食あたり

 牡蠣で大当たりしてしまった。多分、牡蠣だと思う・・・。でも一個しか食べてないのだけど。
 御堂筋線に乗っている間、冷や汗と手の震えと異様な気持ち悪さで、悪夢のような時間をすごした。よく耐えたなー自分・・・。自爆テロになった気分だった。よかったよね、まわりの人たち。帰宅して、とにかくコンタクトと化粧だけは落とさなくてはと思っているのだが、体が動かない。こたつのなかでへたり込んだまま、数十分。やっとこさそれだけして、布団にもぐりこんだけど、悪寒で歯の根は合わないし、結局数回起きては吐くを繰り返した。魂抜けてたと思う。次の日は昼にやっとおかゆを啜った。
 けっこういいお値段払わされたというのにこの結末かと思うと、あの店二度と行かねーと恨み言がでてくる。それより今年の冬は牡蠣を食べるのが怖いー。他のメンツはどうだったのか? 気になる。

リオタール『遍歴』(memo)

「第3章 隔たり」より
科学技術の複雑化を伴う世界、それに対抗しうる潜在性を美的領域、芸術の機能にみる。読んでいると、「雲」の喩えが出てくる箇所には、重荷を下ろしたときのような自由を感じた。
「カントは『判断力批判』では想像力を提示Darstellungの能力とか力とかと呼び、表象Vorstellungの能力とか力とかとは呼んでいません。・・・現象を理解可能なものにするためには「私は考える」が必要でしたが、提示の働きはもはやこの「私は考える」を必要とはしていないと言えるでしょう。」
「こう考えることもできるでしょうか。感受性の雲が流れるなかでは、水泳したり航海したりする「私」など一切存在しないのだ、ただ触発だけが浮遊しているのだ、と。感情は誰かによって感じ取られるものでも、何か同一性に結び付いているものでもなく、一つの雲が別の雲によって「触発される」ようにするものなのです。」(63−64頁)
「抽象とミニマリズムといういわゆる近代、現代芸術の主流は、純粋な想像力によっては芸術家が必要としている形式をえることができないということにその存在理由をもっている、そのことは私の眼には明らかなのです。事物をただ単に提示することはメディアが一般化し、思考が自閉化したために不可能となり、われわれが向かい合う映像や音声はそれらが計算されたものである限りすでに思考されているので、時間と空間はもはや所与として接近されるのではなく、思考として接近されるようにある、これが崇高の美学の基本的な条件です。」
「私はこの〔ハイデッガーのいう存在の〕後退によって芸術家は新たな科学技術を用いて別の形式を探求することができるようになると主張したいと思います。」(79頁)
「崇高の美学のうちに刻み込まれた諸能力の分裂は感性における複合化、複雑化のしるしなのです。・・・芸術は・・・感じ取られ注釈されなければならないのです。これらすべての文に共通する記号体系は存在していないので、これらの文によって形成される網の目はその複雑性が増すにつれてもろいものになっていきます。われわれが思い煩うべき唯一の合意は、この異質性を、この「感覚の不一致」を、強めていくような合意だけなのです。」(81−82頁)

老舗のパン

 最近知り合いになったおじいちゃんが、会うたびに神戸岡本の老舗のパン屋さんフロイン堂の食パンをくださる。お気に入りのパン屋さんらしく、おすそわけしてくださっていたようなのだが、先日はついに一斤まるごといただいてしまった。うーん、、、もしかしてわたし貢がれてる!? しかしココのパン美味いなー・・・。
 それにしても、岡本近辺は散財してしまうお店が多いですね。雑貨屋さんとか、かわいいお店が多くてついフラフラ寄り道してしまう。ケーキ屋が多い気がする。ケーキはそんなに買わないので味はよく分からないんだけど、洋物の粉もんに強い神戸ゆえ、ぜったいおいしいんだろうなあ。なんか異次元な街だわー。
 

土鍋派

 ごはんを炊くときはもっぱら土鍋派です。
 早い・安い・旨いとどっかの店のキャッチフレーズみたいに三拍子そろっていて、蒸らしたあとすぐに食べるごはんは、ピンと張ってツヤツヤしていて、とにかくおいしい。電気炊飯器が無用の長物と化してだいぶ経つ。そんなわけで、土鍋は冬以外にも年中活躍しぱなっし。多目に炊くとおいしさが増すので、炊くときは大量に炊くのがよろしい。一合しか炊かないときに、さすがに土鍋は大げさなので、そんなときは普通のお鍋で炊く。電気炊飯器って時間がかかりすぎて、イラチなわたしには合わないのだな(イラチというのは関西弁? 「せっかち」という意味だと思う)。お米を洗って土鍋に入れて、炊いて蒸らし終わるまで約30分。この時間でおかずを作る!というか、正確には、この時間で作れるものしか作ってない。
 炊飯用と別に、もう一つ土鍋を購入したい。二つあれば最強。最近蒸籠が壊れてしまったので、また買いに行こうと思っているけど、蒸籠の代わりに土鍋で代用しようか? でも見栄えは蒸籠のほうがおいしそうかなあ・・・うーん、迷う。
 電気炊飯器は処分してしまって、代わりにパン焼機がほしい。でも今のパン焼機って、基本的に食パン仕様だからちょっと二の足を踏んでいる。堅いパンが焼けたらいいのだけど、パンに関しては餅は餅屋かも、と思ったりもする。自分ではなかなか購入に踏み切れないので、誰かプレゼントしてくれないかなー、サンタさん来ないかなー。
 

映画感想&冬支度

  映画「チャーリーとチョコレート工場」の感想、久々にアップ。この映画は夜中に酔っ払いながら見ると、もっとゲラゲラ笑えただろうなあ。
 急激に寒くなってきた。この前の休みに冬支度を済ませてよかった。コタツがあるのとないのとでは大違い。でも今年は灯油が高いなあ。石油ストーブもいちおう出したけど、灯油を買うのはもうちょっとガマンかしら。床暖ほしー。
 テレビをつけると秋の行楽を奨める番組が多くて、ちょっとウンザリする。どこにも行く予定なんかないし。

チャーリーとチョコレート工場

charlie and the chocolate factory
2005年 英・米
監督:ティム・バートン
出演:ジョニー・デップ
フレディ・ハイモア
ヘレナ・ボナム=カーター


 ティム・バートンの映画はすごくおもしろいんだけど、オタク度の高さに少々呆れるというのが、いつもの感想。今回もまさにそうで、すごく貧乏だけど素直でいい子な少年チャーリーを主人公に、一見子ども向けのエンターテイメントに見えるんだけど、これがまたハリポタとかとはぜんぜん違う。マトモに思えるものを中心に置きつつ、すぐに綻び始めて過剰でシュールなものがボンボン飛び出してくる。凝りすぎ、やり過ぎ、そこまでやらんでも、というのが延々続く。
 まず、すっごく貧乏なチャーリーの家は思いっきり傾いていて、そんな傾いている家はないだろうと笑える。チョコレート工場がまるでロシア・アヴァンギャルドの建築物みたいにかっこいい。かっこよすぎる。フリッツ・ラングですか。ガラスのエレベータの軌道ラインも単に直線ではなくてスウィングさせて作っているし(細か!)、くるみ割りのリスもわざわざ特訓したらしいし、ウンパ・ルンパ族のダンスシーンは音楽ジャンルごとに振付けられていて、もうそんなとこまで凝らんでも〜。子どもたちがまた小憎たらしいのばかりだし、ウィリー・ウォンカはマイケル・ジャクソンにかぶるし、とにかくヘンな映画! ウォンカのチョコレートで「2001年」をやってくれたところはウケました。たしかにチョコレートは黒い板だわ。
 ところでウォンカ・チョコは美味なのだろうか? チョコ好きなわたしとしては、あのチョコレート工場の内部をみたあとでは、ちょっと疑問に思う点だったりして。かなり妙チクリンなものが入ってそうだよね。
(16.nov.2005)
コメントはこちまで。

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フェスティバルゲートって・・・

 「チャーリーとチョコレート工場」を見てきた。ちょっと時期遅れだったせいか、やっているところが限られていて、新今宮の「フェスティバル・ゲート」に入っている映画館で見た。ここでやっている映画は他でもやっていることが多いので、これまで来る機会がなかった。
 フェスティバルゲートというのは大阪市の第3セクターが経営しているアミューズメント施設だ。とにかく経営難に苦しんでいるというのは知っていたが、ここまでヒドイとは思わなかった。なんか廃墟に近い。建物自体はそれほど汚れていなかったけど、店がほとんど閉まっている。しかも、廃墟なのに建物にまき付いているジェットコースターだけが轟音をとどろかせて動いている。
 映画館のある階に行こうとエレベータを待っていたら、先にのっていた人がとにかく異様な風采の人だった。一瞬乗るのをためらったけど、乗ってしまった。でも頭のなかで警戒警報が鳴っていて、すぐに非常ボタンを押せる入り口付近に立っていたのだけれど、次にあいた階で今度は覆面の人が乗ってきた。そーか、ここ、プロレスのジムか何かが入ってたんだっけ・・・。エスカレータに乗ると、向こう側から来たガタイのいいアマゾネスなお姉さん集団とすれちがったけど、もう驚かない。プロレスファンらしき人がサイン求めていたりしても驚かない。見晴らしのいい全面窓のベンチで、でかいヘッドホンつけた人が一人でプレステに熱中しているのも、もう驚かない・・・。大阪の珍名所(迷所)だわココ。労務者のおっちゃんがウロウロしているのはもうお約束というかんじで・・・。
 映画館も休日の昼間でこの空き様では、かなり厳しいものがあるよね。しかも映画がまためちゃくちゃおもしろくって、ガラガラの映画館で爆笑しまくりだった。その間もジェットコースターの轟音で映画館はゆれまくりだった。

真夜中の映画鑑賞

 かたやきポテチ、ハム、漬物、ビール、それにニューヨーク風チーズケーキと珈琲を用意して、真夜中の映画鑑賞を敢行。見たのは、友人に借りっぱなしの「ミッション・インポシブル2」。ビールは、プレミアム・モルツ→エビス→モルツ→プレミアム・モルツ→以下同で消費されていく。ダイエット道的には、けっしてやってはならない真夜中の飲食で、おかげさまで今朝の気分はサイアク。しかし、夜中の段階では、酔っ払って見たからか、映画がすごくおもしろかった。なんか大げさで。ニヤけた笑顔のすてきなトムのイメージビデオみたい。ちなみに「1」は見ていない。「2」でこれだけおもしろいんだったら「1」はもっとおもしろいのかな。
 監督はジョン・ウーだったのね。映像はすごくおもしろかった。フラメンコの足裁きや、階段を駆け上がる足を延々映して、足や手先だけで表現するところはうまいなあと思った。あと製薬会社の社長がトム扮する博士に向かって、「この亡命ロシア人め!」と叫んだところが妙にツボ。個人的に今、亡命ロシア人が気になっているので、そういうセリフまわしが出る背景が気になる。しかしこれはもしかしたら、ものすごくピンポイントでマニアックな関心かもしれない。
 

脱ネット中毒宣言

10月までハロウィーン商戦で街中がオレンジと黒でにぎわっていたのに、11月になったとたん、クリスマス商戦って・・・。11月の存在意義について、しばし悩む。
 わたしに必要なものは、本と映画とPCとお茶(含:珈琲)と音楽だと思う。これだけあればいい、基本的に好みは変動していない、根っからのインドア派。
 でも最近、ネットが本気で邪魔だと思う。ネットに無駄な時間をいっぱいつぎ込んでいる。ついついネットの海を漂っている。昔っからそうだったけど、相変わらずそう。無線LANのネットワーク・アダプターをはずしたぐらいじゃダメ。いつのまにか、手が勝手に動いて接続している。
 いいかげん、自分のこのユーワクに負けやすく逃避しやすい性格に愛想をつかしたので、昼間は強制的にネットを使えないようにする。ネットは夜のみ、時間を決めてする(いくら何でもメールチェックはしなきゃいけないので、一日一回はつながないとダメ)。できれば12時まで。いや、12時頃まで。
 
 最近、映画が見れません。ちょっといろいろ立て込みすぎて、見る余裕がない。ネットサーフの無駄な時間を寄せ集めれば、映画の2、3本は見れるんじゃないかと反省しつつ。・・・時間の使い方が下手なんだろうなあ・・・。

計算カード

 秋晴れが続いて散歩日和。
 今日、道すがら、計算カードが落ちていた。
 小学一年生用の、「7+8=」とか「9+2=」と書いてある例のカードである。ヘンゼルとグレーテルの童話ばりに、てんてんと落ちていた。通学中にかばんのなかからこぼれおちたのか、それとも計算しながら歩いていて、気づかずに落としたのか。落とした子は、計算カードの数が減っていることに気がつくのかな。減ったら、それはそれでラッキーと思うのかな。
 こっちもついつい下をみて計算しながら歩いてしまった。道には変なものが落ちている。