映画感想「あずみ」

 一瞬ひまな時間ができて、あれもしようこれもしようと思っていたら、あっというまに首がしまる状態になっている。気がつくと三月。梅の花は咲いているけど、まだまだ寒い。喉を痛めたみたいで、風邪っぽいけど、季節がら花粉症かもしれない。まあ花粉症も国民病化していて、関連グッズが昔よりたくさん出てきていいよね。どうせかかるなら多数派の病気にかかるほうがいいとつくづく思う。
 昨晩は「あずみ」をみた。テレビをつけたら放映されていたので、なんとはなしにみたら、おもしろくてそのまま最後までみてしまった。使命って結局なんなの?とか、いきなり船上にどうやってでてきたの?とか、時間関係どうなってるの?とか、物語の整合性をあわせようとすると頭がパンクするので(マンガだし)、ひたすらアクションとビジュアルを堪能することにした。頭のなかがパーになって、それが気持ちよかった。なにより上戸彩ちゃんがかっこいい。それにつきる。無敵すぎ。返り血浴びても、霧吹きでふきつけたアクセントになるくらいの量しか浴びない。アクション・ヒロインは昨今ではたくさんいるし、アンジェリーナもジョボビッチもユマもかっこいいけど、やっぱ東洋人キャラのアクション・ヒロインのほうに惹かれるなあ。体型も顔立ちも少女的というか子ども的というか、なんか卵っぽくていい。

花束

 知り合いの結婚式2次会にお誘いをうけたが、都合により馳せ参じられないので、花を贈ることにした。HPをみるかぎりオシャレ〜な花屋さんにFAXで注文。予算と花の色系統を伝えて、あとはお任せとなるらしい。華やかな人生をおくっているわけでもない大方の人間にとって、一生のうちで花束をもらえるなんて数えるほどしかないんだよなあ。自分で買う花は慎ましいものだし。そんなことをつらつら考えていて、花屋さんには、ぜひ華やかなブーケをつくってくださいとお願いしておいた。お届けなので、どんな花束になるのか自分では分からないんだけど、頼みますよ、花屋さん。
 閑話休題。
 昔から計画をたてることが苦手だった。計画をたてても、実践できない。そんなんだから、記憶頼り・腹時計頼りで、スケジュール帳も時計ももたない生活をしていた。でもだんだんそんな悠長なこともいってられなくなってきた。スケジュール帳も時計ももつようになったけど、だからといって、これまでの散漫で無計画な生活態度がぬけきるわけでもなく、日々時間におわれて焦燥をかかえこむ羽目におちいっている。ストレスとかプチ鬱とか、原因はこの無計画さにあるんじゃないかという気がしてきている。
 なんとかするしかない。なんとかする方向は、無計画の反対だから、計画的な人間になるしかないわけですよ。計画的な人間になるためのノウハウなら、世の中にやまほど出ているハウツー物を読み漁るのが手っ取り早い。人にもそうすすめられた。あんまり気もすすまないんだけど、ほっておくと手にも取らないだろうから、こんな文章をかいて自分を追い込んでいるのです。

チョコレート・スフレ

 世の中ヴァレンタイン・モードなので、わたしのチョコレート大好き曲線も少々上がり気味。日々ネットサーフでチョコレート菓子のレシピをみてはうっとりしている。そしてカロリー表示をみてぞっとしている。そんな人生における無駄な時間をすごしつつ、今日は、材料的に今すぐ作れるレシピだったので、チョコレート・スフレを作ってみることにした。
 わたしはお菓子をつくるとき、ダイエット〜とかいって、示されている砂糖やバタの分量を勝手に減らしてしまう。そして大抵、味のボヤけたお菓子をつくってしまう。先日つくったチーズケーキはレモンの味ばかりが際立つ代物、今日のチョコ・スフレもフワフワ感はあったものの、「スフレってこんなんだっけ??」と首をかしげる代物だった。
 まあわたしのこの手の度重なる失敗はもうどうでもいいのだが、ヴァレンタインの「手作りチョコ」なるものって、世の中的に評価高いよね。なんか「手作りチョコ>高級チョコ」という図式があるようなんだけど、手作りのお菓子って、味的にはたいしたことないと思う(←おもに自分の失敗経験から)。価値があるとすれば、「焼きたての旨さ」と「(比較的)ヘルシー」でしょう。もしわたしがチョコをもらう側であったとして、ヴァレンタインに「手作りチョコ」をもらったとしても、「手作りキットの金額で高級チョコ2粒くらいは買えるのになあ」とかって思うんじゃないかな〜と、、、そういう失礼なチョコ・オタクの紳士諸君だって、数は少なかろうけれどいるんじゃないでしょうか。え?いないですか?

美術館

 京都市美術館の「フェレンツェ――芸術都市の誕生」展をみにいってきた。向かいの京都国立近代美術館で「草間彌生展」もやっていたけど、あの水玉シリーズをずーっとみていくのは、考えただけでしんどそうなのでやめた。「フィレンツェ展」のほうはまあ客寄せ的な企画だけど、案の定、人も多くて大変だったけど、けっこうおもしろかった。絵画だけではなくて、彫刻とか建築とか金物細工とか医学グッズとか毛織物とか、いろんな角度からこのルネサンス都市に光をあてていて、万遍なく見せてくれているようだった。ミケランジェロ作の磔刑のキリスト像がよかった。あれはすばらしいね。美術館に行ったのがほんとに久しぶりすぎて、自分でもびっくりする。
 京都のパン屋さん探しもしたかったけど、事前チェックを怠ったため不発。目についたパン屋さんでいくつか買ってみたけど、味はフツーてかんじで、もう記憶に残っていない。でも晩ごはんに食べたイタリア料理が絶品だった。またぜひここのお店には行きたいなあ。ただ、隣の席の人が一品食べるたびに煙草を吸う人だったのが唯一の不満。煙害にずっと悩まされる。居酒屋じゃないんだからさ〜。席をかえてもらったらよかったなあと後でぼやいても遅いか。お店のほうも配慮してほしいよ、せっかくの料理なのに。
 しかし京都は寒い。もう少しふらふらしたい気分もあったけど、寒さにまけて帰ることにする。やっぱり大阪にもどると体感温度が1、2度はあがる気がする。

ストーブが恋しい

 今年の冬は暖冬とみて灯油を買っていなかった。昨日からのあまりの寒さにやっと石油ストーブをだして、去年の残りの灯油を燃やしたが(←ちょっと残っていた。燃えるもんだなあ)、あっというまになくなる。補充したいけど、「たきびだたきびだおちばたき〜♪」と童謡を鳴らしてやってくる灯油売りのトラックはおそらく当分こない。というのも、近所のお寺の節分祭のため、交通規制されてるから。さぶっ!
 リンクを整理整頓いたしました。映画評のサイトという建前なのに、映画関係のリンクがめちゃくちゃ少ないことに気がついた・・・。じつは友だちがいなかった・・・。

中島敦『南洋通信』

 中島敦『南洋通信』を読む。
 中島が1941年に南洋庁の官吏として赴任したパラオから、おもに妻にあてた手紙。ハイビスカスやバナナやパパイヤやレモンやジャスミンが実る自然、波もたたず真青に透き通った海に泳ぐ熱帯魚の姿、そして島民たちの素朴な生活といった、南洋の美しくも気だるい風景を写し取りながら、文面には強い望郷の念、残してきた妻と幼子への思い、本土での四季折々の生活に対する追憶、そして遠いところに来てしまったことへの後悔の念がにじみでている。
 戦前の日本政府がとった大東亜共栄圏という、今のわたしたちにとってはあまりになじみの薄くなってしまった政策がなお意味をもっていた時代に、中島が植民地の宗主国側の人間として南洋に赴いていたという事実に軽いショックを覚える。あらためてこうした書簡類を読むと、彼について抱いていたイメージの修正をうながされるようなかんじだ。日本政府の南洋政策の無意味さを指摘する箇所が散見できて、これはこれで非常に興味深く思った。
 もともと好きな作家だけど手紙を読んだのははじめてだ。おかしな話だけど、読んでいくうちに、まるで自分がその文章を書きつづっているような不思議な感覚になった。読んだことはない文章のはずなのに、すでに読んだことがあるような感覚。自分の感覚にひどく馴染む文体なのだろう。おこがましくはあるが、もし自分が彼の立場に置かれたとしたら、きっと同じようなことを感じ同じようなことを考えるのでないかと、そんな気がした。
(04.dez.2004)

雪の朝

 冷え込みが厳しいと思ったら、朝は一面の銀世界だった。というほど文学的な朝でもないけど(コンクリートの上の雪はすでに溶けていたので)、それでもやっぱり大阪に雪が積もるのはめずらしく、雪をみると気分がわくわくする。よみがえる子ども感覚。でも車の上の雪をあつめて雪玉をつくったり雪だるまをつくったりは、子どもの頃は喜んでやったけど、今はもう寒そうなんでやらない。
 今日から二月。近所のお寺の節分祭がはじまるので当分賑やかになる。巻き寿司食べたい。ヴァレンタインも近いせいか、チョコレート情報がたくさん出回っているので、ついつい煽られて購買欲が高まっている。普段はリンツとかコートドールとかのブラックチョコをもっぱら買うんだけど、ショコラティエのつくるお高いチョコレートも食べてみたくなった。梅田のハービス・エントにチョコレート専門店ができているので、今度行ってみようかな。
 このまえチョコレートを買い足したとき、ブラックチョコばかりも芸がないので、洋酒入りのリンツのチョコを買ってみた。口のなかでとろける洋酒とチョコのハーモニー・・・でもざらっとした砂糖が崩れる感触と甘すぎるチョコレートがイマイチだなあ。洋酒入りのブラックチョコって売ってないのかな。

使い捨てコンタクト

 目の調子が治ったので、さっそくコンタクトレンズをつくりにいった。診察してくれたお医者さんにかーなーりーきつくたしなめられた。古いレンズで目を酷使しすぎているのは自覚はしていたんだけど、いろいろデータで示されるとさすがにヘコむ。ワンディの使い捨てか二週間で使い捨てのコンタクトを推奨された。まあ目の健康を考えれば、使い捨てが一番いいよね・・・。
 とりあえずソフトレンズは使ったことないので、お試し用に3日分のレンズをもらってかえる。さっそく昨日と今日つかってみた。新しいレンズはやっぱり気持ちがいい。ただ、夕方には乾燥しているのが分かって、ハードより目を覆っている面積が大きい分、なんとなく息苦しい。目薬は必需品ぽい。ハードもいっしょだけど。
 もういちどハードを作ってもいいんだけど、妙に物持ちのいいわたしはまた同じアヤマチを繰り返しそう。ソフトの使い心地は悪くないし、使い捨てに乗り換えようかな。しかし、付け外しが不慣れでうまくいかない。眼球を直接触っているみたいでコワイ。

映画&風邪?

 今年にはいってはじめて見た映画。いつになく感想のアプが早い。この調子でどんどん映画をみたいものだが、、、。でも見よう見ようと思っていた映画がやっと見れて満足です。
 ところでやっぱり体調が悪いみたい。昨日、出先でめちゃくちゃ体が火照ったあと、一気に震えがきて熱がでてきた。おもいっきり風邪の症状で、家にかえったら寝こむしかないのか〜と思った。でもせっかく帰り道に梅田に寄ったので、体力がもつまで遊んでから帰ろうと考えた。とりあえずデパ地下で甘い物を食べて血糖値を上げた。なんとなくもちそうな気がしたので、そのままウロウロした。でも寒気はとまらないし、頭は重いし瞼もはれぼったいし、眠くてたまらなかった。帰ってから昼頃まで気を失ったように寝た。熱は下がったみたいで、別に風邪ではなかったみたい、、、なんだったんだ??

ダンサー・イン・ザ・ダーク

dancer in the dark
2000年、丁抹
監督:ラース・フォン・トリアー
出演:ビョーク
カトリーヌ・ドヌーヴ
ディヴィッド・モース


 共産主義時代のチェコからアメリカに移民してきたセルマは、いずれ視力を失うという難病を抱えている。彼女は、自分が失明することは仕方のないことと受け入れていても、同じ病気が遺伝すると知っていながら生んだ息子ジーンには同じ苦しみを味わわせたくないと、必死に働いて手術代を貯めていた。それは彼女の「秘密」だったし、息子に「目」をプレゼントしてやることが彼女の生き甲斐でもあった。けれども、彼女が「秘密」を人に話してしまったために、彼女の運命は一気に暗転していく――。
 客観的にみるならば、セルマの人生は最初からとても幸福とはいえないものだ。移民でシングルマザーで、しかも難病を抱えている。そのうえ、運命の暗転によって、犯罪者の烙印をおされ、最後は死刑囚として殺される。あまりに悲惨な人生で、正直、裁判のシーンなどわたしは正視することができなかった。
 けれども映画を見終わったあとは、しばらくのあいだ、不思議な余韻に満たされつづけた。セルマという女性の像にぐっと近づいていくと、単純に彼女を不幸とか悲惨とか言いきることもできなくなる。
 映画のなかで、セルマ自身が、息子に必要なものは「母親」ではなく「目」なのだと叫ぶシーンがある。失明の恐怖を抱えつづけて生きてきた彼女が、同じ恐怖と苦しみを味わうと知っていながら子どもを生んだのは、「赤ん坊をこの腕に抱きたかったからだ」という。こうした立場におかれた女性が母親になることを選ぶとき、そこにはいったいどんな決断があったのだろう。おそらく、子どもを生んだことで自分の望みが果たされた以上、その子に対して彼女は「代償」を払わなくてはならないと考えたのではないか。彼女のその後の人生は、負債を払うことが第一の目的となったのだろう。だから、工場で必死にはたらいて手術代を貯めようとしたのだし、自分の命を救うために、その手術代を転用して裁判をやり直すという機会もかたくなに拒否することにもなる。彼女の生は、「贖罪」をねがう「殉教者」のそれに一番近いような気がした。
 もうひとつ、セルマにはミュージカルに対する熱烈な思いと類まれな歌唱力があった。機械の動く音や列車の走る音や換気口から聞こえる外の音や足音といった、単調でかすかな音をとらえては、空想のなかで、無限のふくらみをもった音楽とミュージカルの世界に変えてしまう。もちろん、苦しすぎる現実のなかでは、この能力も現実逃避としてしか機能せず、それがまた胸に突き刺さるのだが。ミュージカルという基本的にハッピィなものが、この映画では見事に反転させられた使い方がなされていて、それがすごく印象的だった(いや、もともと空想や歌の力というのは、悲惨な状況におかれた人間に唯一残されている自由なのかもしれない。そうした力のもつ原点の荒々しさと素朴さが表現されているともいえるのか)。
 それでも映画は最後に、彼女に「贖罪」が成ったことを教えている。おもうに、セルマにとっては、息子に「目」が与えられてはじめて、「母」であることも受け入れられたのだ。それは彼女が自分自身と和解することだったのではないか。処刑台にたった盲目の女がその声で歓喜の歌を、息子への愛の歌を奏でる場面は、彼女に与えられた才能と課せられた負債の二つが溶け合う瞬間である。悲惨の極致でありながら、魂が力強く光り輝く瞬間で、その衝撃は地味ながらもじわじわと効いてくる類のものだ。そしておそらくは、彼女の最期をみとどけた友人たちが息子への伝達者となること、それによって、母の愛を確信できずにいたであろう息子が一筋の希望をえることを期待させられるのだ。
 同じ監督の映画でも、「ドッグヴィル」を見終わったあとには、喉に骨がひっかかったような気分が残ったのだが、この映画には痛々しさだけではなく、どこかカタルシスも感じた。それは最後の結末ゆえかもしれない。
(24. jan.2005)

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