解放感

 年末からかかずらわっていた仕事が一段落つき、他にもいろいろ目処がついてきて、久しぶりに解放感を味わっている。お買い物にも行きたいし、映画もみたいし、友達とも会いたいし、と考えると楽しい。貴重な瞬間なのでじっくり味わっておこう。
 でもここにきて気が緩んだのか、一気に体調をくずしはじめる。昨日の朝、突然目が痛くなり、ものもらいか結膜炎かと目医者に飛び込んだら、コンタクトで角膜が傷ついたせいと診断された。一週間挿し続けるようにとたくさん目薬をもらい、当然コンタクトも禁止。「コンタクトの検査いってますか?」といわれて、「いってません、、、」。ちょっと自分が情けない。コンタクト、もう変えなきゃ。目が治ったら買い替えにいこう。当分メガネ生活というのがイヤだなあ。すっぴんで人前に出ている気分だ。
 ストレスがたまっていると、体重は増え続けるし、胃腸の調子は悪いし、なんか最悪。最近やっと体重も減り始めた。でも胃腸の調子は相変わらずよくないけど、ちょっとはマシになることを期待して暴飲暴食は控えよう。でもさっそく明日は友達とイタリアンを食べに行く。新年会なのだー!とすごく楽しみ。メンツからいって荒れそうな予感、いやダメだよ荒れちゃ、、、なんかもうどうなるか分かりません。孫悟空の頭にはまっている金の輪っかが欲しい。荒れそうになるとぎゅーと締めてもらうの。あ、でも締め役の三蔵法師がいるのか(いねぇそんなヤツ・・・)。

映画感想

 年末に下書きしてあった『神曲』のコメントをアプ。駄文だけど、ほっておくと腐りそうなんで、、、。俳優さんの名前とか分からない。ググってもぜんぜんヒットしないよ。そんなにマイナーな映画なのかな。
 年始年末のテレビほどくだらんものはない。極力テレビをつけないようにして、つつましく読書しておりました。エーコの『前日島』の上巻を読む。おもしろいよー。17世紀バロックの精神が炸裂しております。ピーター・グリーナウェイの映画がもっているようなゴテゴテさを思い出すんだけど違うかな? ともあれ、ロベルトくんの運命やいかに!?てとこなんですけど、下巻買ってない、、、。

神曲

a divana comédia
1991年、葡
監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
出演:Maria de Medeiros
Miguel Guilherme
Luís Miguel Cintra


 一言でいうならば、コテコテの西洋精神史絵巻というところだろうか。「アダム」と「イヴ」、「イエス」と「パリサイ人」、「マリア」と「マルタ」と「ラザロ」、白紙の第五福音書をかかげる「預言者」、ニーチェや反キリストを下敷きにしたアンチ信仰の徒たる「哲学者」、「ラスコーリニコフ」と「ソーニャ」、そして「イヴァン」と「アリョーシャ」のカラマーゾフ兄弟を一つの空間になげこんで、それぞれを対話させてしまうという映画である。ついでに、精神病院の院長とその助手、ラスコーリニコフに殺される老姉妹もでてくる。
 よくやるなあと正直思った。ヘタをするととんでもなく陳腐になってしまいかねない舞台設定である。けれども、まず舞台を精神病院(といっても瀟洒な建物だが)にすることで、現実から隔離されたメタな空間設定がなされている。それから、役者たちがそれぞれの役柄に徹して、すでに書物で語られたセリフを忠実に迫真の演技で語りなおすから、見ているうちにぐいぐい引き込まれていく。あと映像の美しさや、舞台を意識した画面構成、さいごに映画的虚構であることを強調する仕掛けなど、かなり緻密な計算と気配りとがなされていて、知的な印象を受ける映画である。こうした出来のよさが陳腐に陥ることを防いで、それなりの見物に仕立て上げられているのだろう。
 内容的には、男と女、肉体的な愛と信仰、信仰と知、精神と肉体、善と悪、英雄と貧しき者、傲慢と謙虚、科学と信仰、等々、二元論的極限形態の対抗関係が、それぞれの登場人物の口を借りて表現されている。いわば西洋思想のコラージュだ。試みはおもしろいと思うんだけど、いまひとつ心が揺さぶられるほどの感動とかはなかった。ちょっと出来すぎなのかも。以下、おもしろかった場面のだらだらとした列記です。
 まず、イヴがイエスに出会うと、誘惑する女から突然「聖女テレサ」になってしまい、アダムがオタオタしてイエスに文句をいいにいく、という設定が笑えた。また哲学者がねっとりしたイヤミな人物に描かれていて、イヤラシサ具合ではパリサイ人を断然抜いて、かなりいい味をだしている。ソーニャはちょっと小悪魔的すぎるかんじだけど、可憐でいじらしくて、トンデモ理論の持ち主ラスコーリニコフとの対話のシーンは、この映画の見所のひとつだろう。
 それから、皮ジャンにジーンズをはいたイヴァン・カラマーゾフが、バイクで病院に乗りつけるのはなかなかかっこいい。大審問官物語を完成させて、アリョーシャに聞かせにくるという設定だ。いちおう、大審問官物語の場面がこの映画のハイライトだけど、映画の趣旨に照らすならば、大審問官御大を登場させなかったのは物足りない。ドストエフスキーの原作においては、大審問官はイヴァンの部分的分身であると思うが、映画ではそこまでは読み込めない。せっかくイエスを登場させているのだから、ぜひ実写で、大審問官VSイエスをすればよかったのだ。そうすれば、権力と信仰、彼岸の王国と此岸の王国という二極論的大問題もつけ加えることができただろう。まあ、ハイライトのわりにはちょっとこの場面はショボイんだよね。イヴァンはかっこいいけど、あのヒゲ面メガネのTVディレクターみたいなアリョーシャはないだろ〜。アリョーシャらしいところがほとんど表現されてなくて、個人的にはがっかり。
 あと精神病院の院長ね。これは近代科学の代表者でしょうか? もはや信仰もなく、最後は自殺して、宙ぶらりんに浮いているのが象徴的だ。まあ近代人なんて宙ぶらりんな存在なんだろうけど、院長を殺してしまうあたり、オリヴェイラ監督の信条があらわれてるのかな、と思ったりして。
(05.jan.2005)
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neu jahr 2005

 おとといの暖かい一日から一転して、きのうは朝から霙まじりの雨がふり、一日中寒い日となった。夕刻買い物をしに外へでたとき、底冷えがするほど空気が冷たかった。やっと冬の気配をおもいだした気がする。
 市場は、商品を叩き売ろうとするお店のひとたちの掛け声が響き渡り、お正月用のご馳走を買おうと客が大勢あつまっていて、いつも以上に賑わっていた。寒さで息が白くなるなか、かずのこや海老や刺身の盛り合わせや、正月用の野菜の残りが叩き売られている様子を冷かし半分でのぞいていた。季節の風物詩で、なかなか風情があって楽しい。
 今も風がずいぶん吹いていて、縁側の開き戸がガタガタいう。明日の朝も冷え込みそうだけど、こういう夜も悪くない。最近の自分の生活は、時間におわれた余裕のないものだった。仕方がないんだけど、ゆっくりものを考える時間がなかったなと反省している。ルーティーンがよくないことだとはいわないけど、思考停止になってしまう怖さがある。明日もおなじような日がつづくと、そういう前提のもとで日々をすごしているから、いろんなことをいいかげんにすましてしまうんだと思う。
 大概だれでもそういうものだろうけど、年末におこったインドネシアの津波災害のニュースをみて、自分が明日そういう事態にまきこまれない保証なんて何もないんだということを強く感じさせられた。神戸の震災のときは、人間のつくりだした都市が破綻したもので、人的な要素についても考えさせられるものだったけど、今回のは天変地異というのにふさわしく、なんというか、なすすべがない。こんなふうにあっけなく、何十万もの人間が一瞬で死んでしまうという事件は、共時的にははじめて体験した。いいようのない虚無感と脱力感にさらされている。
 ただ、たぶんこうした虚無感はすでに知っているもので、ふだんは見ないようにしているだけなのだ。だから、今回の事件はそういう感覚を裏書きされたかんじで、ああそういうものなんだ、そういうものだったんだと、ひどく腑に落ちた感覚も味わっている。
 虚無感というのは、一瞬ですべてを色褪せさせる破壊力をもつ。すべてはいつか失うものであり、すでに失ったものである。それ以上のものでもそれ以下のものでもない。同時にこの喪失感は、失うもの/失ったものすべてを色鮮やかにもする。それはほかならぬわたし自身にとっての記憶であり、幸福であり、あるいは不幸である。虚無に押しつぶされないためには、「かけがえのなさ」に対する感受性を研ぎ澄ませるしかないのかもしれない。他者に対しても、日々の生活に対しても、自分自身に対しても。
 ・・・とりとめのない文章だけど、よんでくださった皆さまに感謝をこめて。よい年でありますように。今年もどうぞよろしく。

忘年会、いやチーズかな

さきほど帰宅。今日は忘年会だった。イタリア料理で、一品一品がゆっくりくるので、早食いしなくてすんだ。ピザがおいしい。最近チーズにはまっていて、チーズであればなんでもいい。三種類のチーズのピザを頼んだ。でもゴルゴンゾーラがはいるとさすがに塩っからいね。普段はもっぱら、ローカロリーのカッテージチーズをパンにぬって食べている。
・・・なんか話が横道にそれちゃった。帰宅して、おふろに入って、やっと一息ついているんだけど、今からお仕事モードに切り替えねばなりませぬ。睡眠時間さいきん少ないなあ・・・。

雑記

本屋で中島敦の『李陵・山月記』とU・エーコの『前日島』を買う。読んでるヒマないんだけど、ぱらぱらとめくってみる。『前日島』、いきなり主人公が廃船にひそむネズミの恐怖におびえる記述にであって、なんとなくヘコむ。積読本の『マノン・レスコー』をぼちぼち読む。破滅型美女マノンをほとんど女神化して恋い慕うシュヴァリエがすごい。とにかくテンション高い。浮き沈みが激しすぎるジェットコースター型人生を送っている。全編祭りモード。いま彼は牢獄破りをしてます。マノエル・ド・オリヴィエラの『神曲』を観る。『神曲』といっても、ダンテは一切関係なし。一言で言うなら、コテコテの西洋精神史映画。まあ全体的におもしろかったんだけどさ、アリョーシャ・カラマーゾフの役をヒゲ面のTVディレクターみたいなオッサンがやってて、これには激しく違和感を覚える。ありえへん、て感じ。わたしが何をしているのかというと、、、よーするに逃避です。
とある女子大生の卒論のテーマ、同世代の女子からみた「いまどきの男子」。結果は「幼児的・無責任・バカ」、ついで、「無神経、うそつき、デリカシーがない、がさつ、見えっ張り、下心が見え見え、未熟、口が軽い」とつづく。すごい卒論だな・・・。

増加中

 街はクリスマス・イルミネーション、でも夜になっても息が白くならないくらい暖かい。気分がでないねーといいつつも、クリスマスもへったくれもない状況なので別にいいです、もう。
 気分的にどよーんとなっている理由のひとつは、この時期恒例の体重増加がとまらなくなってきたこと。毎年この時期にダイエットしなきゃーとかいってるわけですが、なんでこうなるんだろう? 冬にはいるころに人間は脂肪をためこむように初期設定されているだろうか。だとすると、むなしい・・・。本格的ダイエットに(まだ)はいりたくないので、小手先ダイエットでごまかしている(間食を控えるとかそーゆーの)。でも、こんなことを書きながら、購入したてのパンを明日の朝食べるのがすごい楽しみだったりするのだな。ちゃんと電子レンジに格納したしー。

またやられた・・・

 トホホな状況が続いていて、更新も滞りがち。年始年末はないものと思えという天の声がしております、、、。
 天井裏の住人が最近また復活しているらしい。季節外れながら購入したわらびもち粉を台所に置いていたら、いつのまにかヤツは目をつけたらしい。でもおいしくなかったのか、袋を食い破っただけで被害は甚大ではなく、わたしもぜんぜん気がつかなかった。ある日、「あ、こんなところにわらびもち粉がある・・・」と手にとった瞬間、白い粉が当たりに散乱。おろしたてのセーターの袖口も真っ白、床も真っ白。あとは涙ながらの掃除にあけくれる。
 以前高級パンが被害にあってから、買ってきたばかりのパンは電子レンジに格納することにしている。すごく気をつけていたのに、この前買ったベーグルを、同居人が夜中に電子レンジから出してそのままうっかり放置。朝、しっかり袋ごと食い破られていた・・・。三個買って二個やられた。せっかく隠してあるパンをなんで出しっぱなしにするわけ?オマエはネズミの手下か!?あまりにくやしかったので無傷の一個を勢いで食べた。これでわたしがペストにでもなれば、ベーグルを発明したユダヤ人を呪ってやる〜。
 逃避モードのさなか、「お菓子占い」なるものにゆきつく(なにやってんだか)。わたしはなぜだか「スナックさん」。お菓子的には一番無縁なんだけどな。「チョット油っぽく物事を言ってしま」ったり、「突然袋が破れ、感情が爆発してしまうこともあ」り、「プライドもカロリーもやや高め」らしい・・・カロリーが高めな性格ってどゆこと?

中島敦『南洋通信』

 中島敦『南洋通信』を読む。
 中島が1941年に南洋庁の官吏として赴任したパラオから、おもに妻にあてた手紙。ハイビスカスやバナナやパパイヤやレモンやジャスミンが実る自然、波もたたず真青に透き通った海に泳ぐ熱帯魚の姿、そして島民たちの素朴な生活といった、南洋の美しくも気だるい風景を写し取りながら、文面には強い望郷の念、残してきた妻と幼子への思い、本土での四季折々の生活に対する追憶、そして遠いところに来てしまったことへの後悔の念がにじみでている。
 戦前の日本政府がとった大東亜共栄圏という、今のわたしたちにとってはあまりになじみの薄くなってしまった政策がなお意味をもっていた時代に、中島が植民地の宗主国側の人間として南洋に赴いていたという事実に軽いショックを覚える。あらためてこうした書簡類を読むと、彼について抱いていたイメージの修正をうながされるようなかんじだ。日本政府の南洋政策の無意味さを指摘する箇所が散見できて、これはこれで非常に興味深く思った。
 もともと好きな作家だけど手紙を読んだのははじめてだ。おかしな話だけど、読んでいくうちに、まるで自分がその文章を書きつづっているような不思議な感覚になった。読んだことはない文章のはずなのに、すでに読んだことがあるような感覚。自分の感覚にひどく馴染む文体なのだろう。おこがましくはあるが、もし自分が彼の立場に置かれたとしたら、きっと同じようなことを感じ同じようなことを考えるのでないかと、そんな気がした。