Pola X
1999 年 仏・独・スイス・日
監督: レオス・カラックス
出演: ギョーム・ドパルデュー
カテリーナ・ゴルベワ
カテリーヌ・ドヌーヴ
レオス・カラックスの映画「ポーラX」(1999年)は説明しがたい不安を観る者に与える。この映画はおそらく重層的に観ることが可能だ。だがなによりも第一印象は、きわめて政治的な映画だ、というものだった。
主人公ピエール(ギョーム・ドパルデュー)は美しいお城に住み、新進気鋭の作家であり、著名な政治家を父にもち、美しい恋人との結婚を控えている。彼は申し分なく上流階級の人間であり、将来を嘱望された若者だ。そんな彼の前に「姉」と名乗る謎の女イザベル(カテリーナ・ゴルベワ)が現れる。ピエールは彼女に強く惹かれ、美しい恋人や家を捨てて、イザベルと彼女の友人、そしてその子供を引き連れてパリを彷徨うことになる。
わたしが「政治的」と書いた理由は、イザベルが「東」から来たことにある。彼女は祖国の戦火を逃れてフランスに不法入国した亡命者なのだ。
上流階級のなかで生きてきたピエールが、「東」からの亡命者たちを引き連れているがゆえに、それまでは無縁であったはずの社会の蔑視にさらされていく。街中のホテルには宿泊を拒否され、警官の姿におびえる彼女たちにとまどい、タクシーには乗車拒否されてしまう。美しかったピエールは視力をどんどん失って分厚い眼鏡をかけ、杖をついて片足を引きずりながら歩くようになる。書いた小説は出版社に受け取ってもらえず、最後には悲惨な結末が待っている。彼が女によって破滅していく姿は痛ましい。
90年代の西ヨーロッパは、コソヴォやユーゴの混乱に悩ませられてきた。彼らは「東」の民族紛争に手を焼き、ときには空爆まで行い、溢れ出す難民の流入に悲鳴をあげてきた。けれども西ヨーロッパ社会の周辺部にその姿を現す難民たちはこの時代の、いや今世紀のひとつの現実を体現している。つまり、法の外部におかれた人間、というものを。
ピエールはあまりにも純粋に、社会のなかに区切られた境界線を踏み越えていく。彼はフランス社会のもっとも中心部にいたはずなのだ。それは、確固たる身分・教養・慣習・法・伝統の壁に囲まれた堅固なお城だったはずだ。彼はそこからあっさりと越境し、社会の底辺にまで堕ちていく。カラックスの映画は、およそ関わりのないはずの人間を運命の恋人同士にしてしまう。それは社会の中心部に上昇するシンデレラ物語とは異なって、不穏で流動的な社会の周辺部へと下降する物語だ。
観る者が不安になるのは、境界線を踏み越える――それを選んだのか選ばされたのかはわからないが――主人公の破滅的生を通して、現代の社会に確かに存在する、社会の周辺部の不穏さを感じとってしまうからだ。一切の調和を拒むこの映画の衝撃力は、まさに私たちの生きる時代の暗部を鮮烈に切り取っているところから生じているのだ。
(Sunday, December 17, 2000)
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