吸血鬼ノスフェラトゥ

1922年 独
監督:F.W.ムルナウ
出演:マックス・シュレック
アレクサンダー・グラナック
グスタフ・フォン・ワンゲンハイム


 ドイツ表現主義の映画といえば、F・ラングとともにムルナウが並び称される。ヴァンパイアやフランケンシュタインを扱った映画はすごく多いけど、この映画はその原典といったところだろうか。
 「カリガリ博士」の場合、あの歪んだセットによって独特の不気味さを醸し出しているとすれば、ムルナウのこの映画は、ドイツの町並をそのまま使いながら、ノスフェラトゥの恐怖を描き出すのに成功している。ノスフェラトゥが運んだペストによって、ブレーメンの人々がバタバタと死んでいき、いくつもの死者の棺おけを担いだ黒衣の人々が、坂の上から何人も下りてくるシーンなど、なかなか印象的だった。
 吸血鬼をはじめ怪物を扱ったその後の映画は、どちらかというと、怪物をかなり人間臭く描くようになっている。ところがこの古典映画では、怪物は怪物のままに、その不気味さをこれでもかといわんばかりに表現してくる。映画的表現も、音声がなく、今の映画みたいにめまぐるしく画面展開したりするわけではないから、ノスフェラトゥの姿が入り口にじーと張り付いていたりすると、画面から妖気が漂ってくるような気配になっているのですよ。あれを感情移入できるような対象として見るのは無理だと思う。人ならぬものの不気味さをこうも描けるというのは、なかなかの力量なんだろうなあ。脇を固める登場人物もしっかり描かれているし、物語としても十分おもしろいと思った。
 でも、トランシルヴァニアからドイツのブレーメンに引越してくるのに、わざわざ不動産屋を呼びつけて契約したり(妙に律儀)、自分の棺おけを自分でかついでドイツまで密航していったり(せこい)、いつも肩に棺おけを抱えて一人で移動したり(いちおう「伯爵」なんだからもう少しお供を連れてくるとかさー)、見ていて「?」「?」となるシチュエーションも多かった。ちょっと笑えた。
 もうあんまり覚えてないんだけど、ピーター・カッシングの出てくるドラキュラ映画にハマった記憶がある。あの映画よりもこれは古いんだよねー。怪物のなかでもドラキュラはカッコイイ系ではないかと思うんだけど、その意味では「ノスフェラトゥ」はルーツではないかもしれない(だって壁にはりついてじーとこっち見てるんだもん、、、)。
(23,jun,2003)
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表現主義

 サントリーミュージアムに「ドイツ表現主義の芸術」を観にいく。「カリガリ博士」と「吸血鬼ノスフェラトゥ」も上映されるので、これは絶対観たかった。「カリガリ」はすでに何度かみていたけど、ムルナウの映画は初めてなので、すごく楽しみだった。映画のコメントはまた別にまわします。
 さて、展覧会ではドイツ20世紀初頭から第一次世界大戦前後に現れた芸術運動ということで「表現主義Expressionismus」が取り上げられ、「ブリュッケ」「青騎士」「都市の絵画」と三点に分けて展示がなされていた。表現主義といわれても、どのあたりの芸術運動をどこまでそう呼んでいいのか、これまでよく分からなかったのだが、今回は分かりやすく整理してくれていたので、収穫ある展覧会だったように思う。
 まずおもしろかったのは、表現主義の表現が1913年頃には様式の点では頂点に達していたということ。造形芸術から始まって、文学・演劇・舞踏・舞台美術に広がり、最後に映画・建築と波及していったらしい。「カリガリ」や「ノスフェラトゥ」といった表現主義的映画の最高峰は、他のジャンルからすると、10年前後遅れて頂点を迎えたことになる。
 ドレスデンからベルリンに移動するなかで展開された「ブリュッケ」には、キルヒナー、シュミット=ロットルフ、ペヒシュタイン、ミュラー、それからノルデ、ロルフスの諸作品が収められている。ミュンヒェンを中心にした「青騎士」には、カンディンスキー、マルクを筆頭に、ヤウレンスキー、ミュンター、ヴェレフキン、マッケ、モーグナーの諸作品。それぞれの作品の共通項を見つけることは難しいけれど、公分母としては、描く対象を通して、自己の内面と向き合う側面が強いといえるだろう。もっといえば、「生」そのものという根源的なるもののがどこかに在ると考えられていて、芸術表現によってそれを探求するのだという意志がひしひしと伝わってくる。
 根源的な「生」を求めていく背景には、当然、近代人、近代社会、近代的文化の在り方全てに対するプロテストがあるわけで、20世紀初頭のドイツの精神状況をよく現しているのだと思う。ただ、こういう二項対立的な把握に、わたし自身が納得し共感できるかというと、少し難しい。距離をおいて眺めているかんじだ。
 一番突っ走っているのは、やはりカンディンスキーだと思う。「生」そのものは何か善いものとして描かれがちなのだけれど、カンディンスキーの抽象は、そうした価値評価すら許さないようなものがある。人間の根源というものを描いたとするならば、彼の絵にこそ、それは当てはまるのではないか。ほかに印象に残っているのは、ノルデの作品だ。生や自然の混沌としたものを描いて、色彩に惹きつけられた。
 それから、時代的な区分で分けて、第一次大戦後に展開された諸々の作品――ベックマン、グロッス、ファイニンガー、グライヒマン――が紹介されていた。ダダもこの時期にかぶってくるが、表現主義の戦後の流れは、ダダからの攻撃が終わったあとに見えてくるということらしい。「新即物主義」とカテゴライズされる流れである。戦前にはあった「生」への探求や憧景は後退し、都市の猥雑さ、社会の狂気を描く方向へと変わっていく。とはいっても、たしかにグロッスやグライヒマンはその傾向が強いけれど、ベックマンやファイニンガーはまた別の方向に進んでいるように思えた。
 絵画と作家たちの人生を通じて見えてくるのは、間接的ではあるけれど、第一次世界大戦とナチズムが与えた衝撃の大きさだ。戦死、亡命、自殺と続く作家たちの末路が、時代の重苦しさを物語っている。
 
 ともあれ、今回の展覧会は、遅くにいったせいもあるけど、空いていてゆっくり観られたので満足しています。内容的にもおもしろかったしね。

風呂

 最近、半身浴に凝っている。
 最初に始めたときはなかなか汗が出てこなかったけど、今ではあっという間に汗が出てくるようになった。
 湯船に水と本・雑誌をもちこんでいる。読んだ本は、今のところ全部、村上春樹の本。ドボンしてもいーや、ということで選択したのね。でも、村上サンの、軽いんだか神妙なんだか分からん文体は、湯船につかりながら読むにはもってこいです。
 本はもっとふにゃ〜てなるかと思ったけど、意外と大丈夫。雑誌類はさすがにへにょ〜てなっているけど。ただ問題がいろいろあって、まずお風呂の照明が本を読むには暗すぎる点。それから、裸眼では字が読めないのでメガネをかけて入ると、当然曇ってしまってうっとおしい点。コンタクトをはめて入ったりするんだけど、これもまた面倒くさい。なんかいい方法がないものだろうか。
 In letzter Zeit schwärme ich für das Halbkölperbad.
 Am Anfang konnte ich nicht einfach schwitzen, aber jetzt kann ich in einem Augenblick in Schweiss gebadet sein.
 Ich nehme ein Glass Wasser, Bücher und Zeitschriften ins Bad mit. Die gelesende Bücher sind alles Murakami Haruki, weil das mir nichts macht aus, auch wenn ich diese Bücher ins Bad falle. Aber es ist bequem, dass ich seine Bücher im Bad lese, weil seine Ausdrucksweise leicht und mild ist.
 Nur habe ich einige Probleme. Im Badraum ist es zu dunkel, Bücher zu lesen. Und dann, ohne Brille kann ich nichts lesen, aber mit Brille auch nichts lesen, natürlich im Bad. Mit Kontaktlinsen bade ich, aber es ist auch lästig.
Hätte ich eine gute Weise eingefallt!

甘味・炙りもち

 京都みやげに、甘春堂の「炙りもち」を買った。細い竹串にさした小さなお餅にキナコがまぶしてあって、京風白味噌の甘タレにつけながらいだたく一品。なかなか濃厚な味わい。しかもデザインが変わっていて、おもしろい。
 昔のこどものおやつみたいで、なんとなく和みます。駄菓子屋さんで売ってるようなおやつ。でもこどもの頃、駄菓子屋で買い食いするという行動をほとんど取らなかったので、どこからこのイメージはつくりだされているのかしらん。
 昨日はリドリー・スコットの「ナチュラル・ボーン・キラーズ」を観た。タイトルに惹かれて選んだ。なかなかおもしろかったので、またきちんと文章にしてみたい。
 In Kyoto kaufte ich in einem Laden ‘Kan-Shun-Do’ ein japanisches Konfekt ‘Aburi-mochi’. Das Konfekt spiessen Mochi mit Bambusspiess auf, und mit sußer Miso gegessen wird. Das schmeckt stark und gut. Ich erinnere mich an der billiges Konfekts des Kindes, der Kinder in kleinem Laden kaufen.
 Gestern sah ich den Film ‘Natural Born Killers’ von Ridley Scott. Der Titel faszinierte mich. Das fand ich interessant, so habe ich vor, eine Kommentar zu machen.

混雑

 京都国立美術館に「大レンブラント展」を見に行ってきました。久しぶりの美術館、ということでウキウキしてたけど、気分がなえてしまうような結果になってしまった。
 まず腹ごしらえに、とあるうどん屋さんでランチをとった。人が多くて繁盛しているから、さぞかし美味しいんだろうと期待していたんだけど、こんなショボい定食最近みないわねっていうような代物がでてきた。トンカツは冷えてるし、肝心のうどんの汁は冷めまくり、うどんものびてコシも何もなし。しかも店員がつまずいて、うどんの汁を半分床にこぼしたのに、謝りもせず、もちろんうどんもとりかえず、そのまま置いていった。呆れて物がいえません状態。観光地にありがちな客をナメた店でした。
 気をとりなおして美術館に向かう。「待ち時間」の表示の札をみつけて、なんかヤ〜な予感が。待たずに入れたけど、入り口からものすごい人ゴミ。そのまま出口まで押し出されてしまった。
 なんかもう、レンブラント見にきたってかんじじゃないね。わたしの好きな美術館のあの独特の空間なんて、あったもんじゃなかったです。だからもうレンブラントの感想もほとんどない。だいたい「大レンブラント」って何だよ。小レンブラントでもいるのか?  しかも肖像画がほとんどで、正直飽きた。肖像画って、絵画としてはあまりおもしろい物ではないと思う。17世紀のオランダなんて世界制覇して調子づいている時期だし、レンブラントってなんだかとってもバブリーな画家よね。
 くさしてばかりなのも何なので、いくつかおもしろい作品をメモっておこう。とくに、額縁のなかに額縁とカーテンの絵をだまし絵的に描いて、そのなかに聖家族をのぞかせている作品とか、解剖学の授業風景を描いたものとか、聖書を題材にしたあたりの作品はよかった(よーするに肖像画以外)。黒い服に映える繊細なレースと人間を解剖する科学の目が並存していて、うーん17世紀だね!と思いました。
 とにかく照明は暗いし、警備員はいっぱいいるし、すごい有名な作品がきているわけでもないのにこの物々しさ。しかもこの集客力。死んでから300年以上たってるだろうに、エラすぎますレンブラント先生。先生の絵を眺めていた一人のオバさまは、「オランダ人のお肌ってキレイネ〜」とのたまってました。でもそれってなんか違いますよね? センセの技量のたまものですよね?
 あんまり物足りなかったので、常設展をみた。和同開珎とか埴輪とか壷とか茶器とか観音像とか水墨画とか。いやこの常設展おもしろかった。国宝級のものがズラズラあって、餅は餅屋というべきでしょうか。あー疲れた。
 Ich gehe ins Kyoto National Museum, wo die Ausstellung “Rembrandt” findet statt. Wenn ich viele Luete schon im Eingang finde, fühle ich mich lahm. Vom Eingang bis zum Ausgang werde ich von der Masse Leute mitgerissen. Deshalb kann ich leider nicht genug die Gemälde sehen.
 Im Museum stellen viele Porträten aus, aber ich werde müde und langweilig infolge der lange linie der Porträten (und Leute). Doch einige Gemäldes finde ich sehr interessant. Zum Beispiel, es gibt eine Malerei, dass Rembrandt die heilige Familie mit illusionistische Effekte malt. Und eine Malerei, dass er eine anatomische Szene malt. Zarte Zpitze an Ärmeln und am Hals und wissenschaftlicher realistischer Blick koexistieren, das gerade der 17Jahrhunderte Geist ist, so denke ich.
 Nun, heute bin ich sehr müde, so fertig mache.

買物

買ったものの列挙。
赤・黒・濃紺のペン、シャープペンシルの赤色の芯、スティックのり、カッターの刃、修正ペン、それから携帯ポーチ付マウス。前に買った黒のスケルトン・マウスはマジックで塗りつぶして使っていたけど、やっぱり気に入らないので買い換えました。直径5cmくらいの超ミニサイズのマウス。使い勝手は・・・ま、そのうち慣れるでしょう。ポーチ付がうれしいのです。
the sea and cakeのone bedroomと、badly drawn boyのhave you fed the fish?の2枚のレコード。それにドストエフスキー『地下室の手記』。
髪を切りに行く。ほんとは年末に行きたかったけど、無理だった。年明けの今日から美容室が開いたので、さっそく行ってきた。整えてもらっただけなのだが、襟元がすっきりして頭と気分が軽い。
Auflistung meines Einkaufs:
rote/schwarze/dunkelblaue Fuellers, rote Miene einer Druckbleistift, Klebstoff, Ersatzklinge eines Schneidemesser, Korrekturflussigkeit und optische Maus mit kleiner Tasche.
zwei CDs: the sea and cake “one bedroom” und badly drawn boy “have you fed the fish?”
und ein Buch: Dostojewski “Aufzeichnungen aus dem Kellerloch”
Heute aendere ich meine Frisur. Meine Haare wird ein bissschen kurz, so fuehle ich mich gut!

草茶

 orange zingerのハーブティを飲みながら、日記を書いている。年末のストレスフルな生活のため、ハーブティをひたすら飲んでいたけれど、甘みが柔らかくておいしいので今だに飲んでいる。
 zingerってなんだろう?とずっと思っていて、辞書で調べたら、人をハッとさせたり即妙な文句をいったりすることらしい。ピリッと元気にさせるお茶ってことなのかな。スパイシーというほどのものでもないのだけれど。
 年明け早々、サイトの方向をどうしようかなあと考えていて、いい機会なので半分ドイツ語で書いてみようかなと思っている。まあ続くかどうかは分からないし、試みにやってみようというかんじです。
 ネットの世界での英語の席巻力を思えば、ドイツ語って読者の範囲を限定してしまうから、英語にすべきか迷うところだ。とはいっても、自分の勉強のために書いてみるということなので、あまり深く考えず無理せずやっていこう。わたしの語学力はとてもたいしたことなくて、かなり恥ずかしいことになるかもしれないなーと思いつつ、まあ「一年の計は元旦にあり」みたいな格言もあることだしと自分を納得させている(←これは「物事を始めるには計画が重要」という意味であって、元旦に何か始めるという意味ではないかも・・・ま、いっか)。
 Ich heisse kiryn. Bis heute versuche ich ins Tagebuch halb auf Japanisch und halb auf Deutsch zu schreiben. Diese Arbeit mache ich in meinem eigenen Tempo, weiterhin zu schreiben.
 Ich mag Tee trinken. Jetzt trinke ich Orange Zinger Tee. Ich weiss nicht, was “Zinger” bedeutet. Raspberry Zinger, Apple Zinger…usw. Ein Woerterbuch besagt, Zinger heisst “geistreiche Bemerkung” oder “lebenssprühende Person”. So, Zinger Tee heisst, die macht man frisch und lebendig, oder nicht?
 Kraeutertee riecht gut und suess, so trinke ich oftmal diese Tee, wenn ich vor meinem Computer sitze und etwas denke, oder Buch lese.

初雪

 初雪が降っている。昨日は一日中雨で、ずいぶん冷え込んだせいか、今朝の空気の冷たさはびっくりするほどだった。12月末はずっとあたたかかったので、この寒さに冬をあらためて思い出したりしている。
 年末からひたすらアルコールを摂っている。それまでは極端にアルコールを避けていたので反動がきているみたいだ。おせち料理はおいしいけれど、胃もたれをおこしそうなものが多いので、さっそく食傷気味である。おかゆとか食べたい気分。でも今日はうちで新年会をする予定なので、買出しに行かねば。

新年

 2003年です。去年は身辺の変化もあったし、仕事で忙しいときもあって、日記を書くペースは徐々に落ちてきた。ただ、サイト自体を映画評に重点を移して、映画をただ観ぱなっしにするのではなく、言語化するための場所にしようと思った。ある程度成功したとは思うけど、かなりそっけないサイトになってきたかもしれない。
 何を求めてネット上に文章を書き綴っているのか、あいかわらず試行錯誤している。自分のサイトは、星の数ほどあるサイトのなかの一つでしかなく、映画評に限ったとしても、やっぱり山ほどサイトがあるうちの一つでしかない。時間を割いて書きつづった文章も、日々消費されて履き捨てられるだけの「情報」でしかないのではないかと思うときがある。まあ冷静な目でみれば、そう認めざるをえないのだけれど、わたし自身は、「情報」を提供したくてネット上に文章を書いているわけではない。
 サイトを継続しているひとつの理由は、日常生活のなかで埋没してしまいがちな「わたし」を、わたし自身が自分のなかに繋ぎ止めておきたいという欲求があることだろう。肩書きとか属性とか身分とか、そういうのが一切関係ないところの「わたし」ですね。
 もうひとつは、誰かとコミュニケーションしたいという欲求かな。「わたし」と向き合っているだけでは、考え方がなかなか変わらないということは多いし、人と話をするのが基本的には好き、というのもある。ただそれでも、子どもの頃からある引っ込み思案な性格もやっぱり残っていて、通気性がそういいわけでもないんだけど。
 サイトの開放性という点では落第点かもしれないけど、今年もぼちぼち続けていこうと思っています。どうぞよろしく。

ウェイキング・ライフ

Waking Life
2001年 米
監督:リチャード・リンクレイター
出演:ワイリー・ウィギンズ
イーサン・ホーク
ジュリー・デルピー


 実写の映像をデジタル・ペインティングでさらに加工するという手法は、とりあえずスゴイ。たとえそれを思いついたとしても、金と手間と時間を考えたら、誰がそんなシンドイことするんだ?って思うようなことをやっている。実写でもなくアニメでもなく、しかもずっとユラユラ揺れていて、すごく不思議な映像だ。トリップ系の映像です。しかもストーリーがほとんどないに等しいので、催眠効果はばっちし。
 というわけで、映像のおもしろさはホメておきましょう。さて肝心のストーリーですが、主人公(ウィギンズ)が夢から醒めると、突然まわりの人たちが哲学を語りだすというもの。このあらすじを読んだときは「おもしろそう」と期待したのだが、実際にみたらちょっと冷や汗モノだった。なんとゆーか、『ソフィーの世界』の『STUDIO VOICE』バージョンてかんじで、かなりヤバいです。
 でてくる登場人物が深淵な哲学なり思想なりを語ってくれるのだが、これが延々続いてシャワーのように浴びせかけられる。深みのあるはずの内容が、全体としてみるとなんだかほとんど表面的な記号にしかなっていなくて、とてもじゃないけど、考えるための映画ではない。映像がトリップ系だから感覚の映画と割り切ればいいんだろうけど、それにしても、思想のカタログをぶちまけてるだけで、ユーモアもセンスもウィットも感じられない。堅すぎ。今もやってるのかしらんけど、『STUDIO VOICE』の見開きページによくあった系統樹を思い出しました。
 なんでこれが「2001年〜」と「並び」称されるんだ? 並んでないっしょ別に。映像だけ並んでもしょうがないと思うんだけど。キューブリックの教養に裏打ちされたハッタリやスカシっぷりには、ぜんぜん及んでないじゃん。だいたいこの映画みて、マジで「人間とは何か」みたいな重いテーマを考えさせられる人っているのか?(Wednesday, Jan, 01, 2003)
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