パヴィチ『風の裏側』

 女Xと男Yが恋人同士であると仮定する。ただし、XとYの生まれた場所も時代もまったく違ったとする。XとYは生きている間に会うこともなければ、互いを知ることもない。にもかかわらず、XとYは恋人同士であるということは成り立つだろうか。
 このような設定が成り立つのはフィクションでしかないだろう。いや、たとえフィクションであったとしても、恋人同士が出会うことも互いを知ることもなく死んでしまうような話は、はたして恋愛小説といえるのだろうか。
 こんな奇妙な設定の上で書かれているのが、ミロラド・パヴィチの『風の裏側』(東京創元社)である。
 詩的謎に満ちたこの本の魅力は尽きない。なにしろこの物語には、文字通り「終わりがない」のだ。本のそれぞれの側からは別々の物語が始まり、まんなかまで来てそれぞれの話が一応の結末を迎えたとたん、本には記述されない物語が始まることになる。
 これは愛を扱った作品である。主人公の恋人たちは、古代ギリシアの悲恋物語ヘーローとレアンドロスをもとに、ヘーローは現代に生きる大学生、レアンドロスは17世紀に生きる石工に設定されている。この作品のユニークなところは、かれらの生が別々に始まり、互いを知ることなく、別々に死んで物語が終わってしまうことだ。だが作品の記述が終わっても、物語そのものは続いているという奇妙な構造をもっている。
 古代ギリシアの物語では、レアンドロスが溺れ死ぬことで二人の愛は引き裂かれる。だがパヴィチの手によって、穏やかとはいえない今生の死を迎えた二人は、かつてかれらを引き裂いた(時間の)海を超えて泳ぎ出す。二人が時空の海を超えて実際に「出会う」――出会ってしまう――のかどうかはわからない。だがヘーローは過去に、レアンドロスは未来に向けて旅立つ先に、二人の愛は再び結びつくのだと予感させる。ここに再生と希望と愛の不滅というテーマを読み取ることは可能だろう。そしてそれは、パヴィチがユーゴスラヴィア出身の作家であるということに思いを致すとき、現実の悲劇のさなかにありながらも、いやむしろそれゆえにこそ、いっそう強く不滅なるものへの希求が現れているとも考えられるのではないだろうか。
 この小説の真にユニークな点は、「語られなかったこと」のなかにこそ、愛の不滅性が「語られている」というパラドックスにある。
(Nov/01/2000)

ベンヤミンの焼き林檎

 四歳のころ、骨折のため入院していたことがある。昼食後に日課のリハビリを終えて部屋に戻ってくると、サイドテーブルの上におやつがのっている。たいがい果物かプリンのようなものだったと思う。まだ小さなこどもだったし、単調な入院生活のなかでは、おやつは楽しみの一つだった。
 そんななか、部屋にもどってきてテーブルのうえに焼き林檎を発見するときほど、失望することはなかった。病院の食事は今も昔もおいしいものではないだろうけれど、病院の焼き林檎ほどまずいものはない。こどもの舌にも受けつけられないほどまずいおやつ、というのはとても残酷な記憶だ。冷たくて、ぱさぱさして、へんな茶色に変色した焼き林檎――唯一食べ残したおやつだったと思う。
 ところが、いいイメージのない焼き林檎が、ヴァルター・ベンヤミン「1900年前後のベルリンの幼年時代」のなかの「冬の朝」(『暴力批判論』所収、岩波文庫)では、びっくりするほどおいしそうに描かれているのだ。ベンヤミンは後年貧窮の中に暮らし、ナチスの迫害にあって亡命を余儀なくされるのだが、幼年時代は裕福なユダヤ人家庭のお坊ちゃんとして成長する。そんなベンヤミンに毎朝メイドが焼き林檎を暖炉で作ってくれるのだ。彼は暖炉のなかの林檎にそっと手を伸ばしてみる。
「林檎の香りはまだほとんど変わっていないことが多い。そこでぼくは辛抱して、泡立つような芳香がしてきたなと思えるまで、待っている。この芳香は、クリスマスツリーの芳香にすら立ちまさって、冬の日の一段と深い、一段とひそやかな密室から泡立ってくるのだ。こうして暗色になった暖かな果実が、林檎が、遠く旅してきた親友のように、なじみ深いが変貌した姿で、ぼくの手に握られる。その旅は熱した暖炉の暗い国を経てきた旅であり、林檎はそこから、その日がぼくのために用意していたすべてのものの香りを、手に入れてきてくれていた。」
 いったいどんな香りなんだろう、と想像するだけでうっとりしてしまう。
プラスチックの皿にのせられた萎びた焼き林檎というわたしの記憶を、冬の朝暖炉で作られる焼き林檎というベンヤミンの記憶に刷りかえてしまいたいくらいだ。でもわたしは焼き林檎にはトラウマをもってしまっているけれど、林檎そのものは好き。箱詰めで届いた林檎の箱を開けるとき、ふわりと立ち上る芳香の記憶は、きっとベンヤミンの焼き林檎にだって負けてはいない、と思う。
(Thursday, November 23, 2000)

カルヴィーノ「菓子泥棒」

 この魅惑的なタイトルは、イタロ・カルヴィーノ『魔法の庭』(晶文社、1991年)に入っている短編につけられている名前である。原題はFurto in una pasticceria。盗みに入った三人組みはどうもケーキ屋に入ったらしく、本来の目的を忘れてひたすらお菓子を食い散らかしてしまうというお話。
 戦後まもなくの話で、お菓子なんか何年振りだろうという感激と、盗みに入った短時間しかこの「夢の楽園」にはいられないという焦燥感から、泥棒《ボウヤ》は突如、菓子との闘いに突入する。
 クリームと砂糖づけのサクランボ、ジャム入りドーナツ、メレンゲ菓子、アーモンド菓子、「燃えるろうそくからロウがたれてるみたいな」クリームケーキ、パネットーネの兵隊に、ヌガーでかためた堅固なお城、もう味なんかわからないタルトに気味の悪いチャンベッラ、スコッチケーキにブリオッシュ、一本丸ごとぱくつくプラムケーキ、サヴィオア・ビスケットにチョコレート・ビスケット、四つんばいになってケーキの上に乗っかるわ、もうたくさんなのに狂ったようにシュトルーデルやクレープを貪りつづけ、松の実入りのマカロン、カンノーロ、砂糖づけの果物とまだまだ続く、挙句の果てにやってきた警察までもがお菓子に夢中になる始末。てんやわんやの大騒動は「猿がやった」という警官たちの「証明」でおひらき。
 とまあ、とにかくマシンガンのようにお菓子が飛び出してきてとってもスラップスティックなお話なのです。オチまでスゥイートよ。
(Sunday, November 19, 2000)

キシュ『死者の百科事典』

 二〇世紀は戦争の世紀とも評される。近代以降の戦争の死者数を調べた研究によると、死者の数は今世紀に入ってからはうなぎ上りに上がるらしい。かつての死者は主に軍人だったけれど、今世紀の戦争では民間人の死が膨大に膨れ上がったためである。
 死者を数字で記されると、なにかとてつもない事が起こったのだと分かってはいても、数字はどこか無機質で死に対する実感をもたらさない。数字に還元されてしまうと、見えなくなってしまうことは多い。カウントされる「死」の背後にあったはずの、その数の分だけの「生」が見えなくなる。
 ユーゴスラビアの作家ダニロ・キシュの「死者の百科事典」(『死者の百科事典』所収、東京創元社、1999年)は、語り手がある晩スウェーデンの王立図書館で「死者の百科事典」なるものをひも解き、そこに描かれた彼女の父の生涯を読むという話である。
 「死者の百科事典」という謎めいた代物は、「他のいかなる百科事典にもその名前が出ていない」死者を項目に載せた事典とされる。その事典の目的は「人間世界の不公正を正して神の創造物すべてに永遠の世界に等しい場所を与え」ること。物語は、その条件に該当する語り手の父の生涯を細かく辿っていくことで進む。父はどこで生まれどこで育ち、何を見何を感じ、誰を愛し誰に怒り、そしてどんな死を迎えたか――読む者に折々の情景が浮かび上がってくるような細やかさで、一人の人間の人生がそこに克明に鮮やかに記されている。
 語り手は父の項目を読み終わって次のようにいう。
「ひとつひとつの人生、ひとつひとつの苦悩、ひとつひとつの人間としての継続を、記録し価値付ける人たちがまだこの世にいるのだという証拠をもっていたかったのです」と。
 個々人の生はかくも多彩であり、一つの色に染め上げることなどけっしてできはしない。世界中の無名の死者たちの生涯を記録した「死者の百科事典」とは、人々の生を平板化しひたすら数に還元してきた、そしてこれからも還元していくであろうこの時代に対する、キシュの静かなる抵抗といえるのではないだろうか。

抹茶カステラ

 ここ1週間ほとんど引きこもり状態。でも銀行いかなきゃお金がない! 3時ごろに銀行に向かって歩き出したけど、人の多さにめまいがしそう。お店も人も暑いせいか活気があるとはいえないよねーって、これはわたしの精神状態がそう見させるのでしょうか。
 ともかく銀行に着いたはいいけど、長蛇の列に辟易し、そのまま帰宅。今日ゴトビだって?(←字がわからん) 銀行でお金をおろして、美白系アイテムを買おうと思っていたのに(ビタミンCの錠剤とかいろいろ)、財布に1000円しかないので何にも買えない。がっかりだ。暑い最中に何をしにいったんだか。
 冬瓜を買って中華スープにした。繊維が軟らかくなるくらいまで煮込むとおいしい。あとマンゴープリンの素でマンゴープリンを大量に作る。プリンというにはフルフルしすぎているんだけど、これがいいのだ。
 あと長崎堂の抹茶カステラも買う。切れ端なんだけど、安い上にこんがり感があって、なかなかお買い得な一品。人気商品なのかすぐに売切れてしまい、いつも買えなかった。今回はじめてゲット。封を切ったら抹茶の香りが漂って、普通のカステラより気に入ったかも。
 ちなみにスーパーではお買い物カードを使うので、現金がなくても買い物はできるのね。

食品の安全性

 ここのところ仕事がつまっていて、気がつくと日が暮れている。午前中はまだ涼しいからいいけれど、昼になると暑くて外に出る気がしない。仕事のペースもおちる。夕方から家の中は急激に蒸し暑くなるので、ガマンできずクーラーをつける。夜になると、やっと一段落する。それでも暑くてクーラーに頼ることもしばしば。徐々に涼しくなってきているのは体感できるけれど、せめて「夜は寒いくらい」に早くなってほしい。
 食品関係の不祥事が続いていて、ニュースをみるたびにうんざりしている。野菜や秋の味覚の果物までかと思うと、ちょっと待ってよ〜となる。もともと輸入物は買わない方だったけど、国産まであやしいとなると、どうしろっていうのよ。食品関係者のモラルの低さにあぜんとしている。こういう状況を作ってきたのは、消費者のニーズに答えようとしたからだという言い方もされるけど、発ガン性が指摘された農薬をなおも使いつづけたというのはやっぱり生産者側の問題でしょといいたい。
 減農薬をうたった商品を買うのがいいんだろうけど、市価は当然高い。あれは生活に余裕のある層のみができるプチブルの生活スタイルだ。市場に出回るすべての食品の安全性を徹底するのが、正しいやり方だと思う。

節分

 また今年も節分祭の季節がやってきた。
 別に豆まきをするわけでもないが、近所のお寺が厄除けさんなので、この期間だけは寺町みたいになる。昨日が雨で出足が悪かったせいか、日曜日の今日は朝から近所がざわざわしていた。
 昼を過ぎるごろには、家の真横の電柱につけられたスピーカーがひっきりなしに、迷子の案内・警察からの注意・盗難や落し物の注意を流し出す。おまけに、家の前の溝をカバーしている鉄板をみんな踏んでいくらしく、ひっきりなしにガタガタなる。とにかく、うるさい。うるさいから鉄板を外しにいってやろうと、玄関の扉をがらっとあけたとたん、あっけにとられてしまった。家の前に、参拝客がすし詰状態で並んでいるのだ。いっせいに参拝客の目がこっちに向くので、慌てて扉をしめた。
 どうも、新しく開通した道路に警察が誘導しているらしく、去年までとは参拝ルートが変わって、うちの前をとおるようになっているらしい。しかも、境内で入場規制をかけているから、人の流れが止まっているのよ。鉄板外すどころじゃなくて、仕方なく、家のなかで爆音で音楽かけて、外のうるさい音から気をそらした。
 しかし、買い物にもいかないと、晩ごはんがない。覚悟をきめて、外にでて、行列のなかに身を投じた。帰ってくるときも、人ごみと一緒に流れてこないと家にたどりつけなかった。こんなんあり? 玄関で鍵をがちゃがちゃやっているのが、すごく恥ずかしかったよー。
 屋台、いっぱいでていた。ひやかし半分で見てまわった。なんか、白い蛇を見世物にしている屋台があって、そこは人だかりができていた。厄除けまんじゅうの店はどこもかしこもよく売れている様子。和菓子屋さんの厄除けまんじゅうが売れるのはいいけど、普段は八百屋なのに、このときだけまんじゅう屋になる店にまで行列つくっているのは、ちょっとどうかと。
 節分といえば、巻寿司の丸かぶりがお約束なので、巻寿司を買う。これって関西だけの風習らしいですねぇ。俗に「寿司屋の陰謀」といわれているけど、最近聞いたニューバージョンは、実は「海苔屋の陰謀」、というものだった。真実はいずこに? そのうち、「かんぴょう屋の陰謀」とか「みつば屋の陰謀」とかでてくるんじゃないだろうね?
(03.feb.02)

本屋さんの条件

 どうしても買わなきゃいけない本があって、重い腰をあげて難波に行った。
 無印良品のビルに、本屋のLibroが入っていたので、まずそこでチェック。Libroはアート系の本屋さんというイメージがあるけど、それ以外のジャンルもきちんとそろえてあった。でも、一見本をそろえているなというかんじだったのに、お目当ての本はちっとも見つからない。取り寄せになるといわれて、そんな悠長なことしてられないので、千日前のジュンク堂に向かった。あっという間にお目当ての本がみつかる。Libroが空いていたのは平日のせいかと思っていたけど、ジュンク堂は昼間でも人がいっぱい。もちろん品揃えの差もあるけど、根本的に本に対する態度が違うように思った。
 Libroの本棚を見ていると、どうしてこの本をここに並べるかな?と、視線がよくつまづく。本のタイトル等からここに並べたんだろうけど、ほんとはこっちのジャンルに置くべきだよ、というのが多い。それに比べて、ジュンク堂の本の配置の仕方は整理整頓されている。ジャンルごと、テーマごとにカチッと本をそろえていて、見ていて非常に気持ちがいい。
 小さな古本屋さんだと、テーマやジャンルと関係なく本がランダムに並べられている店があったりする。店主の性格がそのまま出ているんだろうけど、見る方にとってみたら偏頭痛が起こりそう。本屋さんは大きかろうが小さかろうが、合理的に秩序だって本を並べてほしいものである。
 本屋めぐりでうろうろしたけど、一段落ついたので、もう一度無印良品のビルに戻る。ここの一階にChai MUJIという中国茶のカフェが入っているのだ。コストダウンしているからセルフだけど、中国茶が300円〜400円程度で飲める。何より、座席の配置がゆったりしていて、店内が明るくて、すっきりしていて、音楽がかかっていない。本を読むには最高の環境だ。気に入らないカフェや喫茶店の特徴は、座席がつめつめで、適当な音楽がかかっているところ。FMラジオや有線がかかっているのは最悪。何にもかかっていないほうが絶対まし。
 Chai MUJIでは、青茶の中国茶を飲んだ(名前を忘れた)。ポットのお湯を足し足し、4杯は十分飲める。中国茶はハーブティも70種類くらい販売していて、自分で量り買いできるから、なかなか楽しい。3種類ほどのお茶を買って帰宅した。
(01.18..02)

気苦労な散髪

 髪を散髪するのがあまり好きではない。髪型が変わることがイヤなわけではないから、正確に言うと、美容院に行くのがあまり好きではない。美容院でつくってもらうメンバーズカードには、「20日に一回のペースで通ってください」などと書いているけど、20日に一回ってウソでしょ?というかんじだ。思い起こしても、だいたい150〜180日に一回くらいのペースでしか通ってないし。
 新商品をすすめてくるのをいちいち断るのがいやだし、髪を洗うときに顔にガーゼをかけられるのもいやだ。まあそういうのは別にたいした理由ではないんですけど。化粧品もそうだけど、特定の店員や美容師と懇意になって得意客になるという芸当が、どうもへたくそなのが原因かもしれない。
 美容師さんはかなり個人情報を聞いてくるし、それをおそらくメモっている。次にその店にいって、別の美容師にカットしてもらっても、以前来たときに話した内容をふってくるのでちょっとこわい。
 てるてる坊主みたいな格好で無防備なまま自分のことを喋らされるのは、喋ること自体がかならずしも苦手ではないあたしとしても、正直苦手だ。これを突破する方法は、美容院に行かないか、懇意の客になって自分のことをよく知ってもらい、喋ること自体に抵抗を感じなくなるようにするか、だ。前の選択肢は、それをやめたらさすがに枯れてるみたいでちょっと。後者は、正面突破かぁ・・・そういう息のあう美容師さんが見つかればいいんだけどなあ。20日に一回のペースで探しに行かなきゃだめってことかしらん。
 つい最近散髪したばかりなので、しかもまたもやベリーショートにしてしまったので、今は髪に対して非常に神経質になっている。鏡に向かっては前髪だのサイドの髪だのいじくりまわしている。
 (めずらしくも)無口な美容師が唯一聞いてきたのが、「前髪もっと切りますか?」だった。はい、と答えたら、遠慮なくジャキジャキ切られてしまった。それで前髪が眉毛の3cmくらい上にある。ほとんどない。髪型の写真集を見ても、他の女の子の髪型を見ていても、ベリーショートで前髪がすごく短いのは、個人的には好きだしかわいいなあと思う。でもいざ自分がその髪型になってみると、はたして似合っているのかどうか自信がない。
 とかなんとか思っていて、村上春樹の『やがて哀しき外国語』の「運動靴をはいて床屋に行こう」を読んだ。もう今のあたしの気持ちにぴったし!というところでめちゃくちゃおもしろかった。
 村上氏にとっての〈男の子>のイメージが
「1.運動靴を履いて
2.月に一度(美容室ではなく)床屋に行って
3.いちいち言い訳をしない」
というものらしくて、な、なかなか意外なあたりからつっこんできたユニークな<男の子>像であります。しかし以下の文章は「言い訳」というか愚痴というか、いかに床屋さんで苦労してきたかがひたすら語られていて、もう<男の子>じゃなくていいからまともな髪型にして!と叫びだすあたりは、床屋さんとの絶縁宣言? 
 んー、みんな人知れず悩んでいるのかなあ。いや、あたしは床屋さんには行かないですけどね。
(01.15..02)

文字が分解する感覚

 ちょっと前、中島敦の手紙類が見つかったというニュースがあった。中島敦といえば「山月記」。教科書で読んで、その硬質な文章に惹かれて、他の作品も読んだことがある。もう記憶もおぼろげだけど、「木乃伊」と「文字禍」という話がとてもおもしろかった。
 「文字禍」というのは、アッシリアかどこかの書記が主人公で、自分の書いている文字(楔形文字?)を見ているうちに、それがどんどん分解されていってしまうという、ちょっとパラノイドな話だった。細かい内容は忘れてしまったけれど。
 なんでこの話が印象的だったかというと、その感覚がすごくよく分かったからだ。たとえば「顔」という漢字があるとすると、これをじっと見ていると、「彦」と「頁」に分解されていき、どうみても「彦」と「頁」にしか見えなくなってくるのだ。「彦」はさらに「立」と「三」に分解され、「頁」は「一」と「自」と「八」に分解されていく。こうなってくると、もとの「顔」という漢字に戻そうとしても戻ってくれずに、漢字はバラバラになったまま。こどものころは、この感覚がすごく気持ちわるくて、めまいがしそうになっていた。
 すっかり忘れていたこの話が、マツモトさんと話をしているときに突然でてきた。中島敦の話になって、マツモトさんがこの「文字禍」がおもしろいといって出してきたのだ。正直言ってびっくりした。中島敦といえば「文字禍」という人に出会ったのははじめてだったので。多分文庫には入っていなかったと思うし、中島敦の作品のなかではマイナーなあたりではないんだろうか。
 しかしマツモトさんは、「漢字の書き取り練習で同じ画をまとめて書いた人間なら、誰でもわかる感覚だ」と力説した。あれ?そうなのかな。いわれてみたら、漢字の書き取り練習では、一行二行、同じ画ばかりまとめ書きしたことはある。でも、「だから」中島敦のあの話が気になったとは思っていなかっただけに、すごく不意をつかれた意見だった。個人的には、完成された漢字を「じっと見ていると」呼び起こされてしまう感覚、だったんですけど。
 まあ多少のちがいはあれ、漢字文化圏の人間なら誰でもわかる感覚、というのは当たっているかもしれないな。
(01.01.02)