知り合いの住む松山に行ってきた。彼女は海のみえる家で猫と暮らしている。大阪の喧噪のなかに住むわたしとちがって、ずいぶん静かな生活をおくっているようだった。猫がいるからさみしくないのよ、という。実際、わたしたちが話をしていても、ひっきりなしに猫に声をかけている。話は途切れて、その都度猫に話題が移っては、また別の話題に話がうつっていった。
JRの駅まで送ってもらい、別れを告げ、それから列車を待つ間におみやげを物色した。
松山なので、一六タルトとぼっちゃんせんべいを買う。それから四万十のりを選ぶ。母へのみやげものを選ぶのはいつも気をつかうのだが、甘いものを買っていっては、糖尿病にかかっていることを知っているくせにと怒るので、うどんにしようと思った。でも手にとったうどんには「讃岐うどん」と書いてある。気になったので店の売り子さんに聞いてみた。
「讃岐うどんって、愛媛のおみやげにならないですよね?」
「え、そうなんですけど、まあ広く「四国」ってことで・・・。あ、でも、こちらの四万十のりは愛媛のおみやげですよ」
「坂本竜馬の似顔絵書いてますけど?」
「製造元は愛媛なんですよ。」
四国ってことでってか? なんかアバウトだなー。まあ大阪のキオスクにも八つ橋とか置いてるし、迷ってる時間もないので、それをまとめて買っていった。
岡山で新幹線に乗り換えたのだが、待ち時間のあいだに美味しそうだったので、吉備団子と桃福というおもちに桃餡をかけたものを買った。
帰宅してから、お茶をいれて桃福を食べたが、ピンク色の赤福だった。すごいパクリ商品。ヴィジュアル的にはピンク色でかわいいけど、味は赤福のほうがおいしいかなあ。あらためて買ってきたみやげものをながめると、どこに行ってきたのかよく分からん結果になっていた。
金木犀
昼間は少し暑くて汗ばむので、いまだに夏物の服を着てしまう。カーディガンをもってはいくけど、昼間は羽織る必要がないくらい。でも窓をあけていると、金木犀の香りが部屋のなかに入ってくる。
小さいころ住んでいた家は、郊外の住宅地で、判で押したような建売住宅が立ち並んでいた。どこの家も同じ形で、同じような大きさの庭がついていて、どこの庭にも金木犀が植えられていた。だからこの季節になると、辺りはむせかえるほど、あの独特の匂いに包まれていた。オレンジ色の小さな花は、手で落とせばいくらでも落ちてくるし、すぐに地面の上に降り積もるから、かき集めてはままごと用に使っていた。
今住んでいるところには旧い町中なので、どこの家にでも金木犀があるわけでもなく、何軒かの家にあるばかり。それでも、庭木の前を通り過ぎたあとも、後ろ髪や背中で香りをかぎとっているような気がする。香りが途絶えてしまったあとでも、あのツンとする香りの気配が残っているような気がする。
そぞろ歩き
出先のついでに、先日の眼科に保険証をもっていってキャッシュバックしてもらう。ついでにめがね屋さんに寄ってフレームをもう少しきつめにしてもらう。
夕方6時ごろに街をそぞろ歩き。この時間帯って、会社や学校帰りの人たちで、そこそこ街は賑わっている。雨あがりで、みんな傘をもって歩いていた。夏ならば、蒸し暑くてやってられないだろうけれど、気温がぐっと下がったせいか、帰宅ラッシュでもさほどうんざりすることはなかった。
ジャケットが欲しいなあと思って、お店で服を物色する。めがねを新調したばかりで、これ以上散財するのもちょっと厳しいなあ、でも秋の服がほしいなあ、と理性と欲望のあいだで揺れつつ、もう少し考えようと結論づけた。
久しぶりにスタバでコーヒーでも、と思ったけど、やっぱり席が全部埋まっている。まあいいけどね。神戸屋キッチンでコーヒーを飲む。店内は明るいし、他の人と適度な距離をおいて座れるし、こっちのほうがいいや。かばんのなかに放り込んであった本をパラパラ読んで、休憩おわり。
帰りにデパ地下によって、久しぶりにアンリ・シャルパンティエのケーキを買う。お値段のかわいいプディング・シューとフラン・パリジャンというケーキ。フラン・パリジャンは、かっちりしっとりしたパイ生地に、牛乳と卵をもったり混ぜ合わせたようなクリームが入っている。とてもシンプルなケーキで、気に入りました。月並みだけど、おいしいケーキを食べている時間はシアワセ。
少女マンガ
新しいめがねがまだ顔になじんでいない。鏡を見るたびに違和感を覚える。眼球にもまだなじんでいない。今日本屋さんで並んでいる本の背表紙を見ていたら、めまいがした。なんか見えすぎてヘンなかんじ。コンタクトレンズだとこんなめまいは感じないんだが・・・。まったく、ファッションでめがねを選べるくらいに視力がよくなりたいよ。レンズが高くつきすぎて、とてもじゃないが5000円とかでは作れません。
先日近所の古本屋さんで、なつかしの少女マンガを買う。なつかしの、といってもいまなお連載中の『papa told me』だけど、最初の頃の巻なので、「なつかしの」でもいいでしょう。
主人公の的場知世サンは、今じゃスーパー小学生、他の登場人物もレベルアップしてカッコよくなりすぎ。登場人物がいつまでも同じ年齢で長期連載化してしまった作品の運命(?)にさらされている。最初の頃は、父子家庭など、模範から「逸脱」した人々に対する世間の偏見を、小学生の目からさらっと描いていて、いいかんじだったんだけどなあ。ビミョーにメルヘンなあたりが、わたしの趣味ではありませんが。
ところで、わたしの場合、古本屋さんでついつい探してしまうのは、近藤ようこさんの作品だ。そんなにがんばってないけど、実はコレクター。もうかなり集めたせいか、最近はぜんぜんヒットしないのでカナシイ。中世日本を題材にしたあたりの作品が好きです。
めがねの新調
コンタクトとめがねを併用しているのだが、最近目の疲れがひどく、視力が落ちたせいと思い、めがねを買い替えることにした。
午前中にめがねをあつらえて、午後から別の用事をいれていたのだけれど、めがね屋さんに目の疲れや頭痛について話すと眼科検診しろという。予定より大幅に時間をくって、一日つぶすことになってしまった。店のすぐとなりが眼科で、保険証ももってないのだけれど、こういう客は多いのか、一時金預かりで眼科検診してくれるという。そこはファッションビルに入っている眼科なんだけど、すごく丁寧に検診をしてくれて、こっちのいうこともよく聞いてくれて、普通の病院とずいぶんちがう。サービス精神が旺盛というか、先生もぜんぜんエラそうじゃなくていいかんじだった。 結果的には、めがねが古くなったから目の疲れがひどいのではなく、パソコンの前に長時間座ることからくる慢性的な目の疲労だという。めがねを変えても根本的な解決にはならないといわれた。
目が疲れるから、コンタクトもめがねもせずに日常生活を送ったりしてたんだけど、そういうことはしないほうがいいといわれた。見え方に落差があると、余計に目に負担になるらしい。我流でいろいろやっていたけど、やめてくれといわれたのがいっぱいあった。知らず知らずのうちに、目の負担を倍増させていたんだろうか。なんかショック。
ともあれ、めがねを買い替えました。今までフレームなしのやつを使っていたんだけど、すぐに歪むのでイヤになっていたから、今度は頑丈なやつにした。下半分がプラスチックのフレームで、全面フレームよりは頑丈じゃないけど、気に入ったのでこれにした。なれるまでちょっと見えすぎ状態なので、今は目がぐらぐらしている。
博士の異常な愛情
博士の異常な愛情または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか
Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb
1964年 米英
監督:スタンリー・キューブリック
出演:ピーター・セラーズ
ジョージ・C・スコット
スターリング・ヘイドン
この映画、昔後半だけテレビで見たことあるけど、最初からあらためて見てみた。やっぱりすごかった。最近はもうキューブリック強化月間です。でも「シャイニング」とかは絶対みないと思う…。
とりあえず、戦闘機の設備がものすごーくアナログだったのでびっくりした。指令の暗号が届いたら、暗号マニュアルのノートをだしてきてパラパラ調べているし、燃料の残りから飛行時間を紙と鉛筆で計算しているし。ソ連に水爆を落とすという重大な任務と戦闘機のアナログ度にギャップを感じてしまった。米ソ対立の時代って設備的にはこういうものだったのかなあ? アナログ・マニアにはウケるかもしれない…。
登場人物の狂いっぷりはすごいです。ピーター・セラーズの三役は文句なしにすごいけど、どれも役者冥利に尽きるような役柄ばかり。でもこういうヤツら、ちょっとデフォルメされているけど、実際いるよなと思わせる点で、理解できる範囲内での不条理さかも。俗物大図鑑てかんじ? しかし極めつけ、博士の「総統、わたしは歩けます!」には笑った。ウハウハ地下帝国に入るためにオッサンも必死。どうせなら博士は最後はドイツ語で喋くりたおしてほしかったな。
困ったおみやげ
おすそわけということで、知り合いがその人の知り合いの方の中国旅行みやげをもってきた。一人じゃ食べきれないという。見ると、これがなんだかすごい代物。包み紙がすでに油でギトギトになっている。揚げまんじゅうみたいだけど、なかなか食べるのに勇気がいる。しかも中のあんこはメロンときた。メロンまんじゅう・・・もう二度と食べたくない味だった。でも目の前にはまだ大量にあまっているのよ。
こういうみやげ物って、困るよなあ。ご本人はギャグで買ってきたわけでもないし。ずっしりと重いまんじゅうなので、もって帰ってくるのも大変だったろうし。「気が付いたら賞味期限切れてたの、ゴメ〜ン」で処分するしかなかろうて。
朝晩の寒暖の差が激しい。夕方とか寒いくらいだった。あっというまに喉をやられてしまい、調子が悪くなった。よく考えればいつものパターン。暑いさなかには、このデメリットを忘れてしまっている。そんなわけで、最近調子悪い。
爪の手入れ
夏のあいだマニュキュアをぬっていた足の爪は、なんだかボロボロ。キーボードを打つせいか、手の親指の爪の形が歪んできているような気がする。特定の爪だけ欠けたり割れたりすることも多くなり、ちょっとは爪の手入れをすることにした。
弱い爪は、ほんとはベースコートだけでもぬっておくほうがいいらしいけれど、マニュキュアぬったままお米を洗ったりするのは気持ちが悪い。かといって除光液の使いすぎはよくないので、手の爪は普段からほとんど何にもぬらない。
そんな自分に合わせて、磨くだけのアイテムと栄養クリームを買ってきた。磨きだすとおもしろいように爪が光だすので、やめられないトマラナイ状態。電車にのったときにちょっと気をつけて周りの女の子の爪を見てみると、マニュキュアなしで爪を光らせている子も何人かいた。みんなきちんとしているなあ。
恒常的に手入れをするのは大変だろうけど、けっこうかんたんにきれいになるし、ちっちゃな達成感は得られてしまうのであった。
買い物の失敗
朝晩涼しくってシアワセ。クーラーもつけなくていいし、空気は乾いているし、やっと人心地がつくなあ。昼間はまだ陽射しがきついから、日傘が手放せない。今年は2本も日傘を買った。一本目の折りたたみはワンシーズンも使わないうちに折れてしまい、しょうがなく、別のを買ったのだ。今日友人にそのことを話したら、デパートに苦情をいいにいけという。でも2ヶ月くらいは使ったので、まっさらというわけではない。
「そんなん文句ガツンというたら代えてくれんで。デパートとかは信用が大事やからいけるって!」
その「ガツンという」のができない性格なんだけどなー・・・。
今年は失敗した買い物が多い。このまえも、ぜんぜん大きさのちがうクッションとクッションカバーを買ってしまい、帰宅してから涙した。低抵抗クッションていうのかな、あのなかなか沈まないやつ。お店でみつけて気に入って、速攻に買ってしまったから失敗したんだと思う。あと、安すぎる化粧品とか、使うと皮膚が赤くなったのでコワクなって捨てた。これは安物買いの銭失いですね。
セプテンバー11
September 11
2002年 仏
監督:S・マフマルバフ、C・ルルーシュ、Y・シャヒーン、D・タノヴィッチ、I・ウェドラオゴ、K・ローチ、A・G・イニャリトウ、A・ギタイ、M・ナイール、S・ペン、今村昌平
イラン、フランス、エジプト、ボスニア=ヘルツェゴビナ、ブルキナファソ、イギリス、メキシコ、イスラエル、インド、アメリカ、日本――各国の映画監督が「9・11」について撮った短編オムニバス。
各国の文化的背景を背負った監督たちにあの事件をモチーフに映画を撮らせて、パッチワークのような作品にするという試みは興味深い。けれども、あの事件の衝撃度を考えると、たった1年やそこらで、あれが何だったのかを理解し説明できる者などいないだろう。だから、この映画が何らかの完成した図柄を示しているとはとてもいえない。現実の世界が劇的に変貌しつつある中での思考の軌跡、あるいは思考のドキュメンタリーと考えたほうがいい。今は、こういう形でしか表現できないのだと思う。
あの事件に喰われていない作品などない、という前提にたてば、それぞれの映画は十分見ごたえがあった。
ある映画監督が頭のなかに自爆テロの若者とそのテロによって死んだ若い米兵を登場させて、彼らと対話する作品(シャヒーン)、あの日NYの消防士として働いて犠牲になったにもかかわらず、イスラム教徒ということでテロリストの疑惑をかけられた息子を想う母を描いた作品(ナイール)は、事件以後、多くの人が考えたであろう事柄を比較的ストレートに扱っている。
それから、9・11の意味など考える余裕もなく生きるのに精一杯の「弱者」が、この世界の大多数を占めているということ――あの事件はそのことをわたしたちに知らしめた。日干し煉瓦を作る難民のこどもたち(マフマルバフ)、病気の母の薬代のために学校を休んで働く少年(ウェドラオゴ)、たとえ先進国に住んでいるとはいえ、妻を亡くし孤独のなかに生きる老人(ペン)は、このテーマに関わる存在ではなかったか。
民族浄化の悪夢の記憶をもつボスニア=ヘルツェゴビナ、自爆テロが続く泥沼のイスラエルとパレスチナ、この地域からの作品(タノヴィッチ、ギタイ)は、まるで対のようだと思った。誰もいない広場で静かにデモをする女たちの列と、自爆テロの現場でのグロテスクなスラップスティック的混乱状態。これらの地域に起こっていることが、9・11よりましだと誰がいえるのか。傷跡の深さに、言葉を失う。
おそらく、物語はもっとたくさんあるはずで、この映画で扱えたものはほんの一部でしかない。起こった出来事のイメージだけは鮮烈だが、その背景にある謎はあまりにも複雑すぎて全貌が見渡せない。あれは何だったのかという問いに、21世紀を通して、わたしたちはずっと苛まれていくのだろう。
(Sep.18.2002)