ラン・ローラ・ラン

Lola Rennt
1998 年 独
監督: トム・ティクヴァ
出演: フランカ・ボテンテ
モーリッツ・ブライブトロイ
ヘルベルト・クナウプ


 「ラン・ローラ・ラン」には三パターンのストーリー展開がある。それぞれに与えられた状況、それに対して主人公が最初にとった行動はまったく同じなのに、ちょっとの時間差がぜんぜん異なる結論をもたらすのだ。テクノのリズムにのってローラがベルリンの街を疾走する姿がカッコいいのもさることながら、映画の構成が美しくかつ哲学的でさえある。
 人間の人生は、すごろくのように一つのステップを踏めば次のステップが決まっているようなものではない、と思う。ひとは生れ落ちる場所も親も時代も選べないし、居住する地域の制度のなかで生きるわけだから、環境に規定された存在であることは否定できない。だが、一人の人間がどんな生の軌跡を描いていくかは、本人の一つ一つの選択の積み重ねによるところが大きいだろう。にもかかわらずその人にとって、どんな選択肢をその都度選んでいくか、あるいは選ばされていくかは、究極的には、その瞬間にならないと分からない。選んだ選択肢が次にどんな状況を引き起こし、それがどのように波及してさらなる選択肢を導いていくかは、いっそう予測不可能なことである。
 この映画はそういうことを思い出させてくれる。
 映画の話はここまでだが、もう少し話を続けてみたい。
 ひとはじぶんの行動をすべて自分で「主体的に」決定しているわけではない。
もう少し丁寧にいうと、「主体的」になにかを「選択」できる状況は、人間にとってとても限られたことでしかないとわたしは思っている。もちろんじぶんから賽を投げることは多々ある。だが、投げた賽がどのように転ぶかまでは、わたしの思惑を超えている。投げた賽が次に進む道を指し示したとき、道が拓かれたという事実そのものがわたしに影響を及ぼしはじめる。そのことになんらかの意味をみいだせれば、未来が今のわたしの行動や思考を規定しはじめる。
  では、ひとが主体的になにかを決定しきれないのだとすれば、そのひとは自分の行いや発言に責任をもたなくてもすむのだろうか。
 もちろん、ひとは自分の行いにも発言にも責任をもつべきだし、それをだれかに責任転嫁できるものでもない。ただそれは、だれかと向き合っている状態に自分が置かれているときの話である。とりわけパブリックな場においては、他者に対して「わたし」というものを、それなりに一貫した主体として立ち上げることが必要だ。だが、そのような自分を立ち上げたとしても、「そのような主体ではないわたし」というものが、わたしのなかにはつねに寄り添っている。その「わたし」は、一つの言葉にクリアにまとめあげられるようなものでは、決してない。
 「主体的に」なにかを行いうる状態は、じぶんのなかでもかなり言語化可能になっている状態(何らかのアイデンティティを受け入れている状態?)だ。けれどもそれは、そこにいたるまでに、多くのありえた可能性をすべて押し込めていった結果でもある。
 そのクリアになった状態をよしとする立場からではなく、苦痛を伴いつつ押し込められていったものを覚えておこうとする立場から、わたしは世界を見ているような気がする。明確に言語化されたものでさえ、裏にあるもの/あったかもしれないものを見たいと思っている。
(Friday, January 05, 2001)


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