夏です

 今日は暑くていかにも夏!な一日だった。毎年のように異常気象がささやかれるけど、やっぱり変な夏である。阪神も強いし。比較的涼しいのはいいけど、買った桃はびっくりするくらい不味かった。ともあれ、ここ数日は暑くてクーラーもつけっぱなし。体にもよくないのは分かっているけど、クーラーないと茹だってしまいそう。でも暑いと、お風呂上りのかき氷がおいしい。ついでに今日は、一時期関西で売れたサンガリア「みっくちゅじゅーちゅ」のアイスキャンディーを食べた。たしかにミックスジュース味だけど、微妙に初めて食べる食感だった。

狂おしい愛

 ドストエフスキーの『虐げられた人びと』を読んでいる途中。これは(これも)おもしろい。いくつか読んでみると見えてくるのだが、激しい恋愛感情に身を委ねる登場人物たちは、ドストエフスキー独特のパターンなのだなと思う。この本でもナターシャとアリョーシャという恋人同士がでてくる。ナターシャの狂おしい愛を、「前後の見境もなく愛することの快楽を、そして愛する人間を愛するがゆえに苦しめることの快楽を、ナターシャはすでに味わっていた」などと、少々シニックに表現されると、ああうまいなあと思ってしまう。読むのが遅いわたしにしては、いつになく早く読み終わるかも(?)。

夏至

La Verticale Del
2000年 仏・越南
監督:トラン・アン・ユン
出演:トラン・ヌー・イェン・ケー
   グエン・ニュー・クイン


 母の命日に三人姉妹が集まって、母の初恋について語る。父と相思相愛だとばかり思われていた母は、晩年ぼけて、父とは別の男の名前を呼んだのだという。誰の人生にもあるであろう些細なエピソードだが、母に関わる人々にとっては、さざなみのように静かに波紋を投げかけてくるものだったのかもしれない。
 映画はその後、三人姉妹それぞれの愛の在り方について淡々と映していく。夫との仲がうまくいかず不倫をつづける長女、妊娠中に信頼していた夫との関係に蔭りがさしてしまう次女、恋人よりも兄を慕っているらしい(?)末娘――ちょっとしたズレが波紋となって広がっていき、いつか不協和音を奏でてしまいそうな、そうした危うさと憂いを漂わせている。
 ただ、全体の印象はそう淡々としたものでもない。とくに毎朝ルー・リードの音楽で起き、寺院の鐘の鳴る中、ストレッチをしたりはしゃいだりする末娘と兄の日常生活など、舞台は香港でも東京でもいいよねというかんじでとにかく無国籍的。ヴェトナムの街中の風景もカフェでの食事もとってもオシャレなイメージで、それこそ女性誌でさんざん振りまかれる「オリエンタルなヴェトナム」そのまんま。
 なんというか、ストーリーは決して悪いとは思わないんだけど(おもしろくもないけど)、小津にオシャレエッセンスをふりかけたみたいで、全体的にちぐはぐな印象を受けた。あんまりなんも考えずに、美しいヴェトナムの風景やファッションやインテリアをぼーと見ているだけでいいかもしれない。日本の都会の夏は殺人的な暑さだけど、映画のヴェトナムは風が吹き抜けていて涼しそうだなあとか、ツヤのある黒髪ストレートをもう一度見直そうとか、明日の朝はルー・リードで目覚めてみようとか、製作者の意図がこんなところにあるとは思わないけど、これでいいじゃんもう、と感想にもならない感想しかでてこないのでした。
(29.jul.2003)

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プリンセス

 「夏至」をみたのだが、忙しくてまともに文章がかけません。ま、あまりコメントすることもないのだが・・・とりあえず、ルー・リードはもういちど聴きたくなる。
 若桑みどりさんの『お姫様とジェンダー』(ちくま新書)を読む。読みやすいので一気読み。王子様を待ってるだけのお姫様なんて、今時ギャグにしかならないのでは?という気もするが、世のなかにプリンセス物が再生産されているのも確かで、やっぱり根深いものがあるのだろう。待ってるだけのお姫様をむかえにきてくれる王子様が年をとると、某国の暴言吐きの政治家みたくなる可能性も高い、とか思わせられた。
 シンデレラや白雪姫や眠り姫を霞ませるくらいの、かっこいいお姫様ストーリーはないものか。

クリムト展

そういえば、神戸県立美術館で「クリムト展」が開催されているのであった。クリムト、単発でみることはあっても、まとまって展示されているのはみたことがない。見たいなー。しかし超有名所ゆえに一抹の不安が・・・。新春の「大レンブラント展」みたく、すし詰めの気配が漂っている・・・。

草むしり

 ここ数日怒涛の忙しさ。やっと山は越えたか、急いで映画情報をチェックすると、やっぱりヘルツォークの「神に選ばれし無敵の男」は終わっていた。まあまだやってるとは期待してなかったけどさー。次は何をみればいいのか、、、「コンフェッション」? それとも地道にビデオでも見るか。少々ウラシマタロウ入ってます。
 ともあれ、「ソラリス」にはみなさん、お付き合いいただきありがとうございました。こうまで話が盛り上がったのは、ソダーバーグのおかげですね。でもソダーバーグがこうまで注目あびたのは、タルコフスキーとレムのおかげなのでしょう。あらためて巨匠の名にふさわしいと思いましたわ。
 今日は久々に家の掃除をした。ほったらかしにしていた路地の草むしりに、ほこりのたまりまくった勝手口あたりの掃除。雑草は紙袋に三杯分もあった。こまめに掃除しないといけないと頭では分かっているのだが、あれよあれよといううちに手がつけられなくなっちゃって。でも結果がすぐに目に見えるから、掃除は好き(←じゃあもっとマメにしろ!)

ソダーバーグ版「ソラリス」、まだまだ続く!?

↓でまたもやコメントがたくさんついたので、もういっぺんこっちに移動します。(しかしもうそろそろネタは尽きるか?)
nozakiさん
>あの女優さん、リアルじゃない美しさでした。この点が二つの映画の根本的な、決定的な違い。
ここで明暗が分かれましたか〜。ソダーバーグ版の〈レイア〉はきっと人間臭いのですよ。恋愛中心ならあの〈レイア〉でもわたしは許せますね。でも蘇生のシーンは、絶対タルコフスキー版だなあ。
>最近『ノスタルジア』を久しぶりに見ましたが、この映画に出ているイタリアの女優さんもただならぬ美しさだと再認識しました。
なんとなく覚えているよーな、、、ルネサンスの絵画にでてくるみたな人でしたっけ。パンフをもう一度出してこよう。「ノスタルジア」の主人公は、わたしにとっては、インテリ・エグザイル・ロシア人の原型です。「鏡」の母の、あの物憂い眼差しも忘れがたいです。
sowさん
>「現代のCGを使って、タルコフスキー版ソラリスを再現してみました」じゃあ面白くないと思ってしまうんですよねー。
あのソラリスは映像的にどうでしょう? わたしは正直、印象に残りませんでした。ストーリーにおけるソラリスの位置づけの低さも関わってるかも。
>オタッキーというのは、全体的に見て「微妙に震えてる人」ではないでしょうか。多分それならスノーですね。
「微妙に震えている人」・・・た、たしかに。nozakiさんがお気に召さなかった人は絶対スノーですよ。スナウト→スノー。重要な役だと思うんだけど、入れ替わっているという時点で、「はぁ?」てなりましたわ。

ソダーバーグ版「ソラリス」のつづき!

 ↓でsowさんとのトークが長くなってきたので、こっちに移動します。ソダーバーグ版「ソラリス」について、あーだこーだと話が続いております。
 クリスとレイアの愛の関係にはソラリスの意味が希薄ではないのか、というわたしの意見に対して、sowさんは、二人の愛に焦点があたっている以上、ソラリスはあれでいいのではないか、というご意見でしたね。
 ついでに?sowさんバージョンの「ソラリス」を提案してくださいましたが、あれはソラリス視点ですね。ユニークな視点だと思います。作るの難しそうだけど。でも映画最後の謎めいた終わり方に対しては、ひとつの解釈になっているなあと思いました。
 たぶん、ソラリスの存在意味が希薄なのは、クリスの描き方に関係しているような気もします。彼はレイアとの関係をもう一度強いられるわけですが、どうもそこに没頭してしまったという感があります。むしろ、そのもう一歩先に、それを通じて、ソラリスとの対峙という側面が描かれていたらなあというところでしょうか。
 ・・・これって、タルコフスキー版にひきずられた解釈かなあ。

レム

 ↓にソダーバーグの「ソラリス」のレヴュー書きました(←cinemathekに移動)。いわゆるネタばれというやつなので、未見の方はご注意を。
 今日レムの『ソラリスの陽のもとに』を入手。ワクワク。しかし当分読むのは自粛です。嗚呼。

ソラリス

solaris
2002年 米
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
出演:ジョージ・クルーニー
ナターシャ・マケルホーン
ジェレミー・デイヴィス


 ソダーバーグが「ソラリス」を作っているという情報を聞いたとき、タルコフスキーの「ソラリス」があるのにソダーバーグはチャレンジャーだなあと思った。ともあれ、やっとソダーバーグ版ソラリスをみた。以下のコメントは、タルコフスキー版ソラリスを意識したうえで書いている。
 ソダーバーグの映画の特徴は、なによりもクリス・ケルヴィン(ジョージ・クルーニー)とレイア(ナターシャ・マケルホーン)の関係に焦点があたっていることだろう。ソラリス上空の宇宙コロニーのなかで、〈レイア〉がクリスの記憶のなかから蘇るわけだが、彼と彼女の間に過去に何があったかが丹念に描かれている。この点に焦点をしぼったことで、この映画は単なる二番煎じには終わっていないと評価できるだろう。
 ただ、気になったことはいくつかある。まずこの映画では、ソラリスの位置づけが「何か不気味なもの」以上のものではなかったことだ。タルコフスキーの映画では、ソラリスは「謎を投げかけるもの」だった。ソラリスという「謎」を通して、「われわれとは何か」「人類とは何か」という人間性の根源に問いかける眼差しが、あの映画にはあった。だからこそ、科学者たちはソラリスと接触したがゆえに自己の内面へと直接向き合うことを強いられ、ギバリャンは自殺し、スナウトは鬱屈に陥り、サルトリウスは人間の科学的合理性にしがみつこうとしたのだろう。
 けれども、ソダーバーグの場合、ソラリスは人間に脅威を与える客体の域を越えてはいない。ジバリアン(ウルリッヒ・トゥクール)は自殺してしまうが、息子が地球上に実際に生きているのであれば、目の前の「息子」は「不気味なもの」でしかないわけで、自殺の意味がよく分からない。ゴードン(ヴィオラ・ディヴィス)は理性と科学的合理性にしたがって振舞いつづけ、その態度からは内的な苦悩の片鱗すら見えてこなかった。スノー(ジェレミー・ディヴィス)にいたってはどうしようもない小細工がなされていて、これではソラリスと人類の接触も、エイリアンとの遭遇と大差ないように思った。
 それゆえ、見所はクリスとレイアの関係に絞られるわけだが、これに関しては先にも述べたように、評価したいと思う。セリフによる説明が多くて、タルコフスキー版のあの寡黙さから生まれる神秘性のようなものはなかったが、かえって生身の人間臭さを感じさせられた。
 ただ、わたしは正直、ふたりの関係をずっと追っていくのが辛かった。クリスにとっては、数年前に自殺した妻が目の前に肉体と肉声をもって蘇るわけである。失ったはずの最愛の人を前にして、はたして人は冷静でいられるものなのか。クリスは冷静ではいられなかった。彼は自分の使命もすべて忘れて、〈レイア〉に執着する。〈レイア〉は〈レイア〉で、今の自分がクリスの記憶のなかにある「レイア」のコピーでしかなく、本来あったはずの自己とのズレに苦しみ、自らの意志で自己を消滅させることを選ぶ。ところがクリスは、〈レイア〉の選択を頭では理解しても、もういちど彼女なしの人生を生きることができない。その無意味さと空虚さを前に、クリスもまた一つの選択をするのである。
 自分にとってかけがえのない人を失った場合、人は残りの人生を、愛する人の「不在」と折り合いをつけながら生きていくしかない。それがどれほど空虚な時間であろうとも、時間を巻戻すことができない以上、諦念や忘却や反芻によって、自分に死が訪れるまでの時を耐えていくのだろう。ところがソラリスと接触した者は、その心に刻印された傷を、きわめて残酷な形で突きつけられてしまう。ソラリスがなぜそのようなことをするのか、という次元での問いかけが希薄なために、引き起こされた事態の残酷さだけが目立ってしまう。
 タルコフスキー版においては、クリスが〈ハリー〉に対して取った行動は、「贖罪」という意味合いを強く帯びていたように思う。それゆえに、どこかしら「救い」や「解放」の雰囲気があった(少なくともわたしはそう解釈している)。ところがソダーバーグ版では、クリスの〈レイア〉に対する態度からは、人間のもっとも弱い部分が剥きだしにされたときの耐え難さ、またそこから来る痛みを、より強く感じとってしまった。わたしにとってこの愛の形は、どこか閉鎖的でどうしようもなく「耐え難い」――そう思わざるをえなかった。
(Saturday, July 05, 2003)
オマケ
この映画を観た人たちとの会話です。
その一
その二
その三

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