今年の夏は旅行が多かった。しかも明日からまた旅行。成り行き(としか思えん)で北米にいくことになったので、当分ブログの更新はとまります。先に知り合いがシカゴで待っているはずなので、とにかくシカゴにたどり着こう。成り行きまかせの旅になりそう。なにか得るものがあればうれしいな。では行ってきます。
映画
話題の映画みてきました。
時間が空いたので飛び込みでいったら、やっぱり映画館は混み混み。立ち見はしんどいので、次回にまわしてレイトショーでみた。レイトショーって料金安いんだ。知らなかった。なんか得した気分。見終わると11時を過ぎていて、さすがにこの時間になると店がほとんど閉まっている。帰るしかないというのがつまらないなあ。
映画は、テンションめちゃくちゃ高いです。いろいろ盛り込んである内容で、どっから切り込んでいいやら分からなくなります。そういうわけで、コメントはあっさりめ、、、。
華氏911
2004年 米
Fahrenheit911
監督:マイケル・ムーア
出演:ジョージ・W・ブッシュ
この映画はもはやドキュメンタリーではないし「映画」でもない。悪しき支配者と虐げられる者たちという扇動的でベタなプロパガンダ映画の作りになっていることや、「ボーリング・フォー・コロンバイン」に比べても、構成や内容がめちゃくちゃになっていることは、このさいもうどうでもいい。ブッシュ政権の茶番ぶりを徹底的に笑い者にしつつ、その茶番っぷりは映画のなかだけに収まっていない。それこそ、この映画自体が茶番である。映画をめぐる一連の騒ぎも、憤りを感じたりカタルシスを感じたり拍手喝采したりするわたしたちも、この映画を通じて、21世紀初頭の収拾のつかない政治状況につながっている。
いい映画だ、とは必ずしも思わないけれど、今の時代における政治的出来事の一つとしてなら意味はあると思う。見ていて体温のあがる映画であることはたしかだ。ムーアの意気込みとエネルギッシュな姿勢には脱帽。
(30.aug.2004)
コメントはこちら。
こちらにもあります。
いいかげん髪がのびてきたので散髪する。といっても、毛先を切って梳いてもらったくらい。縮毛矯正の威力が若干のこっているので、短くしちゃうのはもったいない。ブロー・テクを美容師さんが懇切丁寧に教えてくれる。ある程度ブローでなんとかなりますよ、といってくれるけれど、なかなか不器用なものでそうなんとかもならないのだな。でも髪を切ると気分が変わっていいね。
シリコン入りのシャンプー類は髪によくないと知って、あらためて使っているものを調べると、当然のように入っている。まだ半分くらいずつ残っていたけど、使いつづける気にならなくて捨ててしまう。新しく買いに走ったが、成分表をみているとワケが分からなくなってきた。とりあえずシリコン類は外して選んだけど、何が髪によくて何が悪いのかさっぱり分からん。てきとーに思考停止しないとキリがないです。
映画感想
『誰も知らない』の感想のっけときます。
毎度のことだけど、映画を見ているときはダイレクトに感情がゆさぶられるから、涙ボロボロになることが多い。だからいつもハンカチは多目にもっていく。コメント書くときは頭を冷やして書いていることが多いので、自分でも意外なくらい渋めなコメントになったりする。この映画もそんなかんじだ。自分で読み直しても、ひねくれた文章ね、、、。
誰も知らない
nobody knows
2004年 日
監督:是枝裕和
出演:柳楽優弥
北浦愛
木村飛影
清水萌々子
父親の違う4人のこどもたちは、出生届けも出されず学校にも行かされずに、母とともに小さな世界のなかで生きてきた。ある日、母は新しい恋人と「幸せ」になるために家を出ていってしまう。その日から、こどもたちだけの生活がはじまった――。
わたしたちは〈こども〉の無垢で真っ直ぐで疑うことを知らない眼差しに弱い。それをダイレクトに出しているこの映画は、監督自身のやさしさと文学性の高さを感じることができるいい映画だと思う。ただ、ヒューマンな温かさが感じられれば感じられるほど、違和感をおぼえてしまうのも事実。扱っている事件の深刻さからみると、どこか曖昧な空気に包まれている印象をうけるからだ。
違和感の正体をさぐってみると、実際の事件そのものがもつ悲惨さと闇が何か透明なものへと翻訳されている点だろうか(実際の事件では、妹は事故死ではなく、長男とその友人による虐待の結果死んでいる)。実際の事件を題材にする以上、いくらフィクションとはいっても、事件そのものがもつ意味に切り込んでいく骨太さが必要な気もするのだが、どうもその辺が肩透かしをくらった気分である。
もう一点。
アリエスのいう、近代家族の出現によって誕生した〈こども〉は、現代にいたってますますその神聖さを強めている。〈こども〉の被傷性、弱者性、無垢性、無能力性は、すでにわたしたちの思考と感情にインプットされていて、罪なき〈こども〉が悲惨な境遇にあることに、わたしたち(先進国の人間、しかも成人、と限定すべきか?)の感情は耐えられない。〈こども〉は単なる労働力ではなく、取り替えのきく存在でもない。〈こども〉という存在自体に、「幸福になる権利」へのあらがいがたいメッセージが織り込まれている――少なくともわたしたちはそう解釈する時代に向いつつある。
一方で、この世界には「貧困」というどうにも解消しがたい問題がある。多くの人間が比較的豊かな生活を享受できる先進国においてすら、貧困は発生する。貧困に対して、多くの人々は困惑をともなった無関心という態度をとる。関わり方も分からなければ、関わりたくないというのも本音だろう。見慣れてしまえば、貧困という残酷な状態すら「日常」である。
この映画は、〈こども〉と貧困が結びつけられている。過剰なまでの物質的豊かさのなかで、食うにも困る貧困に落ち込んでしまう〈こども〉たち――「誰も知らない」というタイトルは、誰もあえてその貧困を直視しようとはしない、どこか困惑した無関心さを反映している、ともよめる。貧困者が〈こども〉であるという設定が、映画を観る者を一種のダブルバインドに陥らせるのだ。これは時代特有の感覚といえるのかもしれない。
もやもやしたわだかまりを感じたまま映画館を出ることになったけれど、この映画はそれでいいのではないかとも思っている。何かを批判したり何かを弾劾したり、社会的なメッセージを送ったりするのではなく(それをすればいいってものでもないが)、むしろ映画的な文学性に昇華させてしまう点に、この映画自体が、この国にすむ人々の、貧困に対する困惑した態度をはからずも体現しているような気がした。
(17.aug.2004)
コメントさらに追加です。映画に対する評価がさらに厳しくなっていった・・・。
ダイアローグにつきあってくれた岡田さんとこのウェブログにも映画評あり。
夏の嵐
senso
1954年 伊
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
出演:アリーダ・ヴァッリ
ファーリー・グレンジャー
一九世紀半ば、オーストリアに占領されたヴェネツィアで、伯爵夫人リヴィア・セルピエーリは、イタリア独立のために地下活動を続ける従兄弟ウッソーニ侯爵を影ながら援助している。愛国的なデモンストレーションは、ある晩、オペラ座でオーストリア将校たちを前に、イタリア国旗をあらわした三色の紙を天井桟敷からばらまくという形でなされた。この騒ぎのなか、ウッソーニ侯爵はイタリアを侮辱したという理由で、オーストリアの若い兵士フランツ・マーラーに決闘を申し込む。リヴィアはこの決闘をなんとか阻止しようとフランツに近づいた結果、彼と恋に落ちてしまう。
許されざる恋を扱ったメロドラマとはいえ、この映画には観客を恋愛物語に陶酔させるような魔法は何もかけられていない。美しい伯爵夫人が脇目も振らずのめりこんでいく相手が、祖国を支配する占領軍の、出身身分もさほど高からぬ一兵士である点は、許されざる恋の設定として納得はできる。けれども、この男は自らをしか愛さぬナルシストで、虚偽の申告をして軍隊を抜けようとする臆病者で、盲目的に自分を恋するリヴィアに罵詈雑言を浴びせかけるような卑劣な人間である。リヴィアが一途になればなるほど、二人の関係は空回りしてしまう。とくに、中盤から延々とつづく壮絶な戦闘シーンと対比させられることで、二人の恋愛関係はますます痛々しく陳腐な様相を帯びてしまう。
ヴェネツィアの街やオペラ座、貴族の豪奢な館といった舞台設定、鮮やかなオーストリア兵の軍服姿にリヴィアの美しい絹衣装と、ヴィスコンティらしい美学は十分に感じられる。けれども、退廃美をそれとして描ききるというよりは、監督の視線はどこかシニカルな気配を残している。フランツは美貌だけを頼りに生きる退廃した男だが、そうした人間を、軍事的なものに体現される「男らしさ」からの逸脱として断罪しているような面がみられる。また、最後、復讐の鬼と化したリヴィアが街頭でオーストリア兵士たちと戯れる娼婦たちのなかを通りすがる場面があるが、「娼婦と何ら違いのない伯爵夫人」という演出に、わたしなどはもうゲンナリしてしまった。痛々しい恋愛を大げさな状況設定のなかで語るから、主人公たちにも「粋さ」が感じられないし、退廃美の迫力のようなものも今ひとつ感じられないのだ。ちょっと消化不良気味、、、。アリーダ・ヴァッリは名演だと思うけど、その堕ち方の余裕のなさに、見ていてちょっとしんどかったのでした。
(16.aug.2004)
コメントはこちらにも。
街散策
『誰も知らない』を見てきました。予想していたよりよかったです。でも感想難しいね。
ともだちと一緒にいって、久しぶりに堀江のあたりをほっつきました。ランチに入ったお店がなかなかよかった。話もはずむし楽しかったです。映画みたあとは灼熱の心斎橋筋を南下して本屋めぐり。本好きの友人と一緒だと、時間を気にせず本を物色できていいなあ(って勝手にわたしが思っているだけで、向こうは「早よせい!」と思ってたかもしれない・・・)。
ともあれ、映画・カフェでランチ・本屋と、なんとなく小洒落たアイテムがそろっているではありませんか。自分を騙しているだけ?でもいーの、どーせアソビにいくならこういうのがいいよ(日本橋に新装開店したとかいうガンダム専門店に行こうと複数筋から誘われている。なんでやねん。同じフィクションでも「カフェでまったり」とかゆーほうがいいっての!)
映画
ヴィスコンティの『夏の嵐』を見ました。ちょっとでも別世界にひたって典雅な気分になれるかと期待したけど、なんかぜんぜんダメ。わたしの気分的には選択失敗。コメント書いても渋めになるだろうなあ。
夏本番だし、、、
8月は予定をほとんど入れずにおいたはずなのに、あっれー?というくらい用事がたてこんでしまっている。しかも、ちまちました用事が多い。段取りよくしなければ、あっというまに夏が終わってしまう。
とりあえず明日から旅行です。海に行ってきます。どうせ行くなら楽しんでこようとは思うのだけど、日焼けしたくない。プールとか海とかいい思い出ないから、考え出すと行くのがめんどうになってくる。あまり考えないほうがいいってことね。もう他のメンツのノリにまかせよう。でもそのまえに水着を買いにいかねばなりません。「ちまちました用事」ってこういうのなんだよね、、、。