セレンディピティ

Serendipity
2001 年 米
監督: ピーター・チェルソム
出演: ジョン・キューザック
ケイト・ベッキンセール
ジャーミー・ピヴェン


 ジョナサン(ジョン・キューザック)とサラ(ケイト・ベッキンセール)はある夜偶然出会い、お互いに一目ぼれ。名前と連絡先を教えてくれというジョナサンに対して、サラは古本や手袋やエレベーターといった小道具を使いながら、ほんとうに「運命」によって二人が結ばれているのかを試そうとする――。
 ってかんじの、ものすっごーくベタなラブ・ストーリーで、あまり好みの映画ではなかった。時間の流れを表現するやり方にしろ、小道具の使い方にしろ、正直あまりセンスが感じられなかった。定石どうりの脚本というかんじで、ひねっているようでひねっていない。ハッピーエンドのラブ・ストーリーはセンスが命なのよ?
by kiryn (2002/4/7)

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ジェイン・エア

Jane Eyre
1996 年 英
監督: フランコ・ゼフィレッリ
出演: シャルロット・ゲンズブール
アンナ・パキン
ウィリアム・ハート


 原作がよかったりすると、ついつい映画の評価が厳しくなってしまう。この映画も、原作をえらく端折ってしまっていたのが気に入らなかった。
 原作では、あるピューリタンの伝導師が、ジェインに強烈なプロポーズをしてくる。彼はこれからインドに布教しにいくのだけれど、信仰心から同じように強い信仰心をもつジェインを妻にしたいというわけだ。愛はないけれど、愛に匹敵するほど強烈な信仰心からジェインを求める、その伝導師の磁力に、ジェインはなかなか抗えないのですね。ピューリタンの強烈な信仰心なんてなかなか理解しがたいものだからとても興味深くて、あたしは彼に強烈な印象を覚えたわけです。
 なのに、映画ではこのピューリタンがジェインに遺産相続の話をもってくる弁護士と同一にされちゃって、映画を観ていてがくっとなってしまった。ままある話だけどね。
by kiryn (2001/10/14)

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シラノ・ド・ベルジュラック

Cyrano de Bergerac
1990 年 仏・ハンガリー
監督: ジャン・ポール・ラブノー
出演: ジェラール・ドバルデュー
アンヌ・ブロシェ
ヴァンサン・ペレーヌ


 文武ともに才能にあふれるシラノの唯一のコンプレックスは、鼻が人並み以上に大きいということ。従妹ロクサーヌを愛していても、彼女が美青年のクリスチャンを慕っていると知ってしまったら、文才のないクリスチャンの代わりにロクサーヌにラブレターをどんどん送っちゃう。あふれる才能が邪魔をしてか、なぜか日陰者には徹しきれないシラノ、実らない恋に悩んでるはずなんだけど、とにかくよく喋るので、なんだかとってもオチャメなシラノ。
 ロクサーヌはひじょうに聡明な女性なので、シラノがヘンな小細工しなければ、意外とうまくいったのではと思ってしまうが、それだとお話にならないか。
 ヘボな詩をかくパン屋さんがお気に召しております。一生懸命書き綴った詩の紙きれは、現実主義者の奥方に焼きたてパンの包み紙にされて、さっさと売られてしまう。そのときのパン屋さんのカナシミといったら!
 買ったパンの包み紙に、(たとえヘボな詩でも)詩が書いてあるなんて、なかなかイカしているじゃありませんか。
by kiryn (2002/1/20)

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39 刑法第三十九条

1999 年 日
監督: 森田芳光
出演: 鈴木京香
堤真一
岸辺一徳


 刑法第三十九条「心身喪失者の行為はこれを罰しない。心身耗弱者の行為はその刑を減刑する」
 映画において、殺人事件の被告・柴田真樹(堤真一)は多重人格者であると認定されることから、弁護士・鑑定人・検察官は刑法第三十九条の適用に傾いていく。精神医助手小川香深(鈴木京香)は、被告との鑑定の時間を通じて、彼という人間をまるごと知ろうとする。彼女の出した結論は、被告に刑法第三十九条を適用しないことだった――。
 (ちょっといいわけになるけど、映画自体が複雑なストーリーになっていたので、あまり内容を詳しく書くのは控えたい。これだけ登場人物を出していてるのに、ひとりひとりの人間が丁寧に描かれていて、非常に見ごたえがあった。
 以下では、この映画のテーマが「刑法第三十九条」なので、この法律そのものを中心としてコメントを書いていくことにする。)
 ドイツ語では「法」と「正義」はどちらもRechtである(ちなみに「権利」の意味もある)。法は正義である。けれども、「法」が体現する「正義」は、どの程度のものなのか。絶対的な正義があるという前提で、その絶対的な正義を体現しているのか。それとも、ある社会秩序を維持するというかぎりでの「正義」にとどまるのか。
 前者の「正義」はさしあたり脇に置いておくとして、少なくとも法は、ある社会の秩序を維持し、それを守るよう社会構成員に強制する機能をもつ。法は社会構成員のもつ「権利」を擁護し、同時に、その権利を行使するさいに伴う「責任」を負うように強制する。
 具体的にいえば、わたしたちは、形式的には、自分の意志で契約を結ぶことができるし、自分の権利が侵害されたときはそれを裁判所に訴えることもできる。他方、契約に違反したり、他人の権利を侵害したときは、その罪を負わなければならない。つまり、権利をもつことと責任を負うことは一体となっている。
 ある社会構成員のなかでこの仕組みから除外されているのが、こどもと精神疾患者である。原理的にかれらには権利が与えられていない。それゆえ責任を負うこともない。
 慣習法や法の成り立ちを調べれば、そのようになってきた歴史的な理由は説明されうるのだと思う。ただ、いったん刑法第三十九条のような形で明文化されると、被告の精神状態が危ぶまれる事件になったとき、法を実際に運用する側(弁護士・検察官・裁判官)はまず、「この条文を適用できるかどうか」を問題の焦点とせざるをえない。条文が適用されると、それは「犯罪」ではなくなる。映画のなかでも、弁護士かだれかが遺族に向かって、「事故に遭ったものと思ってください」と言い放つ場面がある。「心神喪失者」と認定された者の「犯罪」は、権利をもたない人間による行為だから、熊やライオンに殺された場合と変わらないということだ。
 ここで二つの問題が浮かび上がってくる。
 一つは、熊やライオンのように檻に閉じ込められていたわけではない人間が犯罪を犯したあと、いやじつはこれは人間ではなくて熊やライオンと同じなんですよ、といわれたところで、犯罪被害者は納得できないという不条理。この〈納得のできなさ〉は一体どこに由来するのだろう。
 もう一つは、あなたは権利をもち責任を負える人間ではない、したがってあなたの行為は犯罪ではないと宣告される側の問題である。この宣告は、「心神喪失者」と認定された被告自身が、自分の行為を罪と認め、罰を受け、人間として罪とともに生きていく、あるいは死んでいく〈可能性〉が断ち切られることを意味する。
(精神を病んだ者が犯罪行為をしても罪にならないなんて理不尽だ!というありがちな意見は、少なくともこの映画の主張ではないはずだ。)
 このふたつの問題は、実は法そのもの――ここでは刑法第三十九条――に原因がある。精神的に危ぶまれる状態にある人間の犯罪を前にして、法はあたかも、彼女/彼らがもとから「心神喪失者」であったかのようにみなそうとする。つまり、実際には、法が「心神喪失者」をつくりだしている。
 犯罪被害者の〈納得のしがたさ〉の根拠はここにある。もともと狂った人間の犯罪行為だから無罪なのではなくて、法によって「心神喪失者」と認定されるから無罪になるのだ。それゆえ、不条理を生み出しているのは、まさに法そのものということになる。
 犯罪加害者にしても、法によって「心神喪失者」と認定された時点から、彼はそれ以前から「心神喪失者」であったかのように見なされることになる。もとから権利も与えられていなければ、責任も負わない存在へと変質させられる。もしも、罪を負いうることが〈人間の条件〉であるとするならば、この条文は、「罪を負わなくていい」と宣言することで、「心神喪失者」もまた人間でありうる/ありえた可能性を一切排除してしまう。
 刑法第三十九条は、加害者を一人の人間としてみなさないと宣告することで、加害者自身をいやしめ、同時に、罪を責め、あるいは赦すこともありうる対象としての加害者を奪う点で、被害者をもいやしめる。この二重の意味で、この条文は問題をはらんでいるのではないだろうか。
(January 6, 2002)

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ざくろの色

1971 年 ソ連
監督: セルゲイ・パラジャーノフ
出演: ソフィコ・チアウレリ
M・アレクヤン
V・ガスチャン


 あなたがよく観る映画は洋画だろうか、それとも邦画だろうか。普段よく観る映画はやはり、多くの人にとって、欧米の映画か日本映画だろう。数をたくさん見れば、その映画の「文法」構造のようなものを知らず知らずに学習してしまう。だから普段見慣れていないパターンの映画を見ると、ものすごく斬新に思えてしまう。たとえば、ちょっとブームになったインド映画はミュージカルにジャンル分けできそうだけど、あのひたすらダンシング!な世界はもう「インド的」というしかない、というように。
 そういった既成観念を打ち破られてしまうような魅力をもった映画のひとつに、アルメニアの映画監督セルゲイ・パラジャーノフの映画を挙げることができる。ここでは彼の数少ない映画のなかでもとくに「ざくろの色」(1971年、アルメンフィルム)を紹介したい。
 ところが、紹介、と書いた途端とまどいを覚えざるをえない。ストーリーを紹介することがこの映画を語ることにはならないからだ(アルメニア、グルジア、アゼルバイジャンの詩人サヤト・ノヴァの生涯を幼年時代、宮廷詩人時代、晩年の修道院時代に分けて映像でつづるというのが簡単なあらすじである)。まったく異なる文化圏に住む人間にとって、この映画が持っている豊穣な意味は謎めいた記号でしかなく、ひたすら「感じる」ことでしか映画の世界に入り込めないのだと思う。だから、一つ一つのシーンが、まるでイコン画を見ているように神秘的で謎めいた様を帯びて現れる。聞いたことのない異国の詩、異国の言葉、登場人物の静かな動き、驚くほど平面的な構図、美しく彩色された絵本をめくっているような映像展開、抑制的でありながら目くるめくような色彩にあふれ、エロティックでさえあるような映像、美しい王妃と青年詩人を同一人物が演じることから醸し出される両性具有的な雰囲気――といったように。
 この映画は、幼いころに遊んだ万華鏡の世界を思い起こさせる。くるりくるりと回していくと、色とりどりの小さなビーズがぱたぱたと位置を変えては繊細な模様を編みだしていく――それが不思議でいつまでも回しつづけていた、あのこどものころの感覚にいざなわれる。
 思うに、パラジャーノフの世界には何か混沌とした生命の豊かさのようなものが根底に流れているのだ。「ピントリッキオとラファエルの主題の変奏」という彼の作品がある。そこでは美しい少年の頭に孔雀の羽飾りや螺鈿の飾り物、顔には薔薇、胸元には貝や真珠がひたすらにコラージュされてある。ドレスデンの美術館にこのオリジナルの絵画が展示されてあるのだが、パラジャーノフによって装飾された少年は、オリジナルとはまったく異なる豪奢で耽美的な雰囲気を醸し出している。何というか、パラジャーノフの作品に接すると、彼は身体のうちに過剰なるものをもっていて、それがとめどめなく溢れでているのだと感じざるをえない。尽きない泉のように、言語化できない何か混沌とした意識の渦がそのまま表面に溢れでているのだ、と。
 その混沌の渦はわたしにとってたとえようもない魅力である。彼の魔術的世界には幻惑される。はじめて「ざくろの色」を見たときからずっと、わたしは幻惑されつづけている。
(Wednesday, November 15, 2000)

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”シンドラーのリスト”の真実

Surviors of the Holocaust
監督: スティーブン・スピルバーグ


スピルバーグの有名な映画「シンドラーのリスト」の関連映画に「”シンドラーのリスト”の真実 / SURVIORS OF THE HOLOCAUST」という作品がある。一種のメイキング・オブにあたるのだろう。ナチスの迫害を受けてアメリカに亡命してきた人々が、自分の体験を語るドキュメンタリーである。スピルバーグが編集をしていて、さすがに構成はうまい。でもこの「うまさ」が逆にあだになっている作品である。いまさらスピルバーグに何かを期待しているわけでもないのだが、この作品を見終わったときの違和感といったらなかった。
 一人一人が語るエピソードはあまりにも辛くて、観ている間、涙を抑えることができないほどだ。自分自身の発した言葉につまって、不意に沈黙が訪れたりする瞬間、涙を流すこともなく淡々と告白を続けたあとの沈黙――スピルバーグの編集で小きれいにまとめられてしまっていてさえ、サヴァイバーたちの、語っても語りつくすことなどありえないであろう告白は、観ている者の心をわしづかみにするには十分だ。
 この作品の最後をスピルバーグは、今は愛する家族に囲まれて幸せだと語る老人で締めくくる。そして観ている側は「安堵」する。この人たちはあんなに辛い目にあったけど、今はアメリカで幸せに暮らしているんだ、と。スピルバーグは、わたしたちを不安に陥れる告白を彼女/彼らにさせながら、同時に、心配することはありません、みんな今は幸せだから、ほらやっぱりナチスはいけないよね、と語りかけているようだ。
 違和感の正体はここにある。ほんとうは、わたしたちは「安堵」してはいけないはずだから。安堵して日常の世界に戻ってきて、それっきり忘れ去ってしまってはいけないはずだから。収容所で自分の犯した「罪」の記憶にいまなお囚われているユダヤ人、彼の顔に刻まれた空虚な闇をわたしたちは覚えていなくてはならないのだ。画面に映し出された、日常の世界と調和できないまま治りきらないでいる、見えない傷跡を――。
(Saturday, November 25, 2000)

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去年マリエンバートで

L’anne’e dernie’re a’ Marienbad
1961 年 仏
監督: アラン・レネ
出演: デルフィーヌ・セイリグ
ジョルジュ・アルベルタッツィ
サッシャ・ピエトフ


ストーリーそのものはたいして複雑でもなくて、上流階級の美しい既婚女性に、男がアプローチをかけて、上流社会の倦怠の生活から出て行くことを促し、最後には女は男と一緒に行こうとするというもの。ここにいてはあなたは自分を見失うばかりだから、ぼくと一緒に行こう、というわけです。
 ところがこの映画はものすごく実験的である。
 舞台は古典的で豪華なホテルとフランス式庭園、そこに集う上流階級の人々、かれらは演劇を鑑賞し、ゲームに興じ、終わりのない歓談を楽しんでいる。着飾った人々は静止しており、カメラがかれらを正面に捉えるやいなや人々が会話をはじめる、といったようにカメラワークにもアクセントがある。
 フランス式の庭園には、植物も樹木もなく、石や砂利や大理石で囲まれた固い硬質の空間が演出されている。
 豪奢なホテルを歩き回りながら、男は同じ独白を繰り返す。呪文のように繰り返される独白は、上流の人々の集う閉じられた空間へと誘っていく。
 男は女に、去年マリエンバートでお会いしましたね、と声をかける。女の返事は、わたしはしらない、である。男は去年ふたりのあいだにあったことを語りつづける。女はつねに、わたしはしらない、と答えつづける。
 男の語る過去の記憶は、フランス式庭園のなかに凝固している。
 お人違いでしょう、おぼえておりません、という女のつれない返事が、男の過去をますます凝固させている。けれども、いつしか、その結界がほころびはじめ、過去と現在の境目が曖昧になっていく。
 女が何かを守るために嘘をついていたのか、男が嘘をついていたのかどうにでも解釈できるだろうけれど、さいごに女は男と一緒に、この閉じられた空間から出て行こうとする。
 あくびをかみ殺しながら見なくてはならないけど、映画の手法の点でもひじょうにおもしろい映画であるのはまちがいない。
by kiryn (2001/11/20)
ショートヘアに黒い膝丈のドレスを来たデルフィーヌ・セイリグが美しい。とくに、階段を上る姿や、手すりに手をおいてちょっと斜めに立つ姿など、見ていてうっとりしました。

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ゴースト・ワールド

Ghost World
2001 年 米
監督: テリー・ツワイゴフ
出演: ソーラ・バーチ
スカーレット・ヨハンスン
スティーヴ・ブシェミ


 アメコミ原作。アメリカの女子高校生イーニドちゃんは、下膨れなまっちろいお顔にでかい黒ぶちめがね、下半身がちょっと太り気味で、ぼてぼてと歩く。口は災いの元をそのまんま地でいくキャラクター。彼女が好奇心からか、ちょっかいをだしはじめる相手が、アメリカ版オタクのシーモアくん。
 シーモアは「名盤オタク」だ。つまり、古いデルタ・ブルースとかのレコードを集めて、同じ趣味の人たちとパーティをしたりする。パーティでの話題はもちろん、名盤について重箱のすみをつつくような話。いわゆるオタクな人たちの行動パターンを踏襲しているかと思われるが、「名盤」というあたりに多少高尚さが漂っていると思われる。この点でなんとか高校生のイーニドちゃんとの恋愛(?)も可能になったかと。これが「フィギュア」とか「特撮」とか「ビデオ」とかになってくると、多分接点がみつからなくなってくるんだろうなあ。
 にしても、イーニドちゃんの存在感はすごいですね。この女優さん、もうフツーの役はできないんじゃないかな。
by kiryn (2001/12/28)

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カストラート

Farinelli/ Il Castrato
1994 年 仏・伊・ベルギー
監督: ジェラール・コルビオ
出演: ステファノ・ディオニジ
エンリコ・ロ・ペルソ
エルザ・ジルベルシュタイン


 美声を保つために去勢された「カストラート」という、美と残酷さがないまぜになった奇妙な存在を音楽史のなかから浮かび上がらせたのは、この映画のユニークな点だ。人工的につくりだされた「不毛さ」の上に成り立つ「美」は、まさにバロック的といってもいいかと思う。ただし、この不毛さを補填しようとしたところに、ストーリー的な失敗の原因がある。
 でもそれをあげつらっても仕方ない。見所はやはりなんといっても、カストラートの舞台。彼が歌いだすやいなや、貴婦人たちがばったばったと失神していくのはなかなか壮観。半分コンピュータで合成された声だと知ってはいても、オペラに詳しいわけでもないわたしには十分楽しめた。
 つい、レコードまで買ってしまった。
by kiryn (2001/12/15)

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君さえいれば 金枝玉葉

He’s a Woman/She’s a Man
1994 年 香港
監督: ピーター・チャン
出演: レスリー・チャン
アニタ・ユン
カリーナ・ラウ


 人気女性歌手ローズ(カリーナ・ラウ)の熱狂的ファンたるウィン(アニタ・ユン)が、彼女に近づくために男装してオーディションに参加。このオーディションはローズの恋人である敏腕プロデューサーのサム(レスリー・チャン)が、企画したもの。偶然にもウィンは合格してしまい、彼女は男装したまま歌手デビューすることに。
 ところが、一昔前のテクノ少年みたいな格好したボーイッシュなウィンの飾らない魅力に、なぜかローズもサムも参ってしまう。ウィンはローズにがんがん迫られるし、サムはサムで自分がゲイではないかと思い悩むし、もうてんやわんやである。このあたりのドタバタぶりはなかなかウマクて見飽きない。
 多分に少女マンガ的ノリであるとは思うけど、気軽にさくっと楽しめる。それにアニタ・ユンの天真爛漫さぶりは、好感もてます(でもこの子、目がぎょろっとしておちょぼ口で、いやでも西川きよしを思い出すんだよねー・・・)。
by kiryn (2001/12/12)

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