語学の勉強

 何事もやみくもにチャレンジするよりは、情報収集したうえで取り組むほうが効果が期待できるということを、前回のダイエットで学習いたしました。世にわんさかあるマニュアル本やノウハウ本は、もともと眼中にはいらないジャンルなんだけど、少々頭をきりかえて、その手の本も必要性をみとめるべきかと思い始めている。
 そういうわけで、やみくもにやっていたに等しい語学関連についても、心をいれかえてみようという気になっている(←4月だしね!)。いろいろ検索してみると、たくさんあるねぇ、この手のノウハウ・サイト。とくに英語の充実度はすばらしい。体験に裏打ちされたノウハウの集積。語学コンプレックスなわたしには、目がぐるぐるしてくる世界だわ、、、努力・根性・鉄の意志!な世界だわ、、、そういうのがもともと備わってない人間はどうすりゃいいのだ、、、。いや目をまわしてるばかりではダメなので、なんか自分にもできるものを探そう、、、。でも語学勉強のために映画をみるのは気がすすまんしなぁ。ま、とりあえず、ロシア語講座でも見てみるか、時間だし。

黒七味

 先日京都にいったとき、すっかり味をしめた祇園小石の黒蜜と原了郭の黒七味を買って帰る。伊勢丹や駅のお土産売り場でも売っているのね。鍋物の季節もおわり、七味を使うことはあまりないのだが、味噌汁にいれたりして無理矢理使ってみた。ちょっと辛くなったけど、香りがすごくいい。とくに山椒かなあ、いと晴らしきこの香りは。
 いまのところ、映画館にぜったい行きたい映画は、やはりメル・ギブソンの「パッション」でしょうか。話題づくりには事欠かないというか、扇りっぽいニュースもやたら流れているけど、その辺の情報はできるだけシャットアウトして、映画そのものを見たいものです。

ロシア語講座

 ただいま某番組の「ロシア語講座」を見終わりました。
 いきなりダニエル・カールさんが板前の格好で登場していて、アメリカ人なのに東北弁で片言ロシア語を喋っていて、しかも板前になりきってか江戸っ子弁らしき発音でマシンガン・トークを繰り出すので、ワケがわからない、、、。なんで「H」が「N」なのよー!という超若葉マークなわたしなのに、ロシアの日本料理屋さんの紹介では「すしの惑星」とかいう突飛な名前のおみせがでてくるし、もう三十分間ヘンな洗脳ビデオをみせられた気分です。これからも見続けられるのか、自分でも謎。

The Book of Pallalink

ウェブログっぽく、pallalinkのpalla氏の2003年の作品集大成
The Book of Pallalink
の紹介です。
ねじれたり反復したり回転したりスライドしたりすることで、都市という空間がもつ異様な磁場が凝縮されて露出してくるようです。不気味だけど美しい、視覚が狂っていくような、脳髄に作用してくるような感覚を味わいます。21世紀に生きるわたしたちの生活空間は、こういう図像に抽象化されるのかもしれません。メタ・エッシャーな、あるいはメタ建築的な世界が展開しています。Let’s go to see!

「ドッグヴィル」のつづき(仮設)

下のところで、「ドッグヴィル」論が異様に長くなってて、ちょっとコワイので(コメント数自体は少ないんだけど)、こちらに新しく移動します。ま、コメントがなければこの欄は消しますので、仮設ログとでも名づけましょう。

映画評

 例によって長い文章ですが、「ドッグヴィル」の映画評アップしておきます。半分メモ書きみたいだけど、放置すると腐りそうなんで。ネタばれ注意でございます。しかし、映画評を書くと、自分のなかでなんとなくお役目をはたした気分になるなあ。ま、いちおサイトの主旨だからね。
 
 ところで、「報道ステ」なんとなくみました。まりたんがいなくなって、嘆いている知り合いが多いだろーなーとぼんやりと思いました。

ドッグヴィル

Dogville
2003年 丁抹
監督:ラース・フォン・トリアー
出演:ニコール・キッドマン
ポール・ベタニー
ローレン・バコール


 トリアーが、アメリカに行かずにアメリカを撮れるのかという挑発に応えた作品、らしい。こうした宣伝文句にかなり洗脳されて見たところがあって、描かれているものはとくにアメリカに特有のものではないんじゃないか、というのが第一印象。人間社会のもつある種普遍的な「悪」が描かれていたような気がする。ともあれ、3時間にもおよぶ長さは、最後のシーンにもっていくための粘っこい伏線である。後半、グレース(ニコール・キッドマン)の扱いがあまりにも嗜虐的になっていくので少々うんざりしたのだが(あの独特のセットが余計にそういう効果をだしているんだよね)、最後の急展開はやはり見ごたえがあった。以下感想というよりは、自分なりの理解の大雑把な図式化。
村人=子どもや夫を愛し、病気を心配し、娘を介護し、パイを焼き、日々の労働にいそしむ普通の人びと。そして弱く、ずるく、欲望に忠実な存在。家族や隣人を愛することはできても、見知らぬ人間を同じように愛することはできない。困っている隣人を助けようという善意はもつが、条件付でないと実行できない。逆に、仲間ではないと判断した人間に対しては、際限なく冷酷になれる。この際限のなさは、仲間ではない者を家畜と同列にしか考えないレベルにまでいきつく。しかも良心の呵責などかんじない。良い行いも悪い行いも、自らの意志で行動するのではなく、他者の命令に従うのみ。ゆえに結果に対して自分の責任をひきうけることはないし、むしろ自分は被害者だと考える。「犬」。
トム=「犬」のなかでもインテリに属する。ほかの「犬」たちを誘導し、啓発しなければならないし、自分にはそうする能力があると考えている。その目的にそって計画はたてるけれども、結果はことごとく意図せざるものとなる。支配欲を強くもつが、実際のところそうするだけの力はもたず、より強い権力をもつ人間におもねろうとする。理想を唱える能力はあれども、その実、凡庸なほかの「犬」と大差はない。
ギャングのボス=権力者。権力をもつ者とそれ以外の者(=犬)とを同じ人間とはそもそも思っていない。権力者は「犬」をしつける必要がある。放っておくと噛み付くから。けれどもうまくしつければ、忠実に行動すると知っている。
グレース=物語のなかでもいちばん厄介な存在? 彼女の行動原理は「正義」と「寛容」か? 父(ボス)の権力思考に反発し、父のもとを飛び出してドッグヴィルにくる。彼女はそこの人びとに受け入れられるよう、自らの身体をつかって奉仕することで、父の論理を反駁しようとする。けれども彼女の期待は裏切られ、「犬」は「犬」であることを身をもって体験する。それでも、かれらの残酷さが弱さと平凡さに由来することを理解しようと努めるが、最終的には、弱さに対する責任をとらせるという論理で、「犬」を抹殺する。
 とくにこれがアメリカだ、ということもない。犬も権力者もインテリも、歴史のなかには偏在しているだろう。グレースのあのベクトルが急激に反転する様は異様な迫力をもつし、映画のなかの一番のハイライトだと思うが、こうしたメンタリティすらアメリカにのみ独特だとも思わない。「正義はなされしめよ、たとえ世界が滅びるとも」に近い感覚ではないか。ただ唯一、グレースが権力者の娘、しかも不法の権力者の娘であること、権力という後ろ盾に支えられた上で、正義を唱え実践することができる人間である点は興味深い。アメリカにこだわるならば、この点がもっともアメリカ的かもしれない。 
 ただ、この映画の人間に対するシニカルで突き離したような視点は、アメリカをつきぬけて、人間のもつ「傲慢さ」を浮き彫りにしている。最後にいたって、登場人物たちがしきりに「傲慢」という言葉を投げかけあうのが印象的だった。蜘蛛の糸が切れて、みんないっしょに地獄へ堕ちていくかんじで、救いもへったくれもない。ここで終わるのならこの監督の次の作品を見てやろう、絶対つくれよと思った。
(05.apr.2004)
オマケは「ドッグヴィル」みた人とのダイアローグです。こういう会話のはずむ映画はやはり見応えがあるってことですね。岡田さん、どうもありがとう!
オマケ1
オマケ2

続きを読む

映画

 晴れと雨が交互にくる日々が続く。気候の不安定さに春をかんじる。桜満開、でもメランコリーになったりロマンチックになったりアンニュイになったりする余裕とヒマが一切ありません。ついでにこのなまぬくい気候がいけませんね。もう少し寒い時期に咲く沈丁花や白蓮のほうが好みかも。
 さて、仕事のあいまをぬって、「ドッグヴィル」みてきました。もうほとんど駆け込み。みれてよかった。結局、3月にみた映画これ一本? あ、「アニマトリックス」もみたのか。うーん、2本だけ?少ないなあ。とりあえずコメントを書こうとファイルを開いたら、「クラブ進駐軍」のメモがきが放置してあった。すっかり忘れていた。しかもほんとのメモがきで文章になってないし。「ドッグヴィル」も今のところメモがきだなあ。どうなることやら。
 映画のあとは久しぶりに洋服などを物色する。買い物は一人でするにかぎる。物色するときの必死さは、あまり人にはみられたくない。でも春休みは平日でも人が多くて、人酔いした。もっとすいているときに買い物したい、、、。
 阪急デパートにあたらしいパン屋さんが入っていたので、パンを買って帰る。でも先月のパン代がびっくりするくらいかかっていて、さすがに反省して控えめにした。もっとコメ食べる!

逃避という名の読書

 道路脇の雪柳が真っ白に咲き誇っていた。だんだん精神的に余裕がなくなってきて結構ツライ日々。『ドッグヴィル』を見に行きたいのだが、半分あきらめモード。
 クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読む。映画は前にみていて、なかなかおもしろかった。ダニエル・ディ・ルイスのトマーシュがハマリ役だった。ジュリエット・ビノシュも一途な田舎娘がヘタなファム・ファタールをするよりずっと板についていて、いいかんじだった。映画の後半の「プラハの春」のシーンが、見た当時は意味がよく分からず、恋愛と政治の関係を咀嚼できないままに残った。
 本はずっと本棚に眠っていた。いつ買ったのか覚えていない。読むとすごくおもしろかった。クンデラのこだわる「軽さ」と「重さ」がテクストの語りそのものにもついてまわっていて、時に蓮っ葉なまでに軽くなりながら、気がつくと、人間の奥底を垣間見せるような深みにまで到達してしまう。小説を読むときにはあまり用いない付箋を片手に読みすすめてしまい、読み終わるとあちこちに付箋が張り付いていた。
 それからカルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』も読み始めている。これもずっと本棚に眠っていた。読むとおもしろい。読書好きにはたまらない実験的小説、の気配。
 わたしはいつも本を並行して読むクセがあるが、ついでに森安達也の『東方キリスト教の世界』も読んでいる。森安さんの『近代国家とキリスト教』という本がとてもおもしろく、その続きの感覚で読む。でも初心者向けのようなそうじゃないような、とにかく専門用語の意味がわからない。注も原典を示すのが多くて、わたしには歯がたたない。リーゼンフーバーの『中世思想史』が、事典の役割を発揮している。この本も事典代わりにしようと思って買ったんだけど、読むとおもしろくって、つい読んでしまっている。
 以上、最近の逃避でした。逃避と分かっていながら読む本は、何ゆえにこうもおもしろいのだろうか・・・。