お葬式でした。
死者が祖父母の年代ならば、天寿まっとうということでご苦労様と、比較的気持ちも明るいのだけれど、まだ親の世代の方だと、少し寂しい。でも、見送られる者より見送る者が若くてたくさんいるお葬式ならば、やっぱり亡き人にはご苦労様といいたい。簡単な基準だけど、見送られる人がまだ若いと、どんな事情があったにせよ、胸が痛んでやりきれないから。
わたしなんか親族というだけで故人とそう深いつきあいがあったわけではない。でも、親族だから最期までお見送りする。わたしなんかより、故人ともっと深い関係にあった人たちって確実にいると思うんだけど、親族でなければ最期までつきあうのは遠慮が先にたつかもしれない。そういうものかもしれないけれど、火葬場にまで行くと、ほんとうに最期まで見届けたという気がするから、なんだか不思議な気がする。
こういう日は、記憶のなかにあるお葬式を思い出したりする。「ご苦労様」のお葬式より、やりきれない思いの残るお葬式のほうが、よく覚えている。小学校のときのクラスメイトの顔をひとりひとり覚えてはいないけれど、死んだ子はよく覚えていたりする。その子の時間はそこで凍結してしまっていて、それゆえにか、記憶の底に焼き付けられている。自殺した友達のお葬式は、その日の天気や空気の気配にいたるまで覚えている。
死んだら忘れられる、というのは嘘かもしれない。死んでしまったら忘れられなくなる。
death
夕方からお通夜に行くまで、狂った予定の調整におわれた。お通夜ではなぜか乾き物が多くて、おなかはいっぱいだけど今ひとつ物足りない。帰りにスーパーで抹茶葛湯を買う。お湯をいきなりドバドバいれたせいか、ダマがいっぱいできて涙する。水で先に溶いておくべきだった。なんでわたしはこうも雑なんだろう。でもこれは体にやさしい飲み物なので二重マル。
やっぱりこの時期のお通夜は寒くて、体が冷え切っている。お風呂に入ってあったまろうと、ガスの種火をつけていたら壊れた。よくわかんないけど、何かの線が切れたみたい。せっかく、せっかく、たっぷりのお湯でぬくもろうと思ったのに。また修理代かかるの? シャワーだけだとぜんぜん体があったまらないよ。今でもなんだか寒気がするというに。まったくもお。
死というのは、生を終焉させるその時になってはじめて現れるものではなく、実は生そのものと分かちがたく結びついているものだと、昔のエライ人が言っていた。生が際だつためには、死への注視がなければならない。死を眼差すことが、混沌とした生の流れから、「生」を切り取る。だから、際たった生には常に死が寄り添っている。
こういう考え方を、単に美的に文学的に消費するのではなく、もっと根本的なものとして理解したいと思う。それが具体的にどういうことになるのかは、説明できないままなのだけれど。
take a walk
あんまり天気がよさそうなので、隣町の公園まで散歩に行く。途中で古本屋さんに立ち寄って、本を物色。大きな公園だから四方八方から人がきていて、すごく混みあっていた。疲れたので、マクドで休憩。あと、ここの公園にきたら絶対立ち寄るパン屋さんに行く。長ーいバゲットを買ったので、今日の夕食はパスタに決定。夕方からは冷え込みがきつくなってきた。パンの皮が噛み応えがあって、とてもおいしい。
夜、親戚が亡くなったとの連絡が入る。自分の父親と近い年齢の方なので、まだ若いのに、という気持ちが先にたってしまう。しかしそれでも明日、明後日の予定を急遽変更しなくてはならない。あしたは朝からメールであちこちに連絡をいれなきゃ。出さなきゃいけない郵便物、書かなきゃいけない手紙、まだ未記入の確定申告(こんなはした金なのにわざわざ税金でとっていくなー)、まだかけていない海外旅行用の保険、あーもう。公園に行ってる場合じゃないって。
世間知らず
友人と梅田で待ち合わせた。早めに行って買い物しようともくろんでいたけど、ぐずぐずしていてあっというまに待ち合わせ時間になってしまった。茶屋町に大きな雑貨屋ができていたのに、素通りになってしまう。残念。でも古本屋さんでスピノザの『エチカ』を半額で購入。当分積読になりそうだけど、新品同様だったのでうれしい。
友人とは梅田の某エスニック料理店で夕食を一緒にした。夜景が見れて良い席だったんだけど、ここの店はどうも好きになれない。居酒屋に文句をいっても仕方ないけど、料理の作りがぞんざいだし、店員の態度も雑。お子様むけだ。
この友人と会話をはじめたのはいいけれど、いきなり、バイト程度でロクに社会に出て働いたこともないわたしは「世間をしらない」ヤツなので、一度社会に出て働いてみるほうが人間的にマトモになる、みたいなことをいわれて面食らう。この手のことをいわれるのは初めてではないけれど、そういうことをいう人の「世間」って何?みたいに思う気持ちもあって、とりあえず反論する。でもこの「反論」がまた、ロクに「コミュニケーション」もできない「世間知らず」の印だというふうになって、わけがわからない。
結局彼女は、仕事上つきあいのある役所関係の人間が非常に横柄なのに腹をたてているらしく、そういうのを全部「世間をしらない」という形で解釈しているようだった。ロクに人に頭をさげたこともないわたし(そんなことはないのですが)も同じ「世間知らず」なので、こっちに矛先が向けられていたんだと思う。現場のことをしらないわたしは、現場で苦労している人間の気持ちなど分かるはずもない、と。そりゃそうだけど、じゃあ「世間」を知っているあなたは、別の(もっと条件の悪い)労働環境で働いている人たちの気持ちが分かるんだろうか。自分の置かれている立場やものの見方から、世界はそれぞれ異なったように現れているだろうし、話をすることでお互いにそれを「知る」しかないんじゃないんだろうか。
「議論」になるような話題をふっかけられて、「議論」しようとすると、「議論」しようとすること自体がわたしの主張を裏付けている、みたいにいわれたら、正直面食らいます。でもまあ、彼女とはそのあとも4時間くらい話をしていて、お互いが何を考えているかとか多少なりとも知ることはできたんだ、と信じたい。現場の人のはなしを聞くのは、わたしは大好きなんだけどね。
ただ、わたしは自分が「世間知らず」であることは客観的にみればあたっているので、わたしと話をする人のなかにはこれからもこういう言い方をする人がでてくるんだろうな。相手がどうでもいい人だったら、「そうですね」で終わらせるんだけど、ちゃんと付き合いたい人だと、どうしても減らず口がでてくる。でも、口当たりのいいコミュニケーションに終始するような人とだったら、忙しい合間をぬってでも会いたいとは思わない。だからこの友達とは、また会うと思う。
下町
朝方は雨がふっていたけれど、雨が止むとずいぶん春めいた一日になった。
お昼ごはんを近所のお店に食べに行く。すし屋が隣に小料理屋を作っていて、そこを一度訪れてみたいと思っていたので、今日はそこに行く。狭い路地を入ったところにあって人目につきにくいせいか、昼の稼ぎ時なのに閑古鳥。でも所狭しと日本酒がおいてあって、ボトルキープもできるらしい。酒飲みの面々にはありがたいお店かも。ちなみにランチはポークピカタとサラダ、ごはんにおしんこ、お味噌汁と、きちんとしたメニューで650円也。すばらしい。三角形の錫の箸置きが可愛らしかった。これ欲しいなあ。気に入ったので、機会があれば夜に行ってみたし。ほんとにこの辺はお店のレベルが高いなあ。
住んでいる所は高級住宅地でも郊外の新興住宅地でもなくて、非常に雑多に人が住んでいる町中である。地主もいれば貧乏人もいるし、外国人もいる。一人暮らしのお年寄りも多いし、マンションが林立しているから家族連れも多くて、こどももけっこうたくさんいる。隣の町まで行くと、金融ローンやスナックのお店が多くて、ちょっと治安が悪いかんじがするけれど、こっちの町は比較的住みやすい。
わたしはこの雰囲気はきらいじゃないし、おいしいお店もたくさんあって、活気があるからいいと思う。でも友だちのリモくんは近所に住んでいるけど、この町がきらいだという。なにぶん東海地方の高級住宅街で育ったため、雑然とした町の雰囲気に神経がいらだつらしい。まあ、わたしに文句をいわれても困るんだけど、いちいち腹をたてていたら住めないって。ご本人の几帳面な性格も禍しているんだろうと同情はするけど、傍からみているかぎりは、けっこうなじんでいるから不思議だ。「住めばどこでも都です」とのたまった別の近所の知り合いは、どうやっても下町の雰囲気になじまない外見+生活スタイルだったので、人ってわからないもんだ。
Elizabeth Harperを聴く。高めの声で、ときどき声がかすれるのがいいかんじ。
一流の人間
久々の日記で、しかも衣替えです。今回からbloggerスタイルです。映画とエッセイのページは残して、あとは切り離しました。おいおい整理していくけど、当分こんなかんじでやっていきます。
さて、昨日まで猛烈に忙しかった。でもいろんな人と出会えて、たくさん刺激をうけることができて、セッティングにずいぶん時間は割かれたけれどやってよかったなと思っている。そのなかで、ほんとうにかっこいい一流の人ってこういう人のことなんだろうなあと思うくらい、魅力ある中年男性にお会いした。とにかく頭がよくて、知識の量とそれを総合する能力、しかもわかりやすく語ることができる能力をもっている。それに色気があって、これは女性のみならず男性もかなりまいるのではないか。日本や世界の情勢をあそこまで展望予測できたら、ペシミスティックにならざるをえないのだけれど、それでもなお「まだ何かあるかもしれない」と数パーセントの未知の要素に期待をかけることができる。強靭な思考力と精神力をお持ちの方だった。
思うに、ものすごい能力を持った人って台風の目みたいなかんじで、まわりの人間は風に巻き込まれると無傷ではすまなくなる。でも、本人のいる位置は決して無風状態ではなくて、きっと人の数倍きつい人生を送ってきたんだろうなと思わせる。自殺したり精神病になったりする思想家はたくさんいるし、お会いした人も、そうはなってはいないけれど、きっとこの種の人間なんだろうなと思った。
こういう出会いが自分のなかにどういう影響を及ぼしてくるのかまだ分からないけど、印象が強烈なだけに、当分は影響されっぱなしになるかもしれない。でも、そのうち冷静に評価できるようになってくるだろう。その人に近づきたいとか、そういう思いはないけれど、ただ自分なりにでいいから、自分の生すべての面でもっと密度の濃い時間をもちたいと思う。魅力って一朝一夕で作られるものではないということだけは確かだから。