Barry Lyndon
1975年 英
監督:スタンリー・キューブリック
出演:ライアン・オニール
マリサ・ベレンソン
パトリック・マギー
サッカレーのピカレスク・ロマンをもとに、18世紀後半のヨーロッパに生きたバリー・リンドンの栄枯盛衰を描く大作。バリーの人生は、前半と後半に分けて描かれる。
レドモンド・バリーはアイルランドのジェントリー出身だが、父を決闘で亡くしているため、親戚の家に居候している身分。初恋の相手の従妹は、はじめて恋を知った少女のフリをして、ぼんくらの金持ちイングランド人将校の妻の座を狙う。従妹に惚れこんでしまっていたバリーは、イングランド人と決闘して、結果、ダブリンに追放される。
時代はちょうど七年戦争で、ヨーロッパ中が戦争状態にあった。つねに人員不足の部隊は、あちらこちらで兵員を補充している。追いはぎにあって一文無しになったバリーも、イングランドの部隊に参加する。
途中、フランス軍とイングランド軍との闘いの場面があるが、これはこの映画の前半部分の圧巻である。太鼓を鳴らしながら、一列に並んで、英軍が仏軍にむかって行進していく。銃撃にさらされて歯が抜けていくように兵隊が死んでいく。さすがに戦争モノを撮らせたらキューブリックはうまい。
頭もいいしケンカも強いバリーだが、こんなところで命を落としてはたまらないと脱走する。ところが捕らえられて、今度はプロイセン軍の一兵卒としてまたもや軍務に就くことになる。イングランドの兵隊がそんな簡単にプロイセンの兵隊になれる、というのもびっくりだが、いまだ国民国家が完成していないときであれば、こういうこともありえたのかもしれない。
プロイセン将校に忠誠を誓うフリをしながら、なんとか転機を掴み取って貴族社会に入り込み、今度は博打で貴族を喰い物にする生活が始まる。ここでもバリーは、いつまでもこんな生活はしていられないと、死にかけの貴族の妻に目をつけ、まんまと彼女と結婚する。
貴族的生活を手に入れたことで、彼の前半の人生はピリオドが打たれる。上流階級の仲間入りをしたバリーの人生は、停滞と守勢にまわるようになる。
わたしにとっては、後半のほうが見ごたえがあった。
まず映像のすばらしさ。お城や水面の輝き、緑豊かな庭園、衣装の襞の陰影など、バロック時代の絵画がそのまま映像で表現されていて(レンブラントの絵!)、映像美のオンパレードである。音楽もヘンデルなどバロック音楽が、非常に効果的に使われていて、このあたり、キューブリックの深い教養と遊び感覚のバランスは絶妙であると思う。
それだけにとどまらず、この芸術作品といっても過言ではない作品は、文学として観る場合にも並々ならぬ迫力をもっている。これほどたくさんの登場人物をだしながら、バリーを中心に描く太い線はきっちり最後まで崩れない。そして周囲の人々と織りなす人間関係は、複雑で、一級の腕をもつ作家ならではの力量でもって描き出されている。絵画のような映像にはめ込まれた人々は、その動きでもって、悲しいまでに思うとおりにはいかない人生模様を描き出すのだ。
戦争や権力に翻弄されながら、なんとか人を出し抜いて世渡りしてきた男は、富や名声や権力を手に入れることにしか、自分の行動目標を設定できない。それゆえ、「ミスター」バリー・リンドンでしかない彼は、貴族の称号を得るために奔走するのだが、その努力は実を結ばない。貴族の生活スタイルや生活慣習を付け焼刃で身につけることは難しく、妻とも先夫の息子とも軋んだ関係しか結べない。それでも、貴族階級出身の妻は、彼が身代をつぶしていくのを黙って容認する。人形のように美しい妻は、ひたすら借金の請求書にサインをしつづけるのだ。なぜ彼女が、身分の違う成り上がり者を夫にしたのか、なぜ彼の身勝手さを許したのか――「愛」という言葉だけでは、説明しがたい重苦しさが残ってしまう。彼女がバリーのような男を選んだことは、自分の人生に対する自虐的だが消極的な反抗だったようにも思える。
貴族的な生活を手に入れたバリーを包む鬱屈、妻の諦念、母への妄執と義父への恨みでいびつに育ってしまう息子、明るく振舞いながらも父母の不仲に幼い心を痛めていた年下の息子――悲劇は突然やってくるのではなく、長い時間をかけて編みこんできた図柄が完成したときにそれが悲劇だったと分かるような、そういう哀しさと憐れみを感じるような映画である。
いや、悲劇というほど大げさなものではない。自分の人生はなぜこんな人生だったんだ?と問い詰めたくなるような人のほうが、世の中には多いのではないかと思う。一見華やかな変転の人生を送るバリーも、そういう人のうちの一人でしかない。それゆえにこの映画は、人間的存在の普遍的な哀しさを描いた傑作といえるのかもしれない。
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