸に遊びにいく日々が丹念に描かれる――。
 
 映画が始まってほどなく、殺された少女の下半身が映し出される。修正がかけられてはいるが、性器が映し出されている。開かれた白い足には赤い痣が点々とつき、蝿が這っている。草むらに放置された少女の死体を目撃したファラオンは、警察の廊下ですすり泣く。人間のすることではない、と。だが上司に、感傷より捜査だ!と怒鳴られる。
 また別のシーン。アルジェリア出身の麻薬の密売人が検挙される。おそらくひどく訛っているフランス語、母を知らず、麻薬のからんだ生活から逃れることなど思いつきもしない、貧しい男。彼に対してファラオンは言葉をかけず、ただ彼の匂いを嗅ごうとする。強姦殺人事件の犯人が最後に検挙されたときも、ファラオンは泣き止まない被疑者を抱きしめてキスをする。
 ファラオンはおそらく刑事には不適格なほど、繊細である。彼は他人の「悲しみ」や「痛み」を感じ取り、それを嗅ぎ取ろうとする。不器用に思えるほど、「言葉」を人間に対してはかけない。人間に対しては、彼はただ「悲しみ」を抱きしめ嗅ぎ取ろうとする。
 だが、少女の家族も、麻薬の常習犯も、精神病院の患者たちも、ファラオンによって癒されるわけではない。もちろん「癒される」と考えること自体が傲慢である。他人の「悲しみ」がそこにあることを無視せずに向き合うには、ファラオンのような形で共鳴するしかないと思う。けれども誰も救われはしない。
 それに、生きている者には「悲しみ」があるけれども、死んでしまった少女は心ある人々の「悲しみ」の材料になるだけだ。殺された少女の剥き出しの性器は、「強姦」「殺人」という行為のもつ暴力性を露呈させる(いやさせているはずだった。ここに機械的に修正をかけた映倫は、この映画が表現しようとしたことをこれまた暴力的に殺いでいる)。一人の少女がある日突然、誰かによってその生を強制的に奪われる。映画には、彼女の名前も顔も出てこない。死体となって、モノとなって放り出された姿以外の彼女を知る手立てはない。
 ただ傷つけられた死体を残すしかなかった少女には、「悲しみ」を表現することも許されておらず、ただ虚無だけがはぽっかりと開いたままなのだ。
(Sunday, July 15, 2001)

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