紅葉狩りをかねて奈良の信貴山にハイキングに行く。
ハイキングといっても、さすがに運動靴は履いているものの、街中を歩く格好と変わりないくらいの軽装で、山中で出会う人たちの服装とはなんか違っていて、まるで間違って迷い込んだ人みたい。それにわたしはアウトドアの経験値がかぎりなく低い人間なので、「イノブタに注意!」とか「落石注意!」とか書いてある看板に出くわすと、いちいちビビって心臓にわるい。イノブタって何?イノシシのこと?注意しろって言われてもどう注意したらええのん?だいたいイノシシならともかく熊とか出たらどうしよう、といった(多分どーでもいい)思考のループから抜け出せなくなる。それでも山は空気も澄んできれいだし、山あいに黄色・緑・赤が入り混じる秋の風景を見ているときだけは、デトックスでロハスな休日を満喫するワタクシになる。あとは日ごろの運動不足がたたって、ひたすらしんどいだけ・・・。
山を越えて、真言宗の総本山にたどりつく。この辺は車であがってきた観光客もいっぱい。お山の中は銀杏や紅葉が鮮やかだった。毘沙門天を祀っているお堂には、なんでも貴い宝玉が納められているらしく、100円払えばその宝玉のそばにまでいけるという。何の気なしにやってみたけど、これが意外におもしろい。細い階段をおりていくと通路は真っ暗で、いつまでたっても目がなれないくらいに真っ暗なまま。そこを壁の感触を頼りに進んでいくと、小さな祠があって、毘沙門天や阿弥陀如来や不動明王らの小さな仏像が祀られている。更に進むと、鍵がかかっている場所があって、そこに宝玉が納められているらしい。でも目は見えないままで、鍵と格子の感触だけで宝玉の存在を想像するという仕掛けになっていた。
お山はけっこう不思議空間で、あちこちに寅がいるのはご愛嬌。民衆信仰が色濃く現われているところがおもしろかった。
杉本博司『苔のむすまで』
杉本博司『苔のむすまで』(2005年)を読む。副題は「time exposed」。
あとがきに「自分が文章を書く人間である、などとは露ほどにも思ったことがなかった」とある。写真という表現をとってきた人が文章を書くと、こういうことを考えて写真を撮られてきたのだな、こういうふうに物を見、考える人なんだな、ということが伝わってきて、すごくおもしろかった。芸術的な感性と理知的なものとが同居していて、写真から伝わる雰囲気がそのまま文章にも現われている。
日本の歴史や古典、骨董、仏教、能などの話をつなげながら、「日本的なるものJapantum」とでもいうべきものの真髄にユニバーサルな方法で迫ろうとしているという印象を受けた。その古層を写真を通じてあぶりだしていく方法が、歴史学や考古学や民俗学にも通底するようで、とても興味深い。タイトルからは「君が代」を連想するが、最後の章は昭和天皇の写真ではじまっている。20世紀の歴史もまた作者の眼差しの射程に入り込んでいる。
「私にとって、本当に美しいと思えるものは、時間に耐えてあるものである。時間、その容赦なく押し寄せてくる腐食の力、すべてを土に返そうとする意志。それに耐えて生き残った形と色。創造されたものは弱いものから順次、時間によって処刑されていく。〔……〕
それらのあらゆる災難を生きのびながら、永遠の時間の海を渡っていくのだ。河原の石が、上流から流れ下る間に丸く美しい形になるように、時間に磨かれたものは当初持っていた媚や主張、極彩色や誇張をそぎとられ、まるで、あたかも昔からそこにそのようにあったかのような美しいものになるのである。
しかし、その美もつかの間に過ぎない。いつか色も形も消え失せる時がくる。この世とは、あることからないことへの移り行く間だ。時おりその間で、謎解きの符牒のようにものが美しく輝くのだ。」(193−194頁)
「時間」について語る口調の、刹那と永遠を同時に見据えたような哲学的な響きに、心惹かれるものがあった。
(2006.nov.22)
ピクニック
秋晴れ、というには少々曇っていたけれど、暑くもなく寒くもない季節なので、ピクニックに行くことにする。近いところにある公園は、市内にあるせいかいつも混んでいる。電車にのって郊外の公園に行った。
ピクニックの楽しみはなんといってもお弁当。三段重ねの重箱に、炊き込みご飯で作ったおむすび・玉子焼き・即席ピクルス・ウィンナー・かぼちゃの煮物を入るだけ詰め込んだ。昨日焼いたマドレーヌとカフェオレを入れたポットをもつと、結構な重量になる。重箱って重い。でもたっぷり入るし、それに風情があるし。・・・もっと軽量の竹編みの重箱とか探してみようかな?
郊外の公園は、遠くまで見渡してもマンションの影一つ見えない。人はけっこういたけれど、それでも空間の余裕がある。池のところでは、ラジコンのヨットを浮かばせている人たちがたくさんいた。ヨットが帆をふくらませて水面に浮かんでいるのは、なかなかのんびりした光景だった。紅葉を楽しむにはまだまだ時間がかかりそうだけど、もう少し葉が色づいてきたらまた来ようかな。
秋アニメ
マドレーヌなど焼いてみる。無塩バタを使わず普通のバタで作ったので(←めんどくさがり)、微妙に塩味がするのはどうかとは思うけど、でも焼き立てはおいしいなあ(ホントです)。
この前地上波でやっていた『デスノート』をみた。原作読んでいないので、こんな話だったのかーと初めて知った。おもしろかったけど、後編はわざわざ見に行かないかもー。原作買いもなさそう。ちょっと青臭いところに苦笑、、、。
この秋ハマってしまったアニメは『ヤマトナデシコ七変化』。『ヤマナデ』のついていけるような・ついていけないようなテンションの気持ち悪さに病みつきになってしまった。清春ってだれ?ってかんじなのにー。
映画感想
部屋の模様替えなどをする。模様がえといっても、夏の日差しを避けて窓から離れていた机を窓向きに変えただけだが。でもコード類が机の裏に隠れてすっきりしたし、ちょっぴり部屋も広くなった。
前から欲しかったジュゼッペ・パトローニ・グリッフィ の『さらば美しき人』のDVDを購入。ルネサンス期のイタリアを舞台にした美しい映像を堪能しながら、夜中にちょっとずつ見ている。一気に見るのもいいのだが、すでに一回見たことがあってその悲劇的結末を知っていることもあって、ラストに向かって少しずつ堕ちていく主人公たちにゆっくり付き合いたいなあ、と思って。
あと、リドリー・スコットの『キングダム・オブ・ヘブン』も見た。こちらは十字軍物。エルサレムの町でイスラムの人々が生活しているなかを、帷子を着込んだ十字軍兵士たちが闊歩している映像とか、見ているだけで楽しい。自分で思っている以上に、わたしは世界史系歴史映画が好きかも。衣装や舞台装置をぼーっと眺めているのもいいし。
キングダム・オブ・ヘブン
kingdom of heaven
2005年、米
監督:リドリー・スコット
出演:オーランド・ブルーム
エヴァ・グリーン
ジェレミー・アイアンズ
第二回から第三回にかけての時期の十字軍を主題にとりあげ、ハリウッド的なエンターテイメント性を意識しつつも、史実的な正確さの追求と現代世界に対する政治的メッセージを織り込んだ作品に仕上がっている。
主人公バリアンはフランスの田舎で鍛冶屋をしていたが、妻と子を亡くして生きる意味を見失っている。そこに突然「父」と名乗る騎士がやってきて、エルサレムに向かう十字軍に参加せよと説く。その後バリアンは成り行きで人を殺してしまう。自分は神に見放された罪深い人間だという思いに囚われ、エルサレムに行けば神は救ってくれるのかと父に尋ねるが、父は「行けば分かる」とだけ応える――物語の導入がラノベ並のイキナリな展開で、ラノベの主人公のごとく、バリアンもその隠れた能力を徐々に発揮してものすごいヒーローぶりを発揮する。
こう書くといかにもハリウッド映画の「お約束」というかんじなのだが、主人公が陸路、海路をへてエルサレムに到着するあたりから、話が俄然おもしろくなってくる。12世紀頃のエルサレムの複雑な政治状況がしっかり描かれ、主人公もその政治に翻弄される一人の人間であることが見えてくるからだろう。
当時のエルサレムはキリスト教の王が統治する時代であったが、国家自体は末期に至っていた。対してエルサレム奪還をねらうイスラム側にはあのサラディン(ハッサン・マスード)が登場していた。エルサレム王ボードゥアン4世はイスラム教徒との和平と共存を至上命題として掲げ、キリスト教徒内部の反感や不和を押さえ込んでいたが、その死期が近づいていたこともあって、テンプル騎士団を中心とした反イスラム勢力を封じ込めることができない。一度戦争になりかけたとき、王が身を挺してサラディンと直接交渉に臨み矛を収めさせる。しかし彼が死んだあと、次のエルサレム王ギー・ド・リュジニャンはイスラムとの戦争を始めてしまい、あっというまにサラディンに敗北を喫し、エルサレム陥落の扉を開いてしまう。
主人公バリアンは、落城の危機にあるエルサレムで、民を守るためにサラディンの軍を迎え撃つべく準備を進めていた。映画のクライマックスのシーンは、このサラディンとバリアンという智将同士によるエルサレム攻防戦になる。
専門的な軍事集団である騎士がほとんどいない状態で、バリアンはエルサレムの農民たちをにわかの騎士にしたてるために説得し、勇気を奮いたたせ、そのうえでイスラム軍を迎え撃つべく様々な軍事的工夫をこらしていた。多勢に無勢のなかで、皆殺しという最悪の結果を避け、住民の自由と安全を保障したうえでエルサレムを明け渡すことをサラディンに承諾させるという明確な目的をもっての陣頭指揮である。
何より中世の戦争があますことなく映像化されていて、これだけでも見る価値がある。イスラム兵は巨大な投石器から繰り出す石で城壁をくだきながら、徐々に城壁に近づいて、橋を城壁にかけて城内に押し入ろうとする。その上にエルサレム側は、何万本と矢を放ち、城壁をのぼってくる敵兵に油を注いでは火を放つ。打ち砕かれた城壁のはざまで、両軍の歩兵たちが血みどろの白兵戦を繰り広げて激しい攻防を続ける。どれほどの人間の肉体が直接的に損傷されることで勝敗を決していたのか、とにかく圧巻の場面である。最後、サラディンを交渉の場をひきだしたバリアンは、のぞみどおり、住民の安全な脱出という条件を勝ち取る。残酷なシーンが続くけれども、同時に、戦う者が互いに敬意と礼節を守ることもまた重視されたことが分かる。
バリアンにしろ、サラディンにしろ、多くの人間を翻弄して止まない「エルサレム」に関わることで、政治と宗教が激しく交錯する地点に立たされると同時に、それを俯瞰する視点をも持ち合わせている。人間は相変わらず「エルサレム」に翻弄され続けており、十字軍がはるか過去の出来事になった今でも、十字軍のイメージだけは敵対する陣営に都合のいいように利用されている。そうした昨今の事情を考えるならば、この映画がキリスト教・イスラムのどちらかに偏らずに製作を試みた姿勢は、評価されてよいものだと思う。
(01.nov.2006)
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プライス・コレクション 若冲と江戸絵画展
まだ紅葉の季節には早いけれど、秋の京都に遊びに行った。目的は京都国立近代美術館で開催されている「プライス・コレクション 若冲と江戸絵画展」を見に行くこと。東京の方でやっているなあ、おもしろそうだなあと思っていたので、今回は絶対見に行こうと決めていた(最近、絶対行く!と決めないと腰が上がらなくなってきたので・・・)。予想どおり混んでいたから、じっくり見ることはできなかったし、なんとなく気疲れしてしまったけど、展覧会はおもしろかった。
ただ、おもしろかったといっても、若冲どころか琳派についてもほとんど知識がない上で見ているので、専門的な見方はできない。そのうえで、印象に残ったことをメモっておく。
まずなにより、ヨーロッパの博物学の流れと共通するものがあるのではないかという印象を強く受けた。というのも、虎の毛並みや鶏や鶴など鳥類の羽の模様など、細部の描写に執念を感じるものが多かったからだ。多様な動物や鳥類を一枚の掛け軸や屏風に収めようとする作品もいくつかあって、それらはさながら博物誌の様相を呈している。そこに描かれている動物や鳥たちは、生命力やエネルギーを感じさせるものというよりは、剥製や標本に近い無機質さを感じさせる。細部へのこだわりが一種の科学的眼差しと交錯しているように思えるのだ。若冲が、従来ならば鳳凰を描くところを、それは幻想の動物だからという理由で拒否して、あえて鶏で描こうとした精神も、こうした傾向と関連していたのではないだろうか。
当時鎖国をしていた日本に、ヨーロッパの潮流がダイレクトに入ってくることはなかっただろうから、こうした眼差しが日本独自に登場してきたものなのか、それとも、世界の流れと連動する何らかの原因があったのかは分からない。とても興味深い点なのだけれど。
あと、この展覧会の作品に共通する傾向として、バロック的要素も多少はあったのかなという気がする。まあバロックというほど大仰なものでもなくて、フリーク好みといったところか。江戸後期という時代状況もあるだろうし。このあたりが、今の日本の風潮と連動している要素なのかな? あとは、細部描写の眼差しが、コンピュータ・グラフィックと近いことから(若冲のタイル画などはそのまんまピクセルにも見えるわけで)、今のわたしたちはコンピュータ的な目線で若冲を見直しているんだろうなと思った。
iPodnano
デザインがカワイイつながり。かかっている曲はthe beautiful southのpainting it red。
Schokolade
プラリネとヌガーのチョコレートウェファースをビターチョコでくるんだもの。Knoeselというお店の商品。かなり重厚な味。デザインがかわいい。
カレのアクセサリー
ここのところ、月が魂を吸いとられそうになるほどに美しい。星が見えないほどに月の光も明るい。
デンマークのアクセサリー・ショップcarré copenhagenでピアスを買った。ここのお店はデコラティヴなものからスマートなものまで、選びようがあるのがいい。大ぶりの宝石を使った豪奢なものもほしいなあと思いつつ、実際にはそういうのは普段の自分の服装には合わないから、見た目は地味で小ぶりのものを買う。宝石のまわりに花びらのように銀色の玉があしらってあるピアス。最初から燻してあるような銀なので、ちょっとアンティークっぽい雰囲気を出している。普段着にはちょうどいいデザインなので、ここのところ、毎日このピアスを使っている。なんとなく、月のイメージとかぶるのもいい。