invincible
2001年 独・英
監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
出演:ヨウコ・アホラ
ティム・ロス
アンナ・ゴウラリ
この映画は最初から最後まで、いいしれぬ不安と破滅への予感に満ちている。
1932年――ナチスが帝国議会選挙で多得票を獲得し、ドイツ国内での存在感を高めつつあったころ、ひいては、ヒトラーが33年1月に政権を掌握する直前というのが、設定された時代状況である。
三人の主要な人物がでてくる。一人は謎めいた予言者ハヌッセン(ティム・ロス)。ポーランドのゲットーで鍛冶屋の息子として生きる、やさしさと力をあわせもつジシェ(ヨウコ・アホラ)。それから、ハヌッセンに幼少のころ拾われたという無国籍者のピアニスト、マルタ(アンナ・ゴウラリ)。
原題のinvincibleは辞書的に直訳すれば「無敵」となるが、これはもっと含意をもつタイトルだと思う。むしろ、不安や混迷や混乱や破局に対して、「迷わざる者」「迷いなき者」「揺ぎなき者」「揺るがざる者」「確信者」といったニュアンスでとるべきではないか。「無敵」と訳すと映画の筋といまひとつ合わない気がする。
ハヌッセンとジシェは、両者ともその意味でinvincibleな男である。ハヌッセンは、皆が見ることのできない賽の裏の目を見ることができる。自分の生れ落ちた時代・与えられた属性が、この時代のなかでどのような運命をたどらざるをえないかをはっきりと見据えていた彼は、ナチス政権に取り入ることで自分の運命を打開しようとする。ハヌッセンは、この時代の、ロシアまでも含むヨーロッパに生きたある種のユダヤ人に特有の性質をもつ。彼はユダヤの共同体から逸脱し、マジョリティの共同体からは排除され、根無し草的かつコスモポリタンな性質を帯びざるをえなかった人々の一員である。
それから、ジシェ。自分に与えられた人並み外れた強さを、神は何のために与えたのかと彼は自問しつづけている。ユダヤ共同体の強い絆のなかで生れ育ち、何が正しいかを知っている「義しき者」たる彼は、ハヌッセンとマルタと出会うなかで、自らの使命を悟っていく。ユダヤ民族を襲う未曾有の悲劇を予見した彼は、その悲劇から自分の仲間を守ることが自分の使命だと確信している。その確信はinvincibleなものでありながら、人々にそれを伝えることは難しく、彼の力は空回りして、ついには自らを傷つけてしまう。
マルタは、不思議な女性だ。豊穣な豊かさを秘めた肉体と類稀なピアノの才能をもちながら、両親も知らなければ自分が何人かもしらない見捨てられた存在であり、見るからに不安げな眼差しをこちらに向けてくる。ハヌッセンもジシェも彼女に惹かれている。思うに彼女は一つの時代の象徴という面をもちあわせていたのではないか。ハヌッセンが彼女を支配し服従させたのは、自分が時代を支配することと同義だったように思うし、ジシェが彼女の才能を鼓舞し、その夢を実現させようとするのは、自分の力が沈黙を余儀なくされ見捨てられた者たちを救うためにあると信じたことの結果だったように思う。
最後、ジシェの夢。海岸を埋め尽くす真っ赤な蟹の大群のなかを、ジシェは、もっともかわいがっいてた弟ベンジャミンを抱き上げながら歩いていく。彼が守りたかったベンジャミンは最後、ジシェの手を離れて空へと飛んでいく。寓話的な終わり方ではあるが、どうしようもなく、暗い予兆をはらんでいた。
invincibleな者を描きながらも、映画にはぬぐいがたい不安感が通底している。先が見えているのであれば、自分だけは時代に飲み込まれないよう常に先取りして出し抜いて生きていくか、それとも、後に残る大勢の人々に向き合って、流れに抗するよう声を張り上げるか。それぞれの流儀で流れに抗する姿と、それでも時代の波に飲み込まれていく姿――この両義的な側面が、尋常ならざる主人公たちのその平穏ではない人生によって浮き彫りにされていた。
(02.jan.2006)
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