カロリー計算

『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』と『17才のカルテ』を見る。せっかくの映画の日でも、みにいきたくなるような映画が何もきていない。まあもともと出不精だけど。
今気分的にダイエット・モード。グリコのカロリー計算の細かさはすごい。徹底したデータをはじき出してくれる。めまいを覚えつつもムキになって入力してしまう。でも活用しきれないな、きっと。多分ここで費やしている時間に、運動でもしたほうがいいんだろうなあ。

サクリファイス

Offret/ Sacrificatio
1986年、瑞典・米・仏
監督:アンドレイ・タルコフスキー
出演:エルランド・ヨセフソン
スーザン・フリートウッド
アラン・エドヴァル


 この映画は高度に宗教的なテーマを扱った作品であり、たとえば聖書がそうであるように、一義的な解釈は不可能であろう。今回見たのは二度目だが、わたしがもっと歳を重ねたときに見たら、また別の見方をするかもしれない。それゆえ、以下のコメントは私的な関心からのコメントにすぎない。(しかも精神的にトーンダウンしているときに見てしまったので、稚拙で煩瑣な文章である。読まれる方はご注意を。無責任ですいません。)
 簡単なあらすじ。大学教授をしているアレクサンドルの誕生日、彼を祝おうと友人たちが訪れる。だがその日、世界は核戦争を始めてしまった。愛する家族(とくに喉の手術をしたために口のきけない息子(「こども」と呼ばれる)を彼は大切にしている)と友人と大切な家の上空を通過する爆撃機の轟音が鳴り響くなか、彼は核という圧倒的な暴力に根ざした恐怖に捕われる。昼間、神を信じてはいないと郵便配達夫のオットーに語ったアレクサンドルは、その夜、「この動物的な恐怖から救ってください、もし救ってくれたらわたしの愛するものをすべて捧げます」と神に祈る。そのあとオットーが彼のもとにきて、「たった一つ方法があります」と、魔女マリアの元にいくことを勧める。アレクサンドルはマリアの元に行き、涙を流し嗚咽しながら彼女の慰撫を受ける。彼が目覚めた後、世界はまるで何事もなかったかのように平穏なままだった。アレクサンドルはあの原初的恐怖から解放されたことを知る。そして彼は神との約束を実行し、大切な家に火をつけ、彼自身とその愛するものを犠牲として捧げるのである――。
 この映画をみると、人間には二つの側面があるということが分かる。ひとつは、人間とは驚異的な科学的知力を発展させながら、戦争という有史以来絶えることのない行動パターンをくりかえす生物であるということ。アレクサンドルは、人間の知力の発達に倫理的能力が追いつかない事態にいらだっていた。そのうえ核戦争が勃発すると、彼は「動物的な恐怖」にとらわれてしまう。人間の原初的恐怖は圧倒的な暴力にねざしている。科学的知力と原初的恐怖、人間はこの落差に引き裂かれた存在である。
 一方で人間はこのような在り方の愚劣さを認識できるし、動物的恐怖に満ち満ちた世界から脱したいという欲求を生み出していく存在でもある。とくに絶対的存在としての神を内在化した者は、その絶対性を基準に現世を見るだろうから、この世の愚劣さはいっそう耐え難いものとなるだろう。
 前者は集団レベルにおける人間の本質であり、後者は個人レベルにおける人間の本質といえる。個人レベルの人間のほうが倫理的・道徳的に優れている、とはいえるだろう。あるべき絶対的なユートピアや神の王国を想像し、そのために生命を捧げる人びとも、歴史上には点在する。アレクサンドルもまた、そうした優れて倫理的宗教的精神をもった人びとの系列に連なる人物かもしれない。アレクサンドルのとった行動は、いわば、古くからある政治と宗教倫理の緊張関係に向き合い、彼なりの解答を示したものだといえる。
 こうした宗教的信仰は魂の救済に関わる。アレクサンドルはすべてを捧げていながら何も失っていない。けれども、彼の犠牲によって世界が救済されたとはいえない。核戦争は起こらなかったかもしれないが、集団レベルの人間の倫理的劣位性と暴力に根ざした原初的恐怖が消失した世界になったわけではないからだ。サクリファイスとは個人の魂に対する呼びかけである――かつてイエスやフランチェスコや仏陀がそうであったように。だがそれはあくまで個人の内面における話であって、核の恐怖、政治の生み出す幾多の苦しみを解決するという問題は、これはまた別の次元の話である。
 戦争という行為は、徹頭徹尾、政治の世界の問題である。いかに愚劣であろうと、集団レベルでの人間は個人レベルにおけるような善良さを発揮できない。そうした本性的な限界を持つ以上、どれほど崇高な犠牲がなされようと、個人の魂と同じように世界を救済することは不可能である。結局、政治領域にあらわれる暴力を幾分でも抑制するのは、政治の場における人間の実践的知力の問題となるだろう。だがこれは同時に最初から挫折をはらんでいる。この挫折に耐え得る力を、いったい人間はどこから得るのだろう。
 アレクサンドルがとったような犠牲的行動は、先ほども述べたように、個人の魂の救済に関わる話であって、世界の救済にまで拡張することはできない――少なくともわたしはできない。ただそれでも、人間には何らかの希望が必要である。政治の愚劣さを克服していこうとするための力は、そうした希望からしか生まれないだろう。この映画にそれがあるとしたら、「こども」の存在かもしれない。
 アレクサンドルは冒頭、「こども」に、枯れ木に水を遣りつづけるという一人の修道士の地道な行為によって、ある朝枯れ木が花を咲かせたという奇跡の物語を語り聞かせていた。そして映画の最後に、父を失った「こども」はその行為を実行するであろうことが伝えられる。「こども」は未来の人類の象徴である。人類は将来にわたり倫理性への欲求を失うことはないのだと、「こども」に「希望」が託される。
 こうした倫理的ヴィジョンが集団的レベルの人間の織りなす政治の暴力性を覆い尽くすことは、残念ながらありえないだろう。だがこうしたヴィジョンは、政治の愚劣さを幾分なりともコントロールしていくための力には、なるのかもしれない。
(September 11, 2003)

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サイード

 今朝は北海道地震のニュースから始まったが、エドワード・サイードが死去したことも知った。[via:CNN]
 白血病だったというから死を覚悟してはいたのだろうけれど、パレスチナ問題が泥沼化して改善の兆しも見えず、イラクがアナーキーな状況に堕してしまった状況では、死に切れない思いはあったのではないか。彼の死がもつ意味は重い。

映画

 曽利文彦の「ピンポン」を見た、といっても、途中から。残念。一度ヘコんだお調子モンが再びヒーローになるまでって、まるで今年のタイガース。映像おもしろいし、テクノのリズムもかっこいいし、あー、ちゃんと見れたらよかったのに。テレビでやる映画は時間を決めてくるからキライだ。 そういやこの前「キス・オブ・ザ・ドラゴン」もテレビで見た、といってもこれも途中から。なんじゃこりゃ?? 「シェーン、カムバーク!」と『北斗の拳』が頭の中で点滅したぞ。まあ途中からなんで批評はパス。

reflection

 pallalinkのpalla氏の作品が天王寺Mioの写真奨励賞なるものに入選したので、見に行った。カタログのなかで評者に「これは写真じゃない」とコメントされてて思わず爆笑。よく入選したなー。写真というのはもう少し分かりやすくないとウケないんでしょうかね?(ホメてますっ) ともあれ、palla氏の作品はやたらデカくて一番目立ってたので(しかも立体)、いいんじゃなゃいの?(本人は自サイトで紹介する気もないようですが。) 

寒い

 すごく肌寒い一日だった。寒くて目覚めて、夜中に布団をもう一枚だして寝直した。自転車にのって図書館にいったけど、顔にあたる風が冷たかった。夏用のカーディガンでは足りないくらい。今日を境に秋に変わっていくんだろうか。温かい食べ物やお茶やお風呂がやっと体になじみそう。

クリムト展

 クリムト展を見に兵庫県立美術館に行った。梅田を通って阪神電車に乗っていく。さすがに時期的に場所的にタイガースだらけ。阪神デパートはほとんどの入り口を閉鎖しているため、地下はさほどの人ゴミではなかった(中はすごかった)。美術館は平日なのに来館者がかなり多くて驚いた。それでもまだすし詰めではなかったので、土日に来なかったのは正解だと思う。
 肝心のクリムトだが、有名な作品もかなり来ていて見ごたえがあった。というか、今回はじめてクリムトの作品をまとめて見たんだけど、自分の抱いていたイメージと実物がずいぶんちがって、見に来た甲斐があった。
 画集やポスターで見ていた分には、世紀末的な雰囲気を纏った豪奢で耽美的で美しい女性像を描いた作家、という印象だったのだけど、生の絵画はもっと倒錯していた。
 「フリッツァ・リートラーの肖像」「エミーリエ・フレーゲの肖像」では、女性たちはたしかに美しいけれど、その顔は、衣服やソファや壁の装飾が前面に押し出されることによって、背後に暗く重く沈みこんでいる。「エミーリエ・フレーゲ」などは、衣服の文様をそのままベタンと貼り付けたようなかんじで、コラージュを思い起こさせる。コラージュの手法が生き生きとした動きや表情を無機質なものに変えてしまうように、クリムトのこれらの絵画も、生身のもつ生命感を殺ぐような効果を発している。作家のこうした視線はどこか倒錯的で、サディズムに近いフェティシズムを感じさせた。
 きわめつけは「ユーディット?」だろうか。これは、女のエロティックな表情に視線が向う作品だとばかり思っていた。けれども実物をみると、とくに首に枷のように巻かれた金箔の装飾が異様なまでに存在感を発している。女の表情はたしかに恍惚としているのだけれど、全体でみると、まるで首と胴体が切り離されているようだった。
 クリムトの作品をみていて、この感覚は何かに似ているなあと思っていたのだが、そう、アラーキーの作品をみているときの感じに似ているのだ。両者には同質のものがあると思うけど、どうだろう。
 クリムト以外にもいくつか作品が来ていて、エゴン・シーレの作品もあった。一見グロテスクに見えていた彼の作風は、実はすごく素直でまっすぐだった。ショップで画集をぱらぱらと見ていたが、シーレの絵って今風。ポップ・カルチャー的というか、普通にマンガでもよく見るようなラインだったりする。今度はシーレ展見に行きたいなあ。どっかやってくれないかな。

阪神V

つーか、阪神マジ優勝。しかも甲子園で逆転勝利って、デキすぎのシナリオ。ロードにでると全然だめで(まさか甲子園まで引きずるとは思わんかった)、甲子園に戻ったとたんのあの試合。なんでこーも調子いいのか。そのお調子モンぶりは、やっぱり愛すべき特徴なのだわ。

ビール

 昼間の暑さに体がついていかなくて、ほとんど仮眠しながらやり過ごしている。でも夜はずいぶん涼しくなったので、夜から活動。
 今日はイケてない阪神のニュースをみながら、キリンの「まろやか酵母」を飲む。おいしかった。どうもわたしは麦芽100パーセントのビールが好きみたいだ。日本のビールってエビス以外、正直美味しいと思ったことなかったのだが、選ぶ基準がはっきりした。なんとなく自分が分かったような気になって、一人で納得する夜だった。
 推理小説がらみでホームズの『最後の挨拶』とネロ・ウルフの『料理長が多すぎる』を読む。単に家に転がっていた推理小説というだけなのだが。ホームズはまあ短編だし、やっぱりおもしろい。ネロ・ウルフは初めて読む。ウルフの旦那の愛すべきキャラクターは非常に味わい深かったし、料理に対する好事家の愛着もおもしろいし、1930年代のアメリカという舞台背景も興味深かったが、なんせ登場人物が多すぎて頭のなかがワケわからん状態になってしまった。推理小説を読みなれてないせいか?