サントリーミュージアムに「ドイツ表現主義の芸術」を観にいく。「カリガリ博士」と「吸血鬼ノスフェラトゥ」も上映されるので、これは絶対観たかった。「カリガリ」はすでに何度かみていたけど、ムルナウの映画は初めてなので、すごく楽しみだった。映画のコメントはまた別にまわします。
さて、展覧会ではドイツ20世紀初頭から第一次世界大戦前後に現れた芸術運動ということで「表現主義Expressionismus」が取り上げられ、「ブリュッケ」「青騎士」「都市の絵画」と三点に分けて展示がなされていた。表現主義といわれても、どのあたりの芸術運動をどこまでそう呼んでいいのか、これまでよく分からなかったのだが、今回は分かりやすく整理してくれていたので、収穫ある展覧会だったように思う。
まずおもしろかったのは、表現主義の表現が1913年頃には様式の点では頂点に達していたということ。造形芸術から始まって、文学・演劇・舞踏・舞台美術に広がり、最後に映画・建築と波及していったらしい。「カリガリ」や「ノスフェラトゥ」といった表現主義的映画の最高峰は、他のジャンルからすると、10年前後遅れて頂点を迎えたことになる。
ドレスデンからベルリンに移動するなかで展開された「ブリュッケ」には、キルヒナー、シュミット=ロットルフ、ペヒシュタイン、ミュラー、それからノルデ、ロルフスの諸作品が収められている。ミュンヒェンを中心にした「青騎士」には、カンディンスキー、マルクを筆頭に、ヤウレンスキー、ミュンター、ヴェレフキン、マッケ、モーグナーの諸作品。それぞれの作品の共通項を見つけることは難しいけれど、公分母としては、描く対象を通して、自己の内面と向き合う側面が強いといえるだろう。もっといえば、「生」そのものという根源的なるもののがどこかに在ると考えられていて、芸術表現によってそれを探求するのだという意志がひしひしと伝わってくる。
根源的な「生」を求めていく背景には、当然、近代人、近代社会、近代的文化の在り方全てに対するプロテストがあるわけで、20世紀初頭のドイツの精神状況をよく現しているのだと思う。ただ、こういう二項対立的な把握に、わたし自身が納得し共感できるかというと、少し難しい。距離をおいて眺めているかんじだ。
一番突っ走っているのは、やはりカンディンスキーだと思う。「生」そのものは何か善いものとして描かれがちなのだけれど、カンディンスキーの抽象は、そうした価値評価すら許さないようなものがある。人間の根源というものを描いたとするならば、彼の絵にこそ、それは当てはまるのではないか。ほかに印象に残っているのは、ノルデの作品だ。生や自然の混沌としたものを描いて、色彩に惹きつけられた。
それから、時代的な区分で分けて、第一次大戦後に展開された諸々の作品――ベックマン、グロッス、ファイニンガー、グライヒマン――が紹介されていた。ダダもこの時期にかぶってくるが、表現主義の戦後の流れは、ダダからの攻撃が終わったあとに見えてくるということらしい。「新即物主義」とカテゴライズされる流れである。戦前にはあった「生」への探求や憧景は後退し、都市の猥雑さ、社会の狂気を描く方向へと変わっていく。とはいっても、たしかにグロッスやグライヒマンはその傾向が強いけれど、ベックマンやファイニンガーはまた別の方向に進んでいるように思えた。
絵画と作家たちの人生を通じて見えてくるのは、間接的ではあるけれど、第一次世界大戦とナチズムが与えた衝撃の大きさだ。戦死、亡命、自殺と続く作家たちの末路が、時代の重苦しさを物語っている。
ともあれ、今回の展覧会は、遅くにいったせいもあるけど、空いていてゆっくり観られたので満足しています。内容的にもおもしろかったしね。
(20.jan.2003)
pre-pallalink
今回は宣伝です。
pallalinkのpallaさんが今度大阪で個展をひらきます。
pallalinkはphotolog/weblogコミュニティのなかから、ユニークな作品を次々に創り出してきました。pallaさんの作品に注目するbloggerたちが、気に入った写真や気になる写真にコメントを書き残し、それがpallaさんの創作意欲と思考力をかきたてているようです。作品の変化のスピードがとても速く、内容もまた充実しているため、すなおにわたしは圧倒されてます。
個人的にはこの辺の作品がすき。
reflection3
reflection5
symmetry7
建築・都市・写真・デザイン・映像表現等々に興味のある人はもちろん、webの在り方とは何か、というテーマについても関心のある人には、注目してほしいサイトだと思います。
コンピュータやwebの知識というハードの面と、ビジュアルやデザインの美しさというソフトな面が融合しつつ、しかもつねに変化しつづけているのが、pallalinkだといえます。かなり歯応えがあるし、ある意味難解。自分の知識とセンスが問われるような気がします。
しかし、このweb上にあるサイトが3Dの世界にくると、いったいどうなるのか? これはちょっと未知数なので、わたし自身個展を楽しみにしております。
というわけで、京阪神間に在住されている方で興味をおもちのかたは、個展のほうにも足を運んでくださいまし。
pre-pallalink / the exhibition
2003.05.13-06.01 at lim gallery
date:
2003.05.13(tue)-06.01(sun)
locate:
Lim Gallery/ phone 06-6538-5862
2F Nakazawa Bldg.,1-14-26,Minamihorie,Nishi-ku,Osaka,Japan
大阪市西区南堀江1-14-26中澤ビル2F
>>MAP
open:
weekday 11:30am-9:00pm
sunday 11:00am-6:30pm
monday CLOSED
じんましん
おとついの朝から体中がかゆくって、なんだろーと普通に生活していたら、昼頃から耐えられないくらいかゆくなってきて、これはおかしいとお医者さんにかけこんだ。よーするに、じんましん。でもはじめての経験なので、びっくりした。体調が悪いとかしんどいとか、そういうことはないんだけど、とにかく痒くて体全体が赤く腫れ上がっていく。じんましんだと分かってなかったら、怖くて耐えられないような体の変化。
昨日の朝にはだいぶんひいて、治ったと思ったんだけど、夜仕事から帰ってくると、やっぱりまたでていた。最初のときほどひどくはないけど、いまだあちこちに残っている。早く治ってほしい。
歓楽通り
rue des plaisirs
2002年 仏
監督:パトリス・ルコント
出演:パトリック・ティムシット
レティシア・カスタ
ヴァンサン・エルバズ
まだフランスに娼館なるものがあった頃、一人の娼婦の生んだ子どもが主人公のプティ=ルイ。あまりにもルコント的だわと思ったのは、プティ=ルイに将来の夢として「女の人のお世話をすること」といわせたりする点。夢叶って(?)、オジサンになった彼は相も変わらず女たちの世話にあけくれる。白粉の匂いや香水の充満する化粧部屋ではコルセットのヒモをひっぱり、あらわになった肩をたたき、客のために装う娼婦たちの準備を手伝う。また女物の下着や服を洗濯し、顔を煤だらけにして石炭を燃やす。でも彼の本当の夢は、複数の女ではなく、「たった一人の女」の世話をすること。そうして彼は、ある日娼館にやってきた少女マリオンを、自分のすべてを捧げるべき女神とみなすのである。
プティ=ルイの愛はすべてマリオンに向けられる――ただし、性愛の側面は除いて。彼女のほうも彼の愛に応えて心から彼を愛する――ただし、これもまた性愛の側面は除いて。彼は、性愛の面において彼女を心から愛してくれる男を探す。彼女にとってそういう男が必要なように、プティ=ルイにとっても自分に欠けた部分を補ってくれる存在として、彼が必要なのである。娼婦である彼女を娼婦としてしか扱わない男など、彼女にふさわしい存在ではない。彼女はダイヤモンドの原石だし、羽化すればどんなにすばらしい女になるだろう――そう夢見ていたプティ=ルイは、彼女が自分で見つけ出してしまった運命の男ディミトリに失望させられる。ちっぽけな盗みをやってマフィアに追われている只のチンピラ。なのに、性愛の側面において彼女を愛せる男は、プティ=ルイと同じようにすっかり彼女の虜になってしまい、見事なまでにプティ=ルイの片割れになってしまうのである。こうして三人は離れられなくなってしまう。
「たった一人の女に尽くす」というプティ=ルイの(ある意味フェティッシュな)夢も、現実の関係においては軋みをみせざるをえない。陳腐な現実に「こんなはずではないのに」と心のなかで呟きながら、それでもマリオンとディミトリから離れられずに面倒をみてしまう。やがて訪れる結末は、甘い夢を実現しようともくろんだ男の引き受けるべき罰なのだろうか。甘美な夢と陳腐な現実、そこに垣間みえるズレは可笑しくもあるし、また哀しくもある。
ルコントの作品にはどうしても谷崎の世界を連想させられてしまう。この映画のフェティッシュ度もかなり高め。とくにマリオンをはじめ女たちの肩から背中のライン、胸元などから匂いたつような色香を見せるところは、これでもかといわんばかりの濃厚さ。映像はとてもエロティックなのに、主人公たちは不器用でとても幼い。このアンバランスさが、ルコントの持ち味だったりするかも。
(18.apr.2003)
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交換
春のせいか、まわりで物品交換がさかん。春は関係ないか。
光学式ならなんでもいいということで、お蔵入りしていたスケルトンマウスの引き取り手がみつかる。ついでに彼ん家にはテレビ以外の電化製品がないらしいので、棚のおくで眠っている普通のガスコンロもあげることにする(←電化製品ちゃうけど)。共同の家(なんてゆーの、いしいひさいちのマンガにでてくる貧乏学生の住処みたいなとこ)に住んでいるから、光熱費としてガス代も払っているらしい。ごはんまで作らんでも、お茶くらい沸かして飲みたいと思わんのだろうか?
わたしは別のところから、スピーカーをもらった。つないでみると、コンピュータから音をだすより断然音がよい。うれしくって、ネットラジオだの聞きまくり。でもコンピュータのスピードが遅くなってるよー。
映画
ルコントの「歓楽通り」観てきました。「ヘブン」を観にいこうと思いつつ、結局時間がとれずじまい。もう終わってたのね・・・。でも「歓楽通り」よかったです。
しかし、日曜日にスカイビルの映画館にいこうとすると、四方八方から押し寄せる競馬目当ての人ゴミをかきわけていかなくてはならない。こういうヒトたちは信号も守らないし、ゴミいっぱい落とすし、マナー悪くてサイアク。警備員はメガホンでどなりたててるし。そろそろ陽射しもきびしく、不快指数一気に上昇。
気を静めるためにも、映画が始まるまで、ぼーとビルの谷間のベンチでお茶缶を飲んでいたら、開始時刻10分前になってて、あわてて映画館にかけこんだ。すでに予告がはじまっていたから真っ暗で、空席をさがすのに一苦労だった。
やっぱ映画はレディースデイ1000円也を狙っていくべきだわ。日曜日なんて、料金高いし人多いし、疲れるばかり。
桜花
雨だ風だといっても、桜はまだ咲いている。見ごたえのある時期はすぎてしまったけれど、道路や舗道のうえに薄桃色の花びらがこれでもかとふりつもって、その辺りは空気が華やいでいる。風がふいて桜の花びらが盛大に散るのも見るのもまた楽しい。
こどものころ住んでいたところは、なかば田舎の郊外の住宅地だったから、のんびりしていた。桜の咲いているお寺の境内を散歩したり、桜の咲き乱れている公園のベンチに座ったり、桜をゆっくり眺める時間と場所があった。今住んでいるところは、住宅も密集しているし車の通りもそこそこあって、せわしない。桜は咲いていても、いつも通りすぎるだけで、盗み見ているようなかんじである。すこし、残念。
ピノッキオ
Pinocchio
2002年 伊・米
監督:ロベルト・ベニーニ
出演:ロベルト・ベニーニ
ニコレッタ・ブラスキ
カルロ・ジュフレ
「ピノッキオ」観てきました。
ベニーニ他俳優陣の達者な演技に、映画というよりは演劇をみているような気にもなった。演劇チックなノリについていけないところもあったけど、見ごたえはあった。でも、50歳のオジサンが演じるピノッキオって、コドモに理解できるんだろうか?? コドモ対象のアメリカ映画や、日本のアニメ映画に慣れているこどもたちにとっては、かなり理屈っぽい映画のような気がする。
じゃあオトナがみて楽しめるかというと、もちろんフェリーニへのオマージュという点でも楽しめるし、知ってるようで知らない『ピノッキオ』のストーリーも知ることができるし、CG映像の多い昨今の傾向に反して、セリフと演技力に重点をおく姿勢も好感をもてるし、おまけにクジラ(サメ?)のおなかに飲み込まれるシーンに、たむらしげるのまんが(←なつかしーい)をおもいだすこともできたりするので、楽しめます。
ピノッキオが人間になっていくためには、欲望や誘惑にすぐに負けて約束を破ったり嘘をついたりする弱い部分を、失敗から学びつつ自分でなおしていかなくてはならない。たくさんの失敗をかさねながらも、ピノッキオは大好きな人に受け入れられたいために、我慢し努力することを学んでいく。一足飛びにピノッキオがイイ子になるわけではないけど、その成長していく姿をあたたかく見守ってくれる人が側にいることがとても重要なんだと思う。
全体的にけたたましくて、見終わったときには少々つかれを感じた。頭を冷やして考えてみると、主張は非常にストレートだし、素直に捉えたら、なかなか奥深いテーマを扱っているのですね。こどもよりもおとなが見るべき映画かも。
(06.apr.2003)
復活祭兎
ドイツから帰国したリモくんからハーブテイをおみやげにくれた。それとウサギの絵を描いた包み紙でくるんだ卵型のチョコレート。復活祭のウサギだ。3月くらいのドイツでは、どこのお店もこのウサギであふれかえっている。復活祭なんて無縁だけど、なつかしくって、思わず頬がほろこんだ。
Von einer Reise nach Deutschland kommt ein Freund von mir zurück und schickt mir Kräutertee und eine Schokolade von Osterhase. Im März letztes Jahres fand ich hier und dort diese Osterhasen. Mit dem Osterfest bin ich nicht vertraut, aber erinnere mich an diese Hasen.
パパは、出張中
Otac Na Sluzbenom Putu
1985年 ユーゴスラヴィア
監督:エミール・クストリツッア
出演:モレノ・デバルトリ
ミキ・マノイロヴィチ
ミリャナ・カラノヴィチ
1950年代のユーゴスラヴィアを、6歳の少年の目を通して描いた作品。あの怪作「アンダーグラウンド」の10年前に作られた作品である。少年の目を通して、といっても、実は映像はさほど徹底してこどもの視線から描かれているわけではない。
少年マリックの家族はしっかりものの母と映画好きの兄、寡黙な祖父、それと父で構成されている。この父が出張先から愛人と一緒に帰ってくるところから映画は始まる。父が帰宅し、一家そろっての生活がはじまったと思ったら、父は警察に連行されてしまう。父はなぜ自分が連行されるのか分からないし、母も分からない。分からないまま、父は強制労働につかされる。その間、サラエヴォに残された母は、子どもたちに向かって、パパは出張中なんだといいふくめる――。
父が連行された理由は観客には分かるようになっている。最初の車中の場面で、父が愛人にむかって、新聞の風刺漫画をさして「やりすぎだな」とボソッと呟くシーンがある。実はこのシーンが重要な伏線となっている。
漫画には、「スターリンの肖像画をかけた部屋でマルクスが執筆活動をしている」という場面が描かれてある。日本にいる人間にはなかなか難しい風刺漫画なのだが、多分こんなかんじ↓。
1950年代のユーゴスラヴィアはチトーを大統領にいだいてソ連とはちがう独自の共産主義路線をめざそうとしていた。当然、当局はソ連に対しては距離をとろうとする。で、当の漫画は、「スターリン路線ですすんでいるソ連では、あたかも『資本論』を書いた19世紀の人間であるマルクスが、ソ連を指導したスターリン(当然20世紀の人)を額縁に飾って(師と仰いで?)執筆活動していたみたいなことになっているけど、ソ連の共産主義ってこんなかんじだよね、バッカみたい!」と揶揄っていたと。これを見た父が、この新聞の論調を「やりすぎ」といってしまったわけです。
この父は、頭のキレはよさそうなオッチャンだし、50年代のユーゴでも、マトモな感覚の人なら、多分「やりすぎ」って思ったんだろうなーと思う。
今の日本に生きているわたしたちは、当局の息のかかった新聞の論調を批判したところで首が飛ぶことはまずないのだけれど、当時のユーゴスラヴィアではそうはいかなかった。愛人はたまたま、この父のいったセリフを当局筋の人間の前で喋ってしまう。その結果、マリックの父は、体制批判者=親スターリン派=ソ連寄りの危険人物のレッテルをはられて、強制連行・強制労働となってしまったのだった。
強制労働の期間をすぎると今度は、地方に飛ばされてそこで体制側の人間になったかどうかチェック期間が設けられている。ここでもまたさりげなーく試験が導入されているのだが、このときは父は機転をきかして「模範解答」を答える。そして家族そろってサラエヴォにもう一度帰ってこれて、一応映画は幕を閉じる。
この社会の何がこわいかというと、反体制派の烙印を押されてしまうと、家族もすべて巻き添えにしてあっという間に人生を転落してしまうところだ。パスワードをまちがえると、二度と扉は開かない。選択肢は非常にかぎられていて、ひかれたレールから落っこちた人間は必死になってそこに這い戻るしかない。マリックの父は、その点、エネルギッシュで生命力の強そうなしぶとそ〜なオッチャンなので、一度は失敗したけれど二度目の失敗はおかさずに、ユーゴスラヴィアの共産主義体制で生き抜く方法を直観的に悟る。
どこにでもある一家族の日々を追いながら、密告一つで人生が翻弄される管理社会の不気味さを観る者に伝えてくる。どこかに逃げ道があるわけでもなく、当局の用意する色に染まることが、その時代・その国に生まれた者に残された「無難な選択」だったりする。
クストリツッアの手法は、直接的に、なにかを賛美したり批判したりするわけではない。ある時代に生まれた人間の「無難な選択」を突き離した目で描く人だなと思う。「あの時代はそうするしか仕方がなかったんだ」という、よく耳にするセリフの、その「仕方なさ」を描きだしているように思う。
あとの時代から「批判的」に「1950年代のユーゴスラヴィア」を再構成するのは、おそらく簡単なのだ。でも映画はそう単純な描き方をしてはいない。あるいは、「ひどい時代でもたくましく生きる家族」といったストーリーでもない。「仕方がなかったんだ」のこの「どうしようもなさ」をつきつめて、映画は、政治や歴史に翻弄される人間の矮小さを浮き彫りにしようとしたのかもしれない。
唯一、最後に老人ホームに行こうとする祖父の「政治なんかくそくらえだ」という捨てゼリフと、マリックの夢遊病が、監督の主張を端的にあらわしていたように思う。マリックの夢遊病は、なんともいえず痛ましい。手から離れた風船のように、ふらふらと夜の町を徘徊する少年の姿は、父のエネルギッシュな態度も、母の一生懸命さも、管理社会のなかでも生き生きと暮らしている人間のすべてを、一瞬にして色褪せさせてしまう。
お気楽そうな日本語タイトル(これ、原語ではなんていってるのかな??)に反して、映画の後味はかなり苦くて重い。ただ、一筋縄ではいかない「現実」を相手に、一筋縄ではいかない作品を仕上げる監督の力量は、十分賛美に値する。
(30.03.2003)