エグザイル・イン・サラエヴォ

exile in sarajevo
1997年 豪
監督:タヒア・カンビス
    アルマ・シャバース


 この映画は旧ユーゴスラヴィア内戦末期の状況をドキュメンタリー形式で撮ったものである。今年はボスニア紛争のデートン合意からちょうど10年の節目にあたる年で、ちょうど先週、スレブレニツァの追悼式典が催されていた。なかなかタイムリーなときに映画を観たように思う。
 映画では、監督のカンビスが主役も兼ねている。彼が亡母の記憶と自己のアイデンティティを探すために、オーストラリアから母の祖国サライェヴォに赴くところから映画は始まる。
 1995年当時サライェヴォはセルビア軍に囲まれ、多民族からなる市民たちは市のなかに閉じ込められた状態に陥っていた。いつどこで狙撃されるか分からないという異様な事態のなかで、サライェヴォ市民は――むしろ生きるために――できるだけ普段どおりの生活を営もうとする。それでも映画に登場する人々の生活にも、死や暴力が無残な形で訪れる。12歳の少女ニルバナの死と、目の前で親しい人の殺害とレイプを目撃した7歳の少女アミラの証言は、とりわけ胸に突き刺さる場面だった。「戦争の被害は女性に最後までのしかかる」という独白は、生き別れた母の人生も含めて、監督が映画にこめた主張の一つではなかったか。
 映画のなかでもっと分かりやすく表現されていたのは、民族主義ではなく多民族共存を、というメッセージである。とくに東西文化の知の集積庫であったはずの図書館の破壊跡と、他宗教にも寛容だった時代に生きたボスニア貴族の墓を映した場面では、多民族共存という理念こそがボスニアの培ってきた遺産だったはずだし、異なる宗教や文化を受け入れる精神こそ永遠に残り続けるものであるべきだと語られている。
 これに加えて、国連の無力さと反イスラムが見え隠れする西側メディアへの批判、および、セルビア民族主義者を「セルビア人ではなく戦争犯罪者だ」として糾弾する点も強烈だった。断固とした態度をとらない国連はセルビア勢力に加担しているも同然だという苛立ちは痛いほど伝わってくるし、あの場におかれたら誰だってそう思うだろう。無差別殺戮を繰り返す民族主義的なセルビア人は、「セルビア人でなく戦争犯罪人」なのだという憤りも納得する。ただ、こうした主張にはどこか気になる点があって、以下その点について、まとまらないままにメモしておく。
 たしかにミロシェヴィッチやカラジッチは「戦犯」ではあるけれども、しかし、同時に彼らはやはり「セルビア人」ではないのか、と思ってしまうのだ。映画ではほとんど描かれていないが、セルビア人もまた、わたしたちはクロアチア人に殺されてきたというだろう。90年代の内戦のみならず、バルカン半島は20世紀を通じて「ヨーロッパの火薬庫」であり、この地域の民族紛争は今に始まったことではなかった。狂信的な民族主義者を「戦犯」として切り離してしまう態度は、彼らを繰り返し生み出してしまう土壌に対する根本的な反省に至らないのではないか。
 これは例えるならば、「ナチスの犯罪」は「ヒトラーとその一味」がやったこととして、彼らを「普通のドイツ人」と切り離せるのか、という問題に近いかもしれない。多民族共存の歴史がバルカン半島にあることは確かであっても(そしてそれが貴重な拠所であるとしても)、その過去の理念でもって20世紀の民族主義の狂気は相殺できるのか、という問いが残ると思うのだ(これまた、「ゲーテやカントを生んだドイツ」でもって「ナチスの犯罪」を相殺できるのか、という問いが近い?)。
 映画は明らかに、クロアチア人およびサライェヴォ市民に視点をおいて撮られていて、監督の立場は「代弁者」という印象を受ける。これは彼が(おそらく)クロアチア系オーストラリア人である点にも関わってくるのかもしれない。彼はサライェヴォにおける「亡命者」であって、厳密にいえば「当事者」ではない。政府筋やマスコミ関係のさまざまな特権をもっていて、あえてその場に身を置いている存在なのである。バルカン半島に真の秩序が回復されるには、そして多民族共存の理念が実現するためには、そこに住まう人々が民族主義の負の遺産を受け止めていくしかないのではないかという気もする。だがこれは「代弁者」の語れることを越えたところにある問題だろう。(もちろん、内戦の渦中に撮られたセミ・ドキュメンタリーであるという性質と、多民族共存の理念を再生させるべきだという主張の重要性を無視するつもりはない。映画では語られなかった問題として、書き留めておく。)
(20.jul.2005)
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のみの市でお買い物

20050715-toy.jpg
黄色いタイプライターと青いエアラインバッグが可愛すぎる! ヨーグルトの小瓶はご愛嬌です。
これが欲しいと思ったものを一発でゲットしたので、すごーくゴキゲンなのです。

ついに買ってしまった・・・

 いちおう部屋の雰囲気とかインテリアとか人並みに気にしていたりするわけだけど、長年同じところに暮らしていると、いろんなモノが増えてきて、部屋の空気も澱んでくる。狭い家なので、適当に掃除してモノを捨ててなんとか凌いでいるけれど、捨てる分だけ買いこむことも多い。
 本とか服とかは衝動買いに近い形で、あまり何も考えずに買い込んでしまう。それも良し悪しだけど、ま、小物だし。それに対して、買おうかどうか随分逡巡したブツがあって、それを先日とうとう買ってしまった。何かというと、ステッパーです。あのひたすら踏み踏みして脂肪を燃焼するとかいうエクササイズ・マシーン。そんなものを買ってしまいました。逡巡するのも理由があって、場所をとる、部屋の雰囲気に合わない、メカメカしててなんか不細工、飽きたときにひたすら邪魔、効果あるのか?等々、いくらでもでてくる。なのに買ってしまったの・・・。
 買ったからにはがんばって毎日踏み踏みするさー。一日中家にいるときの運動量の少なさは考えるのがこわいくらいなので、この買い物は間違っていないんだと自分に言い聞かせる。とにかく一ヵ月後の効果に期待する。運動して、美味しいものを食べる!

for myself 3

 Sometimes I need to think who I am, to observe objectivly what I think.
 Sometimes I need to feel solitude. Don’t be afraid of the void and meaningless of myself.

映画

 『パーフェクト・サークル』という映画を観た。旧ユーゴスラヴィアの内戦を扱った作品で、見終わった直後もため息をついてしまう映画なんだけれど、少し時間がたつと、描かれている内容にもっときちんと向き合わなくてはと思わせる映画だった。
 この地域の映画は、何をみても、人間の描き方が秀逸。シンプルなのに奥が深い。東欧独特のセンスってあるよなーといつも思う。

パーフェクト・サークル

le cercle parfait
1997年 ボスニア、仏
監督:アデミル・ケノヴィッチ
出演:ムスタファ・ナダレヴィッチ
アルメディン・レレタ
アルミル・ポドゴリッツァ


 
 90年代の後半だったか、ベルリンのクロイツベルクというトルコ系住民が多く住む町に足を運んだとき、案内をしてくれた人が、道端に座り込んでいた女性と子どもをさして、「あの人たちは難民だ」と教えてくれた。一瞬通り過ぎただけで、彼女たちがいつからそこにいて、いつまでそこにいたのかは知らないし、本当に難民だったのかもよく分からない。ただ、内戦によって生み出された難民が西ヨーロッパに大量に逃げてきているという事実報道と、道端に座り込むしかない二人の姿が重なりあって、東欧からバルカン半島にかけての民族紛争がほんとうにすぐ近くで起こっていたことなのだという実感をもった瞬間だった。
 この映画では、旧ユーゴスラヴィアの内戦渦中のサライェヴォを舞台に、老いた詩人と孤児となった兄弟が、互いに見知らぬ者同士ながら、擬似家族を作りつつ生きていく姿が描かれている。
 タイトルとなった「完全なる円」が何を意味するのか気になっていたのだが、作中、詩人がコンパスも使わずにぐるりときれいな円を作る場面がでてくる。「完全なる円」はそのまま、セルビア兵の無差別攻撃によって包囲されたサライェヴォの街と重なる。詩人は自殺願望と詩も紡げなくなるほどの深い絶望によってサライェヴォの街を離れようとせず、幼い兄弟は詩人の尽力にもかかわらずサライェヴォの街を離れることができない。「難民」になることすらできなかった、あるいは難民になろうとしなかった人々がいたのだということに、胸を衝かれる。内戦に巻き込まれた人々にとって、気がついたら、「完全なる円」の内側に閉じ込められていたという事態だったのだろう。自分たちが暮らしていた場所が、ある日、世界から隔絶された絶望の地と成り果てていたのだ。
 1997年の作品で、撮影はまだ内戦の渦中で撮られたという。直接の戦闘シーンが描かれるわけではない。しかし、普通の人々が内戦下でどのように生活していたかがよく分かる。水の配給、闇市での物々交換、家中に隠しておく食料、燃え上がる建物、砲弾で崩れた家屋、炎上した車両、横転させた車や車両で作ったバリケード、背を屈め小走りに大通りを渡る人々、常に聞こえる銃声の音――いつどこから弾丸が飛んでくるか分からないという「日常」は、悪夢以外の何ものでもない。
 そうした状況下で描かれる詩人と子どもたちのエピソードは、一つ一つが切なく、輝かしい。詩人自身の自殺するイメージが頻繁に繰り返されて、絶望の度合いが深まっていくにつれて、子どもたちの無邪気さや健気さが何ものにも替えがたいものとなってくる。秀逸な映画だと思う。ただ、わたしは多くを語ることはできない。感情の固まりが、見終わったあとにも胸のなかで疼いてる気がして、言葉にすることができない。
(09.jul.2005)
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イタリア料理と『シュガシュガルーン』

 先日、いちど行きたいと思っていた本町のパン屋さんに行ってきた。本町は会社が多いところだから、土日はこの店はいつも閉まっている。平日にわたしがその辺りにいくことはほとんどないので、これまで縁がなかったのね。たまたま平日に本町にでることがあったので、この機会にとばかりにその店に向かう。そしてパンを買って満足する。ついでに併設されていたイタリア料理店にもふらふらと入っていった。
 イタリア料理のコースはリーズナブルなお値段、しかもそんなにコテコテしていなくて美味しい。ワインセラーもちゃんとあって、ソムリエさんもしっかりしてそう。イタリア料理ならこれ以上何を申しましょう。 
 量的にも十分だった。パスタでおなかがいっぱいになったところに、さらに肉料理の鶏のソテーがどどーんと出てきて、もう食べられませんてなった。ついでにピザも頼んでしまったのが敗因かしら? でもデザートにはガトー・ショコラとヴァニラ・アイスが出てきて、「これってシュガシュガルーン・セットだよね!」(←安野モヨコのマンガ。愛須バニラと加藤ショコラという魔女がでてくる。先日アニメ化。なつかしの魔女っ子メグちゃんを彷彿とさせる)とか言いながら最後までパクついていたわたし。
 翌日の体重計はものすごーく正直に増えた分を加算していた。そんなにバカ正直でなくてもいいんだよ、とつい声をかけたくなるところだが、、、、でも前の体重計はアバウトに0.5キロ刻みだったしな、、、。あんなに食べたのに、なぜ次の日もおなかはちゃんとすくのだろう?

to be free from the past

 Last night I met some friends and ate italian food with them.
 A friend of mine said, “it seems for me to have left something in school.” He seemed to see only himself and to be enslaved by the past. I honestly can’t share his sentiment because the past appears for me to be the past, no more and no less.

for myself 2

 I get tired easily of studying foreign languages, but I rather like to study it. Because to study foreign language is to open another world and to access another thinking. When I use a foreign language, I express myself more objectively. Certainly I better know exactly what I myself write this sentense, but at a time I feel alinated myself. It’s a irritating sensation but a slight strangeness.
 Don’t think it as a duty, enjoy studying it at ease.

ヤノシュの本

 ヤノシュの絵本が届いた。まず”Komm, wir finden einen Schatz”を読んだ。どんな話かというと−−
 ある日トラくんとクマくんは、金銀財宝の詰まった木箱を探してお金持ちになって、美味しいご馳走をたらふく食べて、素敵な服をきてダンスホールで踊ろうと、盛り上がりに盛り上がる。翌日さっそくシャベルとバケツをもって宝探しに出かける二人。穴掘りしたり、海賊の宝箱を探して海に潜ったり。途中、モグラやライオンやメンドリに出会って、みんなの宝物が何かを聞いたりしながら。でも何をやってもうまくいかないわけです。「世界は突然空っぽになって、海はとっても冷たく深くって。また川沿いのおうちもずいぶん遠くになっちゃって・・・」とがっかりする二人がなんとも哀れ。文無しになって、へとへとになって、やっとこさ家に戻ってくる。
 それから、庭で取れるカリフラワーに、塩とバタで味付けしたじゃがいもを添えて、ソファに座って仲良く食べる。耳を澄ませば、ミソサザイが囀り、太陽が庭の草をやさしく照らしている。ま、これも幸せだよね、とホッコリした終わり方。
 とにかく絵がかわいいし、トラくんとクマくんの旅にこっそりついていくる(?)カエルのギュンターとトラアヒルのオマケの旅も、見ていて楽しいのですね。