復活

resurrezione
2001年、伊・仏・独
監督:パオロ・タヴィアーニ
ヴィットリオ・タヴィアーニ
出演:ティモシー・ピーチ
ステファニア・ロッカ


 3時間に及ぶ超大作だが、タヴィアーニ兄弟はトルストイの原作をしっかり読み込んだ上で作り上げていると思った。この長さは物語をいいかげんに扱わないためにぎりぎり必要な時間だったのだろう。登場人物を端折ったり適当に入れ替えたりすることもなく、原作で扱われていたテーマや印象に残るエピソードが映画のなかにきちんと書き込まれていて、そのあたりは見に行った甲斐があったというものだ。
 原作で扱われていたテーマの一つは、裁判や法や規則といった国家制度がいかに非人間的で残酷なものとなるかを描いた点だろう。生きるのに精一杯の貧しい人々たちが、杜撰な裁判の結果、簡単に監獄につながれシベリア送りにされてしまう。人間は平等ではなく、身分の違いが当然のように人間の扱い方の違いを正当化している――トルストイは『復活』において、こうした社会制度の残酷さと無意味さを弾劾していた。さらにそこから、人間にとって真に意味ある生とは何かという重い問いを投げかけていた。
 主人公の貴族ネフリュードフは、陪審員として関わった裁判の場で、かつてもてあそんだカチューシャが自分のせいで身を持ち崩して娼婦となり、無実の罪で殺人の罪を負わされてしまった現実をつきつけられる。彼は罪の意識に苛まれ、カチューシャに罪を償うために、彼女を釈放させようと奔走する。だが結局彼女を釈放することには失敗してしまう。彼は財産も土地もすべて放棄し、貴族社会の慣習と衝突し、そうした行為を他人に笑われながらも、自己の信念に命を捧げることこそが真に生きることの意味だと叫んで、流刑される彼女につきそってシベリアへと向うのである。
 
 映画の醍醐味は、小説では想像するしかない様を映像で体験できることだろう。シベリアへと囚人たちが送られる様子は、小説で読んでいてもその異様な酷さに強烈なインパクトを受ける部分である。鎖につながれた囚人たちが酷暑のなかを歩かされて、一人二人と熱中症で倒れていく姿、白い雪原を黒い機関車が走っていく様子、囚人となって流刑される父から離れようとしない小さな娘を、官吏が無理やり引き離そうとするシーン――映像はトルストイの筆致に沿って、国家制度に翻弄される人間たちの姿を写し取っていく。映画は、政治犯としてシベリアへ送られる革命家たちも登場させ、彼らとカチューシャとネフリュードフの関わりも描いている。とくに列車のなかで始まる政治犯シモンソンの語り――些細な罪で死刑になった二人の少年が、処刑台にひっぱられていく最後の状況を目撃したという話――は、国家制度のもつあっけないほどの非人間性が露にされる強烈な物語だった。こうしたエピソードが一つ一つ映画のなかに盛り込まれてあって、どこまで成功しているかはともかく、トルストイが云わんとしたことを映画は忠実に受けとめようとしたのではないか。
 小説のもう一つのテーマは、魂の救済、タイトルどおり「復活」に関することだろう。この点に関してはわたしは、映画監督と作家のあいだに解釈の違いがあるのではないかと思った。少なくとも終盤、映画はトルストイの結末には従っていない。
 トルストイの結末はたしか、ネフリュードフが、聖書の「山上の説教」に魂の平安への簡潔な答えを見いだすというものだった。人間のつくりだす諸制度の愚かさから離れ、そうしたものに一切関わらない境地にいたるところに、魂の「復活」の可能性が求められていた。トルストイらしいテーマではあるが、それゆえに、ネフリュードフのカチューシャに対する「愛」の関係もまた捨てさられていたように思う。性愛・恋愛という人間の情念は、つきつめれば魂の静謐には不用のものであろうから。
 この問題に対して映画はどう答えているのだろうか。「愛」の問題については、カチューシャとネフリュードフの関係をどのように描くかが鍵となってくるだろう。
 何よりもカチューシャという女性は、ネフリュードフの裏切りをきっかけに、一人の人間である前に娼婦たることを強いられた存在であった。周囲の人間も彼女を娼婦としてしか見ないがために、彼女はそうした存在でありつづけている(それでもカチューシャは、「娼婦」に投げかけられる有形無形の暴力に意志的な眼差しで必死に抵抗するのだが)。彼女にとって、別様にもありえた過去の自分自身を想像することは苦痛でしかなく、それゆえ別様でありうるような未来の自分自身を想像することも避けている。彼女は他の人間とのあいだに関係を結ぶ力を奪われ、自己を見失い続けている。
 ネフリュードフは、自分が彼女の転落の原因であることを知った以上、彼自身もまた他者との関係性を結ぶ力を失っていることに気づかざるをえない。彼はその事実を受け止め、カチューシャに関係性への信頼を取り戻させることが、彼女を救い、また彼自身をも救うことになると確信している。それゆえ彼は彼女から「偽善者」と罵られても、自らの信念のために、自らの魂の救済を求めて、彼女を救おうと奔走するのである。国家や社会の非人間性と対照的に、ここには人間性そのものに寄り添っていこうとする在り方が際立たされている。
 けれどもひとつのズレがある。ネフリュードフはこの人間性の救済・復活を、カチューシャとの「結婚」という形で実現できると信じている。ネフリュードフが求めているのは人間の関係性に対する信頼の回復であって、それは愛とは次元の違うもののはずなのだが、彼はそれを愛と混同している。もちろん、愛の成立によって互いを承認しあう関係は生まれるし、そこに擬似救済は成り立つだろうが、魂の救済という問題とは微妙にズレている。(愛という概念には、対等な人間同士の欲望の衝突、一種の闘争関係も含まれている。それゆえ彼がこれからも魂の救済を追及するかぎり、愛からもまた離れていかざるをえない。)ネフリュードフとカチューシャにとっては、対等な人間同士の関係性を修復することが先決であり、それが愛という形になるかどうかは、おそらく次の段階の話なのだ。
 ともあれ、ネフリュードフの献身によって関係性への信頼を取り戻したカチューシャは、あらためて彼と対等な位置に立つことになる。そのとき彼女は、彼が愛と罪の意識を混同していることを悟る。彼女はネフリュードフによって人間に対する肯定的な関係性を取り戻したことを受け入れているし、その心はネフリュードフを求めている。だからこそカチューシャは、ネフリュードフではなく政治犯のシモンソンと結婚するという拒絶の形で応答したのだろう。それは罪の意識からネフリュードフを「解放」し、罪の意識と愛との混同を伝えるメッセージでもあったはずである。
 終盤、カチューシャに去られ、ネフリュードフはひとり雪の中を呆然とさまよい、一軒の農家にたどりつく。そこで彼は、新しい世紀の始まりを今まさに祝おうと集まった人々に囲まれて、新世紀をともに祝おうと持ちかけられる。この場面で観ている者は奇妙な感覚にさらされる。20世紀の入り口にたつ人々の姿は、そのまま、つい数年前21世紀の入り口にたったわたしたちの姿と重なりあうからだ。
 原作の結末とは異なり、ネフリュードフは魂の静謐の境地を与えられてはいない。彼は途上に投げ出されたままで終わる。カチューシャのいるシベリアへ向けての道、モスクワへ戻る道、あるいは別の第三の道――信念に向って突き進んだネフリュードフの魂は、終盤、答えを与えられないまま、選択肢の前に立たされるのである。最後になってやってくる突然のこの宙吊り感覚が、20世紀と21世紀という時間を呼覚まされることと重なり合って、観る者の眼差しを不透明なる未来へと一気に投げ出させる。原作を超えて、映画が独自の色彩をもっとも強く放つ場面ではないだろうか。
(11.jan.2004)

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寒い・・・

 「復活」の文章アップしました。バカみたいに長いのと、いまひとつすっきりまとめきれていないので、cinemathekのほうに流しました。なんだかなあ。検索で飛んできた人ゴメン!てかんじ。
 寒さのせいか、ぼーとしてやる気がでない(←ふつう暑いときにそうなるような気が?)。やらなきゃいけないことはたくさんあるので、ようするに逃避でしょうか。逃避ですね。でも寒いと体が縮こまって、動きたくなくなるのです。なぜ虫が冬眠するのかよく分かるわ。お茶をいれてもすぐ温くなって、飲む気がしなくなるし。

firebird

 ウェブブラウザをmozilla firebirdに切り替え作業中。写真をアップすると、いままで使っていたブラウザだと画面がガタガタしてイライラになっていたので。firebirdは軽いのか、写真を載せてもスムーズに動くので便利! おまけにカスタマイズがかなり自在にできるので、この点もグッド! 今日は一日これに時間を喰われるなあ。
 近所のお寺が節分のため、あちこちから参拝客がくる。そういうわけで近所がなんだか騒がしい。1日の夜中12時から地響きがしだして何だろうと思っていたら、護摩をたいて読経がはじまった音だったのね。まあこの季節の風物詩です。とりあえず巻き寿司食べたい。

ロッタちゃんと赤い自転車

A Clever Little Girl Like Lotta
1992年、瑞典
監督:ヨハンナ・ハルド
出演:グレタ・ハヴネ
ショルドリン・グロッペスタード
マルティン・アンデション


ロッタにミア・マリーアにヨナス、そして一家の住む町並が、とにかくアストリッド・リンドグレーンの絵本そっくり! 絵本の絵はとても素敵だけど、それがそのまま写実化されててびっくりした。ベルイおばさんもそっくりなんだよねー。でもロッタがブランコにのるシーンが、花吹雪でなかった点は残念かな? あと食卓に並ぶスウェーデン料理の場面がたくさんあって、見ていて楽しかった(庭で食べるあのワッフルおいしそう! あとテーブルにこぼれんばかりに積まれたベリーのような果実。ジャムかなにかにするんだろうか。ロッタのキライなニシンの燻製やフィッシュ・ボールってどんな味? ニシン蕎麦はおいしいけどなあ、とついつい食い意地モードになってしまいます)。
 ロッタの怒りのひとつひとつは、いってみれば些細なことばかりで、微笑ましかったり苦笑いしたり。こういう子がいると大変だよなあと思いつつも、そのシンプルな真っ直さ・媚のなさは、やはり愛おしむべきものなのだと思う。家族や周囲の人々がロッタのとんがりかたを、呆れながらもきちんと受けとめている点がよかった。ロッタ自身の天衣無縫さの魅力だけではなく、周りの人たちがどうやってそれを受け止めているかが日常生活のなかに描き込まれていて、そのあたりがこの映画の良さかなと思った。
(29.jan.2004)
2 comments
『ロッタちゃんと赤い自転車』のコメントです。
残念ながらリンドグレーンの原作に触れたことがないのですが(物語の時代設定はどのあたりなんでしょうか?)、それでもこの映画はじゅうぶん楽しめました。映画の中に出てくるワッフルはベルギーのかたいしっかりしたものと焼き方が違うみたい。それにvollkorn(粗挽きの粒)が入った栄養十分もものじゃないかな、などと思わせますね。ニシンの燻製というのは、ドイツでも食べますが、おいしいです。
子供向けの映画やテレビドラマを見ていると、いつも大人に媚を売ってしまうようなところがどこかあるのですが、この作品は頑としてロッタの意地を通していてそこがいいですね。豚のぬいぐるみをテディと言い張ったり、てくてく一人で歩いていくときの歩き方が、なんともいえずよかった。ロッタを演じたあの女の子、かなりの名演でした。
by nozaki at /10:22 AM
nozakiさんこんにちは。お約束どおりロッタちゃんについてコメントをよせてくださってありがとう!(もしよければ、映画評のロッタちゃんのところにリンクかなにかをを貼らせていただいてもよろしいでしょうか?)
作者のリンドグレーンさんは1907年生まれ2002年死去と非常に長生きされてますね。『ピッピ』が有名だけど、『やかまし村』ほかたくさん書かれてますね。『ピッピ』の当地での出版が1945年以降、『ロッタちゃん』の邦訳は1960年代のおわりにはでているようです。となると、執筆時期が50年代 60 年代あたり、時代設定もおなじくらいではないかと思うのですが、どうでしょうね。煙突掃除夫さんが出てくるけど、いつくらいまであった職業なのかなあ? 今でもあるのかしらん?
食べ物がすっごく美味しそうでしたよね! ニシンの燻製はロッタちゃんはイヤだったみたいだけど。フォルコルンはドイツでもシリアルとかパンとかにたくさん入ってました。ライ麦の精製しきらないものですよね。こっちでいうと玄米とかそんなかんじかな。ワッフル・メーカー、実は手に入れたいグッズのひとつだったりします。ふわふわなものにはなるだろうけど。
ロッタちゃんにしろ、ピッピにしろ、リンドグレーンの描く女の子って、ちょっとハチャメチャなところがあって、そのへんがやっぱり好きですね。
by kiryn at /10:24 AM

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映画「獅子座」

 寒い日が続いているせいか、無理目な日々が続いているせいか、体調崩し気味。おまけに足指のしもやけが日増しにひどくなっていくようで、夕方になると歩くのもいたいよー。冷え症が原因? 体質改善ってままならないわ。
 ロメールの初期の映画「獅子座」をみました。いやーこの映画おもしろかった。さくっとかいたコメントをのっけときます。いつまでもだらだら抱えていると、書けなくなるからねー>「復活」の教訓・・・。

獅子座

Le signe du Lion
1959年、仏
監督:エリック・ロメール
出演:ジェス・ハーン
ヴァン・ドード
ジャン=リュック・ゴダール


 自称音楽家のピエールは、40歳間近になっても音楽で身をたてることもできず、自堕落な日々をおくる男。映画は彼に伯母の莫大な遺産が転がり込んできたことを知らせる電報から始まる。ピエールは自分の星座である獅子座の強運に感謝し、友人を呼んで一晩中どんちゃん騒ぎを繰り広げる。ところが電報は誤報、アパートメントも追い出されていたピエールは一夜にして住むところもない文無しになってしまう。おりしもパリはバカンスの真っ最中。金持の友人たちはみなバカンスにでかけて、助けを求める相手が誰もいない――。
 この映画、ストーリーは特別すごいものとは思わないけど、文無しになってからのピエールの落ちぶれようを執拗に撮っていく様がすごい。執拗、としかいいようがないような気がする。彼は友人の助けを求めてパリ中を歩き回る。服は汚れ靴底は外れ、空腹のあまり万引きしては殴られて散々な目にあう。多少自堕落であってもそれまで普通の都会人であったピエールが、あっという間に都市の底辺へ転落していく。住むところがなく、ホテルにも泊まれず、電車やバスにものれず、市場やお店で売られる商品も彼の手にはとどかず、友人の家を尋ねても門前払いをくらわされる。
 むしろ真の主人公はパリという大都会であって、ピエールが仲間とどんちゃん騒ぎをしていた頃にみせていた快楽と喧騒の街たる相貌と、彼が乞食へと転落していく過程でみせる「無関心」という都市の冷酷さの相貌の対照が、とにかく強烈である。最後のどんでん返しも観るものを安堵させるような類のものではなく、その意味でも、この映画の対象に対する突き放し方はかなりシニックだ。
 ふと思ったけど、カラックスの『ポーラX』の主人公ピエールがパリの街を彷徨する様子は、この映画が元ネタなんだろうか。
(28.jan.2004)
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 新年早々文章の更新がとまっている、、、。うー、月末まで忙しいです。なんかいつもこのパターンだな。
 昨日はお仕事帰りにデパートによってお買い物。バーゲンの波が去って春物がでているけど、お店のすみっこにはまだ冬物が。すいているし、お値段も安くなっているし、悪くないですね。
 A4サイズのファイルが入る大き目の鞄を買うつもりが、気がつくとジーンズに合わせるようなカジュアルバッグを買っていた。A4サイズどころかB5サイズでぎりぎりじゃん! でもファーがついてて表面のあらっぽい感じが気に入ったのね。かっちりした鞄とか、かわいい系の鞄とか好きじゃないのだな〜。こうして傾向の似たバッグばかりが集まってしまうのであった・・・。

パン・バイキング

 『復活』の映画評がうまく書けませぬ・・・。書いては消し〜のくりかえし。いや、いい映画だったのですよ。ちゃんと書こうと気合が入りすぎてるのかなあ。うーん。
 昨日は寒かった。風がきつくて、コンタクト目には辛すぎる一日。おかげで今日はすっかり気が緩んでしまい、何もする気が起こらない。髪のカットにでもいくかと悩んだけど、それもめんどくさくなってやめる。でも気分転換にランチを食べようと、パンのバイキングがある某パン屋レストランに行く。食い意地だけは張っているのである。
 レストランのなかは有閑マダムの社交場と化しており、居座る有閑マダムたちによる音声多重放送空間と化していた。でもいいの。わたしの目的はパン・バイキングだから。いちじくと胡桃を練りこんだフランスパン、レーズンパン、黒糖パン、バナナパン、胡麻パンとひたすらパンを食べる。メインディッシはまあ美味しいけど機内食みたいだった。自分のなかではすっかりパンがメインディッシュ。味をしめてしまいました。

ベーグル

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 最近(に、かぎらないけど)、飲み会の席の話が(酒が入ってくると)ガンダムばっかり。ガンオタかなわん〜。同じ話ばかりを延々ぐるぐるしているんですけど、ぜんっぜんっオモシロクない。気付け、いいかげんに。
 とまあ、先日はお疲れ終電帰りだった。今日は寒いし疲れが残ってるしで出かける気にもならず、前々から作ってみたかったパン作りに挑戦する。材料は買い込んであったので、朝ごはんのあと早速とりかかる。作るのはベーグルに決定。あのモチモチ感が気に入っているので、あれを自分の手で再現したい! 
 強力粉に全粒粉をまぜ、プレーンとクミンシード入りとレーズン入りを作ってみる。うーん、はじめてにしては上出来なのでは? 噛み応えは十分の、売っているものよりは少し小さめのベーグルができた。クリームチーズなどをぬって食べると美味しさ倍増。でもモチモチ感の加減が今ひとつよく分からないので、ちょっとベーグル集中買いして食べ比べしてみたいかなあ。あと次に作るときはもう少し時間短縮したい。