カサノヴァ

Il Casanova di Federico Fellini
1976 年 伊
監督: フェデリコ・フェリーニ
出演: ドナルド・サザーランド
ティナ・オーモン
マルガレート・クレマンティ


 この映画、すごい。カサノヴァの顔がでかくて白くて、もう一瞥しただけでフツーじゃない。ゴンドラ漕いでも海は作り物っぽいし、登場人物の一人一人もフツーじゃない。悪夢とまではいわないけど、うなされそうな夢みたいな映画。表現できないです。じゃあこんなショボいコメントのせるなといわれそうですが、でも好きなんですね、こーゆーの。
 あ、瀉血される美少女は、ねこじるが使ってましたね。
by kiryn (2001/10/14)

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髪結いの亭主

le Mari de la Coiffeuse
1990 年 仏
監督: パトリス・ルコント
出演: ジャン・ロシュフォール
アンナ・ガリエナ
トマ・ロシュフォール


 妻が夫との最高の時間を永遠にとどめるために自殺する、というのは文学的なのかはたまたオヤジ妄想的なのか。唐突な最後には割り切れないものをかんじつつも、アンナ・ガリエナのワンピースの胸元から匂いたつようなエロスとか、床屋のおやじのすっとぼけたアラビック・ダンス?とか、ルコントってうまいなあと感心してしまった。
by kiryn (2001/10/9)

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カウガール・ブルース

Even Cowgirls Get the Blues
1994 年 米
監督: ガス・ヴァン・サント
出演: ユマ・サーマン
ジョン・ハート
レイン・フェニックス


興行的にはコケたらしい本作ですが、あたしはハマッテしまいました。
なんといっても、「両手の親指がやたらでかくて、ヒッチハイクするために生まれてきた女の子の物語」という設定がバカバカしくて好き。ユマ・サーマンが親指一本(二本か?)で車はおろかヒコーキまで停めさせてしまう、そのシークエンスをひたすら巻き戻して観てました。音楽もK.D.ラングでヨイです。記憶に残るイメージでは、ダン・ヒックスの「コースト・トゥ・コースト」もぴったりだと思っています。
by kiryn (2001/10/9)

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The Mirror
監督: アンドレイ・タルコフスキー


 十代のころ、気に入っていた映画の一つにアンドレイ・タルコフスキーの「鏡」があった。――燃え上がる家、風になびく草、雪のなか少年の頭にふいに止まる小鳥、憂鬱そうな母の眼差し、湿り気を帯びた、水の気配を感じさせる映像――一つ一つのシーンの美しさに息を呑んだ。
 この映画は、記憶という、とても個人的で伝えようのないものを扱っている。
 主人公は声だけで姿はみえない。妻と離婚し一人息子をめぐって「わたし」と妻は口論する。息子の状況は、かつて「わたし」が置かれた状況と似ている。父が家を出ていってしまったあとの母が、記憶のなかから立ち現れる。現在と過去が入り混じり、そこに同時代の政治的事件の記録映像が挿入されていく(政治的出来事の挿入は、唯一、「わたし」の記憶を客観化させる方法だ)。
 今の「わたし」が置かれている状況が、過去の記憶を呼び覚ましていく。
 母は憧憬と哀れみの対象だ。父は姿を現さない。父の詩が「わたし」によって読み上げられる。母を捨てた父は、妻と別れた「わたし」と重なる。「わたし」を捨てた父は、息子と別れた「わたし」に重なる。「わたし」は父にもなり息子にもなって、記憶のなかでつながり重なっていく。
 同じように、母と妻もまた一つの姿に溶解していく。けれども、「わたし」が彼女たちに重なりあうことはない。母(と妻)が何を考えていたのか、何者であったのかは、実は分からない。「わたし」は母をいくら思い出しても、「鏡」に映った母の姿しか見えない。
 母とはそういうものなのだろうか。「息子」の語る「母」は、つねに「鏡」に映った影でしかなかったのだろうか。この映画をみると、いくつもの解けない思いがよぎり、どうにも表現しがたい気分に駆られる。少なくともわたしにとっては、まるっきり自己投影できる映画でもなく、だからといって、突き放して見ることもできない映画だ。ただ、映像の比類なき美しさに誘われて、わたしもまた自らの記憶の海に沈みこんでいく。
(Wednesday, March 21, 2001)

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キンスキー、我が最愛の敵

Mein Liebster Feind
1999 年 独・英
監督: ヴェルナー・ヘルツォーク
出演: クラウス・キンスキー
フォン・デア・レッケ夫妻
フスト・ゴンサレス


 ヘルツォークとキンスキーの目の眩むような邂逅。互いが互いを触媒として爆発力を高めたような関係。濃すぎる。船が山を登ったっておかしくない。
 それでも、キンスキーから離れない蝶々と笑い戯れる彼の姿をずっと撮っている最後のシーンは、とても切なくて、すばらしい。この映画はキンスキーに対するヘルツォークの、ユーモアと愛惜に満ちた美しいオマージュだ、と思った。
by kiryn (2001/10/8)

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オルランド

Orlando
1992 年 英・露・伊・仏・蘭
監督: サリー・ポッター
出演: ティルダ・スウィントン
シャーロット・バランドレイ
ヒースコート・ウィリアムズ


 ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』を映画化した作品。エリザベス1世の時代から現代まで、時空を超えて生き続ける青年貴族オーランドが主人公。
 エリザベス女王の時代にロシアの姫君と氷上スケートを楽しむ様子、大使となって中近東に赴任する様子など、見事な絵巻物になっている。
 いちばんのハイライトは、オーランドが病に伏したあと、女性に変化するシーン。なぜ女性になったのか、などは問われない。オーランドは女性になった自分をすんなりと受け入れ、「わたしはわたし」と呟く。このあたりは、フェミニストとしてのウルフの思想が鮮やかに簡潔に表現されているところだろう。オーランドは今度は、青年貴族の姿から美しい貴婦人の姿となって皆の前に姿を現す。
 ところが時代は18世紀。女性に相続権や財産管理権など、貴族の家長としての権利は一切認められていなかった。オーランドは一切の財産を失う。そして彼女はアメリカに渡り、南北戦争を舞台にある男性と恋に落ちる。彼とのこどもを生み育てるとき、オーランドは20世紀に生きている。
 オーランドは、彼であり彼女であり、女性の恋人であり男性の恋人であり、自由にジェンダーの境を越境し攪乱しつづける。不思議な魅力と力強さに満ち、わたしたちの想像力を喚起しつづける。
by kiryn (2001/12/12)

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アナザー・カントリー

Another Conunry
1983 年 英
監督: マレク・カニエフスカ
出演: ルパート・エヴェレット
コリン・ファース
ケーリー・エルウィス


 この映画、80年代半ばくらいに一部でものすごくブレークした。美青年モノというかヤオイ系というか、その方面ではもはや古典中の古典ですね。岡野玲子の「ファンシイ・ダンス」等でもパロディにされたりしてましたね。でも、ストーリー自体はしっかり作ってあって、見ごたえはいろんな意味である映画だと思う。
 筋立ては、イギリスのエリートコースから脱落してスパイになり、ソ連に亡命した人物の回顧というもの。こういう政治くさい設定にはちょっと弱い。
 感想は、なんというか、パブリック・スクールに通っている連中って、こんなに性格悪いやつばっかなの?というところ。主人公のエリートコース脱落の原因となった同性愛の相手は、顔だけが取り柄のアホウってかんじだったのに、最後には大蔵省かなんかの方向でエライ出世したという説明がついていて、うっそぉ!!てかんじだった。
 この映画をみた人間からは、コリン・ファースの演じた「ジャドがよかった」というコメント以外は聞いたことがない。ジャドくんは消灯時間なのにベッドでマルクスなんかを懐中電灯で読んだりして、おまけにスペイン内戦に義勇兵で参戦してあっさり戦死しちゃったという人だ。このおもいっきりイデオロギー左翼で硬派なお兄さんに、日本のうら若きオトメたちがラブコールを送ったのは何ででしょうかねえ。他の連中の性根が腐っているからではないか、というのがわたしの推測です、はい。
by kiryn (2001/10/9)

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アギーレ、神の怒り

Aguirre/der Zorn Gottes
1972 年 西独
監督: ヴェルナー・ヘルツォーク
出演: クラウス・キンスキー
ヘレナ・ロホ
ルイ・グエッラ


 観たいけどなかなか観る機会に恵まれなかったヴェルナー・ヘルツォークの映画をはじめて観た。予想以上に、おもしろかった。順番的には、「フィツカラルド」(1982年)→「キンスキー、我が最愛の敵」(1999年)→「アギーレ・神の怒り」(1972年)という順に観たのだけれど、今回は「アギーレ」について。
 映画の舞台は16世紀の南米、エルドラド発見という野望のためにスペイン軍に反逆したドン・ロペ・デ・アギーレは、数人の部下や捕虜とともに筏でアマゾンを下っていく。太陽の照りつける中、流れているのが分からないほどの速さで筏は進んでいく。鬱蒼とした川辺からは、姿を見せない原住民の吹き矢が放たれては部下が一人二人と殺されていく。アギーレの狂気の野望に支配された筏は、さいごは吹き矢と熱病と飢えのために彼を残して皆死んでしまう。死者を乗せた筏の上で、ただアギーレ一人が狂気の眼差しで「わたしは神の怒りだ」という独白を行うのである。
 アギーレに付き従った部下たちは、彼の野望を理解したから付き従うわけではない。その狂気と暴力を恐れて筏に乗り込んだ人々である。アギーレは世界から離れ、孤独の極北に立つ男である。その口から発せられる言葉を聞くものは誰もおらず、よしんばいたとしても、その言葉を理解することはできないだろう。映画を観ている観客にとってもまた、アギーレの野望を理解することは難しい。彼の最後の言葉を聞くのは観客なのだが、われわれもまたその言葉を理解することはできないのだ。だからこそ彼は「狂気」を表象した存在なのである。
 この映画を観て思い出したのがジェルジ・ルカーチの『小説の理論』である。ルカーチはここで、近代小説に現れる主人公を次のように特徴づける。すなわち、古代ギリシャの叙事詩で扱われる悲劇は共同体の運命的悲劇であったのに対し、近代小説の主人公は共同体と断絶しているところに特徴がある。彼の言葉・行動は他の人びとには理解されない。それゆえに近代小説の主人公は、必然的に狂人か犯罪者にならざるをえない、と。アギーレはルカーチの規定した近代人の一類型にほぼあてはまるだろう。
 ルカーチによると、近代小説の主人公は「神に見放された世界」に生きている。アギーレの独白「わたしは神の怒りだ」もまた、自分がもはや神とともにあった世界から大きく離れてしまったことへの自覚なのだ、と私は解している。つまり、この映画はきわめて(ある意味古典的な)〈近代人〉を扱ったものだといえよう。その点からすると、ある映画評論家が、ヘルツォークは「現実と夢の境がまだ判然としなかった中世の人間である」と述べているのは、わたしにとっては理解しがたい評価だった。
(Sunday, April 30, 2001)

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カンディンスキー展

 ローズヒップ入りの紅茶を買う。お茶請けには、ビスコの新商品「ビスコ 小麦胚芽入りクラッカー」を選ぶ。今までのビスコは、ビスケットの部分がどうもモシャモシャして決して美味しくはなかったのだが、これはそこが改善されてました。十分食べられる美味しさ。一箱4パック入りで、気がついたら2パックあけていた。しまった、カロリーオーバーだよ〜。
 先週、京都にカンディンスキー展を観にいった。
 カンディンスキーという人物はなかなかクセがあって、そう簡単に解釈させてくれない。無謀を承知で以下感想など。
 カンディンスキーはもともと国民経済学とか勉強してる学者で、30歳すぎたあたりで絵描きになろうとしたらしい。学者肌ももちあわせていたせいか、彼のミュンヒェン時代の作品は、芸術を科学化しようという試みに見える。もしくは絵画で表現した「芸術社会学」? 人物や風景のもつ具象性をひたすら純化していくことで、対象のもつエネルギーや本質を浮かび上がらせる、ということか。20世紀初頭のドイツは、社会科学や人文科学の領域においても、自然科学に負けない科学性が追求された時代だから、その知的ムーブメントにカンディンスキーも位置づけられるだろう。
 ただ、理論に走ればモンドリアンやデ・スティル方向の抽象絵画になるんだろうけど、カンディンスキーはそういう方向に行くわけでもない。彼らよりもう一枚二枚上手のところで思考していたのではないかと思わせる。彼の作風をあえていうならば、「永久に停止しない」ことではないだろうか。晩年にいたるまで、スタイルの確立はない。あえてそれをはぐらかし、ずらし続けていたように思える。
 バウ・ハウスという工業製品化に熱中する人々のなかで教鞭をとりながら、カンディンスキーは絵画での表現に徹する。あたかも物理学に対する数学のようなものとして、絵画を想定していたのだろうか。けれども、そういいきってしまうのも自信がない。彼の絵画に現れるロシアの息吹はどこか土着的で神秘的で、ついつい、ドイツ・ロマン主義とロシア神秘主義の混在した要素にひきずられてしまうからだ。かといって、彼は、ロマン主義や神秘主義に傾倒しきった人物にもみえないのだな。このあたり、ほんとうに一筋縄ではいかないと匙を投げたくなる。
 モスクワへの愛着を抱きつづけたカンディンスキーにとって、1905年革命、1917年革命の政治的激動が彼の人生に深く刻み込まれていないはずはないだろう。けれども、その困難さを、ダイレクトに絵画に表すような素直さはない。革命や戦争という一瞬で世界が変わるような体験をし、西から東へ、東から西へと亡命をくりかえした、そんなカンディンスキーという人物が見た人間世界は、極限にまで分解されることでしか表現できないものだったのか。彼の作品をみていると、20世紀という時代に人間がたどった運命を、あらためて考えさせられる。
 ともあれ、「コンポジシオン」シリーズとモスクワ時代の作品が見れて満足している。ベルリンの美術館とミュンヒェンのレンバッハ美術館には足を運んであるので、これで彼の有名な作品の多くを生で見ることができたかなと思う。

ドイツ対ブラジル

 遅ればせながら、6月30日のW杯決勝戦について。
 この数日前に、ともだちのリモくんたちを呼んで、うちでテレビ観戦しようということになっていた。前段階でリモと話をしていて、わたしがドイツを応援する!といってるのに、彼はぜんぜん乗ってこない。ドイツはブラジルには勝てない、カーンのゲルマン人顔をみていると、コイツもどうせエゴイストでいやなヤツにちがいない、ゲルマン魂などというがそんなものはない、とかなんとか散々にこきおろす。じゃあブラジルを応援するのか、ときくと、ブラジルの国民性はオレには合わん、あんなサッカーのことしか考えていない国はいやだとかいいだす。ほかに呼んだイッポリートとキザキくんも、「サッカーはどうでもいいけどメシ食えるんなら」というので来るという。なんだか不安なメンツだが、とりあえずみんな6時半頃にうちにくるようにと号令をかけておいた。
 当日、リモくんは昔のドイツのユニフォームを来てあらわれるやいなや、でかい声で「ドイチュランド!ドイチュランド!」とコールしだした。「勝利の美酒にとっておきましょう」とワインを差し出し、応援グッズとして、わたしとpallaさんのドイツ・ユニフォームまでもってくる始末。どうも徹底的にドイツ応援するぞ!に頭をきりかえたらしい。サッカーが始まるまでに夕食を食べ、万全の体制で応援に臨む。イッポリートは「オレ阪神ファン」とかいいながら、リモくんがドイツを応援するのを見ると、ひそかにブラジルを応援しだしていた。ブラジルが点をいれるだびに、「やったー!」とリモのほうをむいて小声で叫ぶ。この小心者!ブラジルを応援するのは巨人を応援するのと一緒だぞ。見ろ、スタジアムほとんど黄色じゃないか。
 でもまあ、しょせん、ドイツ応援する連中なんて、独文関係者か世界規模で展開している某語学学校生くらいなんだろうよ。しかしイッポリートは「そうでもないよ」という。「軍事オタクも応援しているはずや。今ごろきっと、ハイル!ハイル!とかいってるって」。・・・・・・サイテーだ。pallaさんもドイツ・ユニフォームを着せられてはいたが、ロナウドみたいなタイプに弱いから、心情的にブラジルを応援していたのではないかと思う。キザキくんは静かに観戦するタイプらしく、試合中は非常に静か。リモくんとわたしとで、ひたするドイツ・サポに徹して騒いでいた。
 前半まではよかった。カーンの出番もあまりなく、それはドイツが攻めているんだから、この調子でいけば、ブラジルは絶対あせりだすと思っていた。ブラジル人は調子がいいとどんどん調子よくいくが、あせりだすと調子を悪くしていく国民にちがいないと勝手にきめつけて、後半に希望をつないだ。なのに、結果はドイツの負け。2点目入れられた時点でわたしは観戦の集中力が切れてしまったが、リモは突然「ゲルマン魂だ!」とさけびだす。おいおい、それは禁句じゃなかったの?と釘をさしても、「こうなったらゲルマン魂しかない!」。ないって、そんなもん。韓国とアイルランドにはあるかもしれんけどさ〜。
 宴のあとは、頭きりかえて仕事です。ただ、帰国した傷心のドイツチームを、ドイツ市民が歓呼でむかえたというニュースを知って、素直によかったなあと思った。あと、ロナウドのちょんまげ。コイツすごいわ。pallaは「センスあるね!」とベタぼめ。ドイツ人は、たとえ優勝してもちょんまげで凱旋帰国はしないだろう。