焼酎のお店

 例の黒のスケルトン・マウス、結局、解体して裏から黒マジックで塗りつぶした。塗りつぶせない部分がどうしても残ってしまったけれど、だいぶんマシになった。今は光センサーがかすかに赤く点滅していて、まるで「2001年」のHALみたい。勝手に暴走しないでね。
 昨日、近所にある炭火焼きのお店に行ってみた。小さなお店で入りにくいといえば入りにくいが、小奇麗な店構えだから、入れないこともない。
 ごはんを食べたあとだったので、そんなにおなかはすいていない。メニューを見ていると、お酒がほとんど焼酎だった。焼酎をのませるお店だったのかとはじめて知った。「中々」というのを飲んだ。飲みやすかった。ゴーヤの天ぷらと豚トロを注文。ゴーヤの天ぷら、めちゃウマイ! 自分でも作れそう。入りやすい一杯飲み屋さんというかんじだった。

散髪

 朝から美容院にいってカットとカラーリングをする。カラーしたのは久しぶり。
 うちの近所は美容院の密集地だから、あちこち試し切りにいくのだが、今回は久しぶりに昔ずっと行ってたお店に行った。前の担当者はすでに店を移っていて、新しい人に切ってもらった。このお店では3人目の担当者だ。ボブ・ショートにするような話だと思ってたんだけど、終わってみればなんかふつうのショートだった。髪の色がかなり明るくなったので、印象はずいぶん変わった。こんどのスタイリストさんは、けっこう気に入ったかも。
 帰りにアイブロウを髪の色に合わせて買って帰る。4時間くらい時間がかかってしまった。すごくおなかがすいた。

G.I.ジェーン

G.I.Jane
1997年 米
監督:リドリー・スコット
出演:デミ・ムーア
ヴィゴ・モーテンセン
アン・バンクロフト


 デミ・ムーアのスキンヘッドや筋骨隆々ボディやsuck my dick!ばかりが有名な映画だったけど、実際に見て、ま、そういわれても仕方ないわなと思った。
 何に話の焦点をあてたいのかさっぱり分からない。女が特殊部隊に参加して、という一点がこの映画のオリジナリティに尽きるし、湾岸戦争以降、現実に女性兵士問題は非常に大きな問題になっていったわけだから、この映画のテーマそのものは非常にユニークなものでありえたはず。リドリー・スコットもそのあたりの社会性は十分認識した上で、この映画を撮ったわけでしょ?
 会社とか大学とか議会といった社会組織においても、男性中心に組み立てられてきた秩序や組織や連帯のなかに女性が入り込んでいくのは、女性にとっても男性にとっても心理的負荷を伴うものだと思う。まして、軍隊という集団はきわめて男性中心社会であるわけだから、そこに女性が同じ仲間として入り込んでいくのは、他の社会集団の事例以上に難しいものがあるだろう。
 映画がどうも物足らないのは、オニール大尉(デミ・ムーア)の鍛え上げられていくボディ面や彼女が男性兵士に受け入れられていく様子など、客観的な側面は描かれているのだけれど、彼女の内面がほとんど描かれていないところにある。とにかく強靭な精神力をもち、男性兵士と同等に扱えと要求し、しかも彼らに引けをとらずに訓練についていくスーパーガールを目にするだけ。ただのエンターテイメントだったらこれでいいけど、ちょっとは社会性を意識している映画だとしたら、これはないんじゃない? 「テルマ&ルイーズ」では、精神的にどんどん成長してカッコよくなっていく人物を描いた監督だけに、かなり外したなあって思ってしまう。
 おまけに後半の「実戦」からはサイアクの展開。アメリカの都合で勝手にリビアに侵入して、ベドウィンに見つかったからといってリビア人を殺しまくって、挙句の果てに、作戦成功だか訓練終了だか何かで、オニール大尉たちみんながメダルをもらって終わるって、もう「ハァ?」てかんじ。疲れました。

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スケルトン

 ティム・バートンの「スリーピー・ホロウ」を見ていた。バートンの映画って相変わらず凝ってるというかオタッキーというか、とりあえず見させるなあ。「エド・ウッド」を見たとき、この監督ってホントB級オタクではないかと思ったけど、あんまり印象変わらない。でも「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」は、途中で見るのを断念してしまったなあ。
 elecomの光センサーのマウスを買った。黒のスキンで渋いヤツと思って買ったら、ただのスケルトンだった。光センサーの赤い点滅が異様にウザイ。スムーズにカーソルが動くのはいいけど、点滅にめちゃくちゃイライラする。もう大失敗だ。なんでスケルトンなんか作るんだよ。どこにニーズがあるっていうのよ。macのせいか? 

秋の気配

 夜が涼しい。朝も涼しい。昼間は暑くとも空気が乾いている。やっと暑い夏から解放されるのかと思うとうれしい。気がつくと、日が暮れるのが早くなっている。夜が早く訪れるのも、今はとても新鮮。
 和菓子も、夏の間は、羊羹、葛まんじゅう、わらびもち、葛きり等々を食べつづけ、しまいには飽きがきて見たくもなくなっていた。でも、餅系の和菓子を夏に食べたいわけがなく、すっかり和菓子から遠ざかっていた。でも気温が下がってくると俄然和菓子が食べたくなってきますね。お茶も麦茶や番茶を冷たくしたものばっかり飲んでいたけれど、こうなってくると、熱いお茶の楽しみも復活の気配。プーアール茶と中国緑茶を買ってあったので、そろそろ登場させたし。

手作りのヨーグルト

 先日知り合いの方のところでヨーグルト菌をいただき、それを使ってヨーグルトを作ってみた。
 もともとヨーグルトは大好きだし、市販のプレーン・ヨーグルトにドライフルーツやはちみつを入れたものは、毎朝食べている。自宅でヨーグルトを作ることに興味はもっていたけれど、なぜかきっかけがなく、市販のものを買いつづけてきた。
 今回がはじめてのチャレンジだけど、説明書を読んで、自分がかなり思い違いをしていたことに気付く。てっきり、この「粉」を牛乳に振り入れたらいいのかと思っていたのだけど、まず
1.牛乳を沸騰させ
2.45度くらいまでにさまし
3.それに菌をまぜあわせ
4.45度を保ちつつ5時間ほど発酵
5.もちろん器具・道具はすべて煮沸消毒
とまあ、いろいろ手続きがあって、かなり面倒。
 しかし朝になって出来上がったヨーグルトを食べてみると、市販のものより円やかで美味い! すっかり味をしめて、今日も二回目のヨーグルト作りに励んだ。 
 知り合いの方は、雑菌がはいると怖いから毎回新しく作り直していると仰ったのだけど、それじゃあ市販のものを買ったほうが楽だし安い。雑菌に気をつけながら、植え継ぎに挑戦するつもり。さあどんどん作るぞ〜。

オール・アバウト・マイ・マザー

All About My Mother
1999年 スペイン
監督:ペドロ・アルモドバル
出演:セシリア・ロス
マリサ・パレデス
ペネロペ・クルス
 主要な登場人物たちは一人を除いて、ほぼ全員「乳房」をもつ人間!? 性別を超えてシスターフッドな映画です。精神的にマッチョな人間だとこの世界には入り込めないかも。
 
 マヌエラ(セシリア・ロス)は息子エステパンと暮らすシングル・マザー。エステパンは物書きになるのが夢で、母について書こうと考えている。母について書くために、エステパンは母の夫であり自分の父である人についても知りたいと強く願っている。エステパンは、17歳の誕生日プレゼントに父について語るよう、母から約束をとりつける。ところが、エステパンはマヌエラの目の前で交通事故で他界する。
 エステパンは父を知らずに死んだ。そして父もエステパンを知らない。彼女はかつての夫を探しだし、エステパンという息子がいたのだと伝えようと、バルセロナへ向かう。果たされることのない息子との約束を果たすために、マヌエラは一度は抹消した自分の過去に向き合おうとする――。
 アルモドバルという監督は、色彩や映像のセンスは抜群だけど、所々都合よく話を展開するきらいがあると思う。あのーここ絵の具がはみ出てません?といいたくなるようなところはあるんだけど、まあその辺を差し置いても、バルセロナでのマヌエラの描き方はなかなかうまいと思う。全身シリコンだらけのアグラード、妊娠した尼僧のロサ、レズビアンの大女優ウマと脇を固めて、彼女たちとの関係がテンポよく、しかも深みをもって描かれていく。
 最愛の息子を失った傷心のマヌエラだが、持ち前の強さから、ロサやウマやアグラードたちを慰め、あるいは叱咤し、彼女たちにとって無くてはならない大切な存在になっていく。マヌエラも自分の悲しみに浸るよりは、彼女たちを支え励ます役割に徹している。
 そしてかつての夫との再会。それは、息子が生まれてから死ぬまでの時間だけでなく、バルセロナで体験したさまざまなことも含めた上での再会となっている。この夫の登場のさせ方や描き方は、ある意味非常にアルモドバル的なんだろう。十分にこの人物を描ききったとは思わないけれど、スポットライトをマヌエラに当てていることは分かるから、あまり多くは要求すべきではないかもしれない。
 この映画を見ていると、人と人との関係が、たとえば「死」という残酷な形で断ち切られたとしても、いつしか、新しい関係性の網目がつくられていくのだと希望を与えてくれる。最初は誰もその存在を知らない、知っていても他人でしかなかったエステパンも、マヌエラが生きていくことで、いつしか誰もが彼の存在を知り、彼と心の絆をもつようになる。ロサは生まれてくる子に「エステパン」という名前をつけ、ウマは彼の写真を楽屋に飾っている。そのことがまた、マヌエラの心の傷を徐々に癒していくだろうことは想像に難くない。
 こう書くとなんだかしんみりした話みたいだけど、「うんうん、それからどーなるの!?」といいたくなるようなテンポのよさとハデな展開に、ラテンな国の監督にしんみりさを求めるのがムリというものですね。

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秋の靴

 5ヶ月前の春巻きを販売していたというマダム・リーのその後を見たくて、難波高島屋のデパ地下に野次馬しに行った・・・というのはウソで、ほんとは靴を買いに行きました。(ちなみにマダム・リーは店舗が空っぽになって、エライさんぽい社員が立っていた。説明要員? ここの中華カステラとか好きだったのになぁ。)
 さすがに9月に入ると夏物バーゲンもほとんどなく、秋物が幅をきかせている。安い夏物を物色するより、秋物の新作を履き散らかす方が断然楽しい。サンダルを買っとこうとか思ってきたのだけれど、9月になる前に来るべきだった。
 店頭で目に付くのは、先の尖った繊細な造りのミュールが多い。これカワイイなあと思うのもたくさんあるのだけれど、こういった靴に合う服をもっていない! ほとんど毎日ジーンズだし。それにたいてい家にいるか、外にでるときは車もなく自転車ももってないのでひたすら歩いている。だから、ああいう繊細な靴はわたしの生活スタイルに合わないのよ。ほとんど纏足だよね、あれって。
 いろいろ迷って買ったのは、つま先が比較的丸みをおびた黒のミッシェル・クランの靴。チビなのでほんとは踵の高い靴が欲しいのだけれど、足の負担を考えてローファーにした。丸みがあってもボテッとしたかんじではないので、かっちりカワイイ靴というところでしょうか。
 今日は雨で履くのを見合わせたので、明日は晴れますように。楽しみ!

環境問題

 ヨハネスブルクでの環境サミット関連のニュースが連日伝えられている。希望をもてるようなニュースは残念ながら、ない。環境問題、富と貧困の圧倒的な格差はますます広がっていると伝えられた。その原因の根幹に、グローバリゼーションのとどまるところを知らない展開があるのは、誰の目にもあきらかだ。
 多国籍企業を中心とするグローバリゼーションの動きをとめて、今すぐ全世界が強制的にでも低成長になれば、もしかしたら環境問題は改善の方向に向かうのかもしれない。でもおそらくそんなことは不可能だ。企業は利潤をあげようと死に物狂いだし、資本主義経済の論理からはなれるのは即、企業生命の死を意味するだろう。
 先進国に住む人間の多くも、コマーシャルやトレンドに購買欲を刺戟されながら、さまざまな商品を消費する。それこそ、アフリカのコーヒー農家が、多国籍企業に生活を維持できなくなるほどコーヒーを買い叩かれていくのに反比例して、先進国の人間は、流行のコーヒー店で廉価なコーヒーを楽しんでいるのだ。
 だからといって、コーヒーを楽しむのが悪いと判定しても、それを何らかの説得力をもたないかぎり、意味はない。こういった生活スタイルを享受してしまっている以上、そしてそれを劇的に変えることが難しい以上、少しだけ時間をかけて、物の見方を変えていくよう努力するしかないと思う。
 たとえば、多くの人がコマーシャルをみて購買欲を刺戟されるのならば、コマーシャルやニュース番組で日常的に環境問題をとりあげて、人々の日常感覚に環境問題意識を浸透させていくのも必要ではないだろうか。今はまだ、環境に積極的に関心をもつ人しか、環境問題を内面化していないと思うから。
 ただ、どれほど環境にやさしい生活をしたところで、それが人間を中心にした見方であることには変わりがない。環境を中心に世界をみるというディープ・エコロジーの発想からすれば、「環境にやさしい」などという言い方すら人間の勝手な都合でしかない。
 ジレンマを抱えざるをえないのだけど、このジレンマを抱えることが必要なのだと、答えにもなっていないコメントだが、そういうのが精一杯である。

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ビタミンC+Eのサプリメントを買う。喫茶店で小泉首相訪朝の記事を流し読み。情報誌で上映中の映画をチェック。夜「ウォーターボーイズ」を見る。明日は神戸の方に移動。帰宅は明後日の予定。もう2時半なので、朝起きられるか不安。もう寝よう。