ローラ

Lola
1981 年 独
監督: ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー


 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの「ローラ」を観た。観たのはいいんだけどドイツ語版で字幕なし。これはきつかった。自分のドイツ語力のなさをひしひしと感じておちこむおちこむ。でも今の時代、インターネットがございます。最近もっぱらご愛用のGoogleちゃんで検索して、あらすじを知ってしまえばオッケー、のはず。ところが、Google日本語では「ローラ」はヒットしないんですね。「ラン・ローラ・ラン」ばっかりでてくるの。もしかして日本では未公開なんだろうか。でも英語版に切りかえると、文句なしのドイツ語の情報をゲットできました。Googleエライ!
 映画の舞台は1950年代の西ドイツ、市役所の土木・建築責任者というかたちでフォン・ボームが赴任してくる。アデナウアー政権時代で、厳しいがそれゆえにある意味偽善的な性道徳が支配していた時代、建設ブームの波にのった企業家シュカートと彼の愛人ローラが、売春宿である賭けをする。堅物のフォン・ボームを、公衆の面前でローラの手にキスをさせられるかどうかという賭けである。ローラはそれに成功し、フォン・ボームは美しいローラを好きになる。あとでローラが夜の女だと気づいて深く傷ついた彼は、シュカートの関わっている賄賂まみれの建築計画をつぶしにかかる。けれども結局、彼の反抗はローラとの結婚で引っ込んでしまう。ローラは上流社会への切符を手にしながらもシュカートとの関係を続け、シュカートは建築計画を無事着工でき、フォン・ボームは腐敗した社会のなかにとりこまれて「幸福」になる。
 物語の最後が「結婚」で終わるのは、ハッピーエンドのパターンである。それまでどんなにゴタゴタがあろうとも、結婚によってすべては丸く収まる。この作品もまた最後を「結婚」で締めくくる。それまでのゴタゴタが収まり、みんなが「幸せ」になる。微温的に腐敗した時代には、「悲劇」などおこりえないし、「真の愛」など幻想でしかなく、実際には愛は打算的にしか現れない。だから、シニカルなハッピーエンドを描くのが精一杯なのだ。好き勝手に生きているはずのローラが、実は一番生きるのに飽きているようで、そのことが社会の閉塞感を如実に物語っているかのようだった。 
(Sunday, June 03, 2001)

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惑星ソラリス

Soraris
1972 年 ソ連
監督: アンドレイ・タルコフスキー
出演: ナタリア・ボンダルチュク
ドナータシ・バニオス
ユーリー・ヤルヴェト


 スタニスラフ・レムの原作は読んでいないので、どこまでがタルコスフキーのオリジナルなのかは分からない。ただ、かなり難解な映画だ、とは思う。
 以下、ストーリー紹介とかなり長めのコメント。
 某国において、惑星ソラリスを研究するというプロジェクトがあった。だが、ソラリスに向かった熟練飛行士や科学者がおかしくなってしまうという問題が起こり、地上では、このプロジェクトにこれ以上予算をつぎ込むべきかどうかが議論されていた。ソラリスの〈海〉が高度な知性をもっているのではないか、という仮説はすでに唱えられていたが、それは実証もされなければ否定もされないまま、ただ年月だけがすぎていた。宇宙コロニーに現在残っているのは3名の科学者だけ。主人公のクリス・ケルビンはこの計画の中止を伝える者としてコロニーに送り込まれる。
 クリスはそこで、荒んだコロニーの内部とスナウトやサルトリウスの奇妙な行動にとまどい、友人だったギバリャンが鬱病のために自殺したことを知る。彼はクリスに「これは幻覚ではない。良心の問題だ。わたしは自分で自分を裁く」という謎めいたメッセージを残していた。コロニーには彼ら以外の存在がいた。クリスのもとにも、死んだ妻〈ハリー〉が現れる。ソラリスの〈海〉が、人間の心の奥にあるイメージを具象化して送り込んでくるというのだ。
 最初にクリスがとった対応は、〈それ〉を宇宙空間に追い出すというものだった。彼は冷静に科学者として行動する。だがそれは無駄な行為だった。なぜなら、〈それ〉は異質な生命体などではなく、自らのうちに潜む「良心の問題」の具象化だったからだ。つまり、クリス自身が抱え込んできた問題を解消しないかぎり、〈それ〉は何度でも現れる。
 科学者たちは自分たちの使命として、ソラリスがもたらすこの現象を解明する義務を負う。けれどもこの現象は、科学者個人の「良心」や「罪」に関わるものが具象化するという形で現れている。科学的義務が道徳の問題に交差してしまうために、かれらはきわめて深刻な精神的危機にたたされていた。この問題に対して、サルトリウスは科学者としての自分を全面に押し出し、〈それ〉を研究対象としての単なる異質生命体と見ようと努める。スナウトは科学的義務と良心の具現の狭間に立たされて、混乱と憂鬱のなかに引きずり込まれている。ギバリャンは、良心の呵責に向き合い、そして己れを恥じて自殺する。
 クリスは〈ハリー〉を前に、ギバリャンと同じ、「良心」に従う道を選ぶ。10年前に妻は自殺した。彼は自分では気づかないうちに、彼女を追い込んでいた。おそらく、ハリー自身の神経過敏さ、クリスの少しばかりの冷淡さ、妻と母との関係がうまくいかなかったことなど、ちょっとしたひびが重なって、最悪の結末にまでいたってしまったのだろう。
 クリスは目の前の〈ハリー〉をもう一度愛そうとする。異質な生命体ではなく「妻」として。〈ハリー〉は、彼の「罪」を告発しにきたものにも、それを赦すものにもなりうる。ギバリャンは己の罪に耐えかねて自殺した。だがクリスは妻との関係を再構築していく。かつてなら見捨てたであろう妻の発作的な行動をも、心の底から見守ろうとする。彼の贖罪ともいえる行為は、〈ハリー〉に人間としての命を与え、クリス自身にも新しい命を吹きこむ。奇跡が起こった、といえるのかもしれない。〈海〉とのコンタクトが成功し、「ソラリス問題」は一応の終結をみる。
 クリスはソラリスの〈海〉を見ながら、「人間は自分や家族を愛することはできても、人類を、地球を愛したことはなかった」と呟く。ソラリスの〈海〉の混沌とした渦を前に、クリスは「人類愛」のむずかしさに思いを至らせる。
 結局、ソラリスの〈海〉が表象しているものは何だったのか。われわれに「謎を投げかける」ものというしかないだろう。科学という知のレベルを超えて、人間の存在そのものに、あるいは集合体としての人類そのものに「謎」を投げかけてくるものだ、と。そしてその「謎」とは、ソラリスの〈海〉が知りたがったこと、つまり、人間の「良心」に関わる領域に潜んでいるのだ、といえるかもしれない。
(December 20, 2001)

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ラン・ローラ・ラン

Lola Rennt
1998 年 独
監督: トム・ティクヴァ
出演: フランカ・ボテンテ
モーリッツ・ブライブトロイ
ヘルベルト・クナウプ


 「ラン・ローラ・ラン」には三パターンのストーリー展開がある。それぞれに与えられた状況、それに対して主人公が最初にとった行動はまったく同じなのに、ちょっとの時間差がぜんぜん異なる結論をもたらすのだ。テクノのリズムにのってローラがベルリンの街を疾走する姿がカッコいいのもさることながら、映画の構成が美しくかつ哲学的でさえある。
 人間の人生は、すごろくのように一つのステップを踏めば次のステップが決まっているようなものではない、と思う。ひとは生れ落ちる場所も親も時代も選べないし、居住する地域の制度のなかで生きるわけだから、環境に規定された存在であることは否定できない。だが、一人の人間がどんな生の軌跡を描いていくかは、本人の一つ一つの選択の積み重ねによるところが大きいだろう。にもかかわらずその人にとって、どんな選択肢をその都度選んでいくか、あるいは選ばされていくかは、究極的には、その瞬間にならないと分からない。選んだ選択肢が次にどんな状況を引き起こし、それがどのように波及してさらなる選択肢を導いていくかは、いっそう予測不可能なことである。
 この映画はそういうことを思い出させてくれる。
 映画の話はここまでだが、もう少し話を続けてみたい。
 ひとはじぶんの行動をすべて自分で「主体的に」決定しているわけではない。
もう少し丁寧にいうと、「主体的」になにかを「選択」できる状況は、人間にとってとても限られたことでしかないとわたしは思っている。もちろんじぶんから賽を投げることは多々ある。だが、投げた賽がどのように転ぶかまでは、わたしの思惑を超えている。投げた賽が次に進む道を指し示したとき、道が拓かれたという事実そのものがわたしに影響を及ぼしはじめる。そのことになんらかの意味をみいだせれば、未来が今のわたしの行動や思考を規定しはじめる。
  では、ひとが主体的になにかを決定しきれないのだとすれば、そのひとは自分の行いや発言に責任をもたなくてもすむのだろうか。
 もちろん、ひとは自分の行いにも発言にも責任をもつべきだし、それをだれかに責任転嫁できるものでもない。ただそれは、だれかと向き合っている状態に自分が置かれているときの話である。とりわけパブリックな場においては、他者に対して「わたし」というものを、それなりに一貫した主体として立ち上げることが必要だ。だが、そのような自分を立ち上げたとしても、「そのような主体ではないわたし」というものが、わたしのなかにはつねに寄り添っている。その「わたし」は、一つの言葉にクリアにまとめあげられるようなものでは、決してない。
 「主体的に」なにかを行いうる状態は、じぶんのなかでもかなり言語化可能になっている状態(何らかのアイデンティティを受け入れている状態?)だ。けれどもそれは、そこにいたるまでに、多くのありえた可能性をすべて押し込めていった結果でもある。
 そのクリアになった状態をよしとする立場からではなく、苦痛を伴いつつ押し込められていったものを覚えておこうとする立場から、わたしは世界を見ているような気がする。明確に言語化されたものでさえ、裏にあるもの/あったかもしれないものを見たいと思っている。
(Friday, January 05, 2001)

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ライフ・イズ・ビューティフル

La Vita e Bella
1998 年 伊
監督: ロベルト・ベニーニ
出演: ロベルト・ベニーニ
ニコレッタ・ブラスキ
ジョルジオ・カンタリーニ


 俳優人の演技もすばらしいし、ヒューマンな暖かさがあるし、しかも極限状態におかれたなかでのユーモアの強さが描かれていて、この映画の評価が高いのも分からなくはない。でも、そうすっきりと感動できなかったのが正直なところ。
 ユダヤ人収容所をテーマに扱ったドキュメンタリーなり記録文学なりを目にしていれば、多分「現実」はこんな小ぎれいな話どころではなかっただろうと思わざるをえない。もし私が収容所の生き残りだったら、こんな映画は観たくないだろうな、とも思う。あまりにもきれいな話すぎて、うそっぽい。それどころか、残酷ですらある。なんで収容所を舞台にしなくてはならないのかが分からない。
 ユダヤ人であること自体が死に値する、という理不尽すぎる状況に置かれて殺された人、あるいはそこから生き延びてきた人を題材にして、そんな状況を理解することなど絶対にできない「私たち」を感動させていることに、ためらいを覚える。
by kiryn (2001/10/9)

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レジェンド・オブ・フォール

Legends of the Fall
1994 年 米
監督: エドワード・ズウィック
出演: ブラッド・ピット
アンソニー・ホプキンス
ジュリア・オーモンド


 「果てしなき想い」という日本語のサブタイトルがダサいですね。なんのためにあるのでしょう?
 ブラット・ピット演じるトリスタンとジュリア・オーモンド演じるスザンナを中心にした物語という触れ込みだったと思うのだけれど、話を盛り込みすぎではないかという印象を受けた。
 ざっとみても、南北戦争を経験して徹底した反戦家・反体制派になる父親(アンソニー・ホプキンズ)と彼に教育された3人の息子たちの親子関係、体制派になる兄(エイダン・クイン)と野生児の弟トリスタンの兄弟対決、トリスタンをめぐる女性同士の確執、放浪癖のあるトリスタンという男の内面的なありかた、等々、どれかひとつにしぼって映画を作ったほうが引き締まったのではないかと思われる。家族の対立や男女の対立も中途半端に調和してしまっているようで、物足りなさを覚える。大河ドラマですね。
 ブラピが最後にクマと戦うシーンは、「やっつけ?」てかんじのB級な終わり方で、これは笑った。
by kiryn (2001/12/28)

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ローマの奇跡

Milagro en Roma
1989 年 コロンビア・西
監督: リサンドロ・ドゥケ・ナランホ
出演: フランク・ラミーレス
ヘラルド・アレンジャーノ
アマリア・ドゥケ・ガルシア


 ガルシア=マルケスの「聖女」という作品が原作。
 南米のどっかの国が舞台で、サルのおもちゃで遊んでいた7歳くらいの女の子が突然死んでしまう。父親が嘆きながら子供を埋葬するんだけど、何年かたって墓を開いたときに、娘がそのままの状態で棺のなかに横たわっているのが発見される。墓を開いたときに、一番最初に、娘の小さな足の裏が現れたのを見たとき、父親が半狂乱になって子供をかき寄せる。服は汚れ、髪や爪は伸びているけど、腐敗もせずに墓のなかで何年も眠っていた娘を抱いて、父親は「奇跡だ!」と叫ぶ。
 それから父親は「奇跡の認定」を求めて、眠ったままの少女をつれて、はるばるバチカンに向かう。法王とのアポイントはなかなかとれない。ローマの下宿で娘と日々を過ごしながら、結局彼は、南米に戻っていく。
 サルのおもちゃが偶然動いたとき、娘は目覚める。娘をかきいだく父親。
 でも原作では、娘は眠ったままだ。娘が「聖女」なのではなく、父親が「聖人」だったから、この奇跡は起こったのだと読者にひっそりと伝えられる。
 感想とかはヘタに述べないほうがいい映画もあります。これはまさにそんな映画。
by kiryn (2001/11/21)

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汚れた血

Mauvais Sang
1986 年 仏
監督: レオス・カラックス
出演: ジュリエット・ビノシュ
ドニ・ラヴァン
ミシェル・ピコリ


 そのときの自分の抱えている感情や感覚に驚くほど共振してしまう映画がある。カラックスのこの映画は、わたしにとってはまさにそんな作品で、きわめて個人的な感覚と結びついてしまっている。(まあこれは、映画的にどうだったかというコメントが書けないということなのだが。)
 ある時期に集中的に何度もこの映画を観た。恋愛の不条理な力、とでも名づけうるものに支配されていたときで、この映画にあった「疾走感」に痛いくらい共振していた。いつ失速するともしれないような息苦しさを、何度も味わいたかった。
 ドニ・ラヴァンとカラックスはよく似ていたし、当時カラックスの恋人だったジュリエット・ビノシュも、カラックスにかなり影響を受けていたのではないかと思う。この三人の雰囲気はとてもよく似ている、と思っていた。
 ビノシュは寡黙で、ときどき息で前髪をふっと吹く。最後になってはじめて走り出していく姿も目に焼きついている。
 「ダメージ」あたりの作品で、ファム・ファタール役に「?」となってしまうビノシュだけど、今ではわたしも、彼女はちょっと田舎娘っぽい役の方がいいと思っているけれど、この映画だけはファム・ファタールなビノシュ、にしておきたい。
by kiryn (2001/12/15)

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マイ・ビューティフル・ランドレット

My Beautiful Laundrette
1985 年 英
監督: スティーヴン・フリアーズ
出演: ゴードン・ウォーネック
ダニエル・デイ・ルイス
サイード・ジャフリー


 ロンドンの下町にコインランドリーが開店する。店主のひとりはイギリス人の男の子、もう一人はパキスタンからの移民の男の子で、恋人同士。イギリスって移民社会なんだな、とこの映画をみて思った。パキスタン系の男の子が、移民排斥のデモのなかに恋人の顔をみつけて、ショックを受けた、と淡々と語るシーンがある。その静かな非難を、彼の恋人は、言葉もなく、ただ顔を歪ませてじっと聞き入っている。心に残るシーンだった。
by kiryn (2001/10/12)

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メトロポリス

Metropolis
1926 年 独
監督: フリッツ・ラング
出演: ブリギッテ・ヘルム
アルフレート・アーベル
グスタフ・フレーリッヒ


 資本家と労働者の対立、地下の工場で機械を動かす労働者、紅一点のマリアとロボット・マリア、ロボット・マリアが労働者たちに、機械を壊し、暴動をおこすよう狂ったように扇動する。マリアの陶酔しきった、エロティックなダンス、暴動を起こして水害事故をひきおこしパニックになる労働者たち――この熱をおびたストーリーが一切無音のまま展開する。もちろん1920年代の映画だから音がないんだけど、かえって強烈なまでの印象を与えられてしまう。
 文句をいえば、最後にマリアが資本家の息子と結婚してハッピーエンドになるのは、どうも解せない。ハッピーエンドにする必要なんかぜんぜんない映画なのに。
by kiryn (2001/10/31)

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ムトゥ 踊るマハラジャ

Muthu
1995 年 インド
監督: K.・S・ラヴィクマール
出演: ラジニカーント
ミーナ
サラットバーブ


 この映画の何がすごいかっていうと、ストーリーが展開するかと思えばすぐさま強烈なダンスシーンが始まって、歌い踊り終わったころには、観ている方に前のストーリーをさっぱり忘れさせてしまうところだ。しかもスローモーションで踊っているのに普通の速さに見えるんだから、実際にはいったいどのくらい速く踊っているんだろう? 出てくるオッサンたちはみんな太ってるし、太っているのが美しいのかなあやっぱり? ああ美的感覚がちがう。しかもムトゥの出生の秘密って、なんじゃそらなストーリー展開。馬車でカーチェイスするときも、追いかける悪党どもがつぎつぎに馬車から投げ落とされるんだけど、「投げ落とされる」というよりは、自分からスピンかけて馬車から飛び出していっているようにしか見えないぞ。第一部と第二部に分かれていて、第一部が終わった後、ムトゥがいきなり「人生はドラマだ!!!」って叫んで「ちょっと休憩」という文字が入るのには、腹がよじれるほど笑いました。もう改行なしの一気書きコメントよ。
by kiryn (2002/1/2)

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