Heute bekomme ich zwei Buecher von Janosch aus dem Amazon Buculaden. Eines ist “Komm, wir findern einen Schatz”, anderes “Oh, wie schoen ist Panama”.
Kinderbuch?, ja, natuerlich, aber auch Erwachsene kann geniessen.
for myself
What can I say for myself?
Sometimes I will be selflessness, sometimes I will act what I really want to get, after all balancing is important. But don’t feel down when I can’t carry out what I planed at the day.
マックス・クリンガー
マックス・クリンガー(Max Klinger, 1857−1920)の名前を知ったのはずいぶん前で、一度まとめてその作品を見たいと思っている作家の一人だった。ドイツの美術館で彫刻を何点か見たか、エッチングを数枚みただけで、彼の作品は断片的にしか見たことがなかった。今回、国立西洋美術館で、彼の作品のうち「イヴと未来」「ある生涯」「ある愛」をまとめて見ることができた。これも一部でしかないのだけれど、それでも満足している。
作品はどれも1880年代から90年代にかけてのものだった。一瞥して、19世紀末のドイツ語圏知識人のメンタリティを代弁しているという印象をもった。とくに「イヴと未来」の作品は、楽園を追放されるまでのアダムとイヴの物語に、暗い未来の予兆が交互に差し挟まれるもので、当時の人間が共有したであろう根源的な不安が描写されていたように思う。まだ楽園にいたときのイヴも、無邪気な眼差しをもってはおらず、どこか沈んだ不安げな表情をして佇んでいる。
「ある生涯」と「ある愛」もまた、19世紀末の女性が置かれた根本的に不安定な状態を写し取っている。どちらもブルジョワ社会の欺瞞や救いの無力さを描いていて、女たちに無意味に近い生を余儀なくさせた社会への痛烈な皮肉という観点が見出せる。ただ、騙されて娼婦になった女が、黒い翼をもった虚無の天使に抱えられて生命を終える最後の一葉などを見ると、社会批判的な側面だけでなく、やはり、生の無意味さや虚無感を寄り添わせた暗い情念が垣間見える。
ニーチェの「神は死んだ」という宣告が衝撃力をもって受け止められた時代の精神とは、こういうものではないかという気がした。
(02.jun.2005)
name:
kiryn
from:
osaka, japan, naniwakko
title:
mach mal pause?
(ちょっと休憩する?という意味のドイツ語です)
映画、ドイツ、文学、あとは日常の四方山話。
お気軽にコメントを寄せてくださいね。
映画と掃除の日々
やっとヒマをみつけて、清順の「狸御殿」を観にいこうとしたら終わっていた! よくあることとはいえ、やっぱりくやしい。「ヒトラー」がそろそろ公開だろうから、これは絶対日程をチェックしておかなければ。とにかくなんか見ようと思って、オリヴェイラの映画みました。見ごたえあるよね、この人の映画。以下に感想を載せておきます(また例によって無駄に長い。でもいろいろ書きたくなるような映画ではあった)。
ここのところPCあまり開いていなかった。多少余裕があるとPC生活から離脱できるらしい。何をしていたかというと掃除です。実は春先に大掃除をして大量に出した本の一部(古本屋行きの予定でダンボール箱詰め)がいまだに玄関先に放置されていた。数ヶ月立つと、ごみの山も家具の一部に見えてくるというか、見えているけど見えていないというか、人間って都合のいい生き物よねというか、とにかく場所を占領していたわけですよ。それをやっと片付けた。やっぱりブックオフ行きでした。取りに来てくれるシステムはありがたいね・・・。
あと、とってもみすぼらしい玄関先に、バラの花を植えた。もう蔦と雑草と葱しか生えていないという荒れようだったのだが、色がつくとちょっとは小マシになったのでうれしい。もっと早くこうするべきだった。こんなんばっかり。
ノン、あるいは支配の空しい栄光
Non au a Vã Glária de Mandar
1990年 葡・仏・西
監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
出演:ルイス・ミゲル・シントラ
ディオゴ・ドリア
ミゲル・ギレルメ
オリヴェイラ監督の映画で見たのはこれが二本目である(一本目は『神曲』)。意欲的で哲学的な映画を作る人だなという印象はますます強まった。この監督が好きかどうかはまだよく分からないのだけれど、1908年生まれでなお現役で映画を撮りつづけるその姿勢にはひたすら脱帽する(しかも毎年一本! 生産力高すぎだよ)。
「ノン、あるいは支配の空しい栄光」は、オリヴェイラがポルトガル史を通して「敗北」を描こうとした作品。ポルトガル史そのものについては、ヴァスコ・ダ・ガマを除いてほとんど知らないことばかりだった。おそらく、この「知られなさ」というのは「敗北」と密接に関連している。「敗北」はグランド・ヒストリーから排除されていくことであるのだから。
以下、かんたんなあらすじを述べておく。
まず、国連の勧告に反して植民地を手放さそうとしなかったサラザール軍事政権によって、植民地維持のためアフリカに送り込まれたポルトガル兵士たちが登場する。この小隊を率いる陸軍中尉はかつて大学で歴史学を研究していたという人物であり、彼が部下たちに向かって、任務の合間にポルトガルの「敗北」の歴史を語るというスタイルが取られている。
「敗北」の歴史は4つ。1つ目は、紀元前、古代ローマと闘って敗れたルシタニア部族の話。2つ目は、王子の不慮の死によるポルトガル王国建設の頓挫(誰か忘れた、、、あとで調べます)。3つ目はドン・セバスチャン王が、モロッコの内紛に乗じて始めたアルカセル・キビールの戦い。このとき、行方不明となったドン・セバスチャンは、いつかポルトガルの解放のために戻ってくるという「伝説」の人物なのだという。この「伝説」は映画の最後で効果的に用いられている。ついでにいうと、それぞれの「敗北」の歴史には、物語を語る例の中尉が出演している。
最後に4つ目として、現在(1970年代当時)の国際的孤立のもとで植民地政策を遂行するポルトガルの「敗北」を、ゲリラと衝突した中尉たちが「実演」していく。爆音や、何分も続く機関銃の発射音だけが密林のなかで延々に響き渡る。それから、負傷した小隊の兵士たちは軍のヘリで病院に運ばれ、ある者は足を失い、ある者は顔面を包帯で覆われてベッドの上に横たわる場面が続く。中尉はここで最期を迎えるのだが、その苦悶の死を、顔面を包帯で覆われた負傷兵の目が凝視する。映画の末尾に近い後半部分は、それまでの中尉たちの饒舌な語りと比べて、話し声はほとんど消え去り、一切が沈黙のうちに終わってしまう。後半の異様な緊張感をもった展開は、必見である。
中尉の最期は、敗北の歴史の幕でもある。彼の夢のなかに、アルカセル・キビールの戦いの敗北のあと、死体が累々とつづく平野に、「支配の空しい栄光」を「ノン」という否定語でもって語り自害する老人が登場する。映画のハイライトともなる部分であり、オリヴェイラが語りたかった部分だろう。
『神曲』をみただけで、オリヴェイラについては何も知らないが、彼の作品にはニーチェやドストエフスキー、実存主義の影響が色濃いように思うし、二極論的思考が強い。ここで言われるNONも、「支配の空しい栄光」を否定したり批判したりしているというよりは、ある意味普遍性をもった「絶対否定の極致」をさす言葉なのではないかという気がする。もう少し踏み込んで言えば、NONという言葉の発話行為のなかに、歴史や運命の不確定性に翻弄される人間が、拒絶の意志と精神をもつ存在でもあるという、ぎりぎりの存在意義を収斂させているのではないかと思った。その言葉は、表舞台から消され、沈黙のうちに葬りさられていく大半の歴史を掘り起こしていくときに、また、そうした狭い回路を辿ることによってのみ、浮かび上がってくる文字なのだろうし、監督が映画を通して浮き彫りにしたかったテーマそのものかと思われる。
最後、伝説の王セバスチャンが登場し、剣の切っ先を自らの腹にさして自害する場面は、「ポルトガルの解放」と1974年のカーネーション革命とが重ねられている演出である。映画を終えるためのピリオドは一応打たれている。しかし、NONという言葉がポルトガル史の枠を越えるものである以上、ピリオドは永遠に打たれることはないのだろう。
(27. jun. 2005)
アゼルバイジャンの音色
時ならぬパラジャーノフ熱の再来、というほどでもないけれど、ちょっと刺激されてか、アゼルバイジャンの民族音楽のレコードなどを借りてみる。アルメニアかグルジアの音楽はないかと探していたんだけど、なかったのでアゼルバイジャン。ま、隣だし。宗教的には違うけどねー。ウズベキスタンやタジキスタンもあったけど、カスピ海の向こう側でちょっと離れすぎ? タールとかケマンチャとかいう弦楽器の音色が、なんともいえずよいです。ちょっと気だるく哀愁が漂っていて、蒸し暑い日本の夏にもいいかもしれない。
アンデルセン
フカフカ枕、お気に入りです。頭を乗せるときの、ぽすっ!ふか〜に病み付きです。
それはさておき、某番組のアニメ『雪の女王』にはまっている。映像がきれい、服装や時代考証がしっかりしている、しかも、女の子が行方不明になった大好きな男の子を探しに行くという女の子バージョンの冒険物。個人的にはツボですね。原作がウロ覚えだったので、思わず買って読んだ。あー、こんな話だったんだーと満足。アニメのゲルダは、原作のゲルダよりもしっかりしているようね。
アンデルセンの童話には、バラやチューリップ、ジャスミンにスイカズラと、花の名前がたくさん出てくる。それにお月様やオーロラや妖精も。きれいでこわくて、雪の結晶のような世界。急いで読んで終わりなのではなく、時折手にとって、その結晶のような世界に入り込みたいと思わせる本だと思う。
parajanov site(memo)
Maestro Sergei Parajanov Website.
ここで、パラジャーノフ関連の情報をたくさん知ることができました。
彼のコラージュ作品も何点か掲載されているし、息子さんのSuren Parajanovも映画を撮っておられるのですね。知りませんでした。’Parajanov: The Last Spring‘はいくつか賞も取っているようだけど、見ることができるのかな? アルメニア共和国のエレヴァンにあるというパラジャーノフ・ミュージアムはいつか機会があれば訪れてみたいものです。
(このサイトについてはMAIさんより教えていただきました。ありがとうございました!)
ふかふか枕
最近旅行するときは、ビジネスホテルを避けて、多少なりともマシなホテルを予約することにしている。ビジネスだとすごく侘しい気分になるのね。「行きたくなーい!」という気持ちをちょっとでも緩和させるために、「いいホテルに泊まれるんだから」というエサを自分の前にぶらさげるわけです。
いいホテルに泊まるとやっぱり気分がいい。ロビーもきれいだし、お風呂も広いし、煙草臭くないし。そんななかで、これはいい!と思うものの一つが枕。頭をのせると、ぽすっ!ふか〜となるかんじがなんともいえず好きなのです。
そんなわけで、フェザー・ピローと夏向けのピロー・カバーを買いました(ちなみにベッドを置く余裕などないので敷布団。でもいいの!)。ホテルのように、5つくらい贅沢に枕を並べるのは無理だけど、枕一つでも大きくてフカフカなので満足。これから蒸し暑い夏が来るというのに、フェザーってどうなの?という懸念は、ぜんぶ先送りです。