ユマニテ

l’humanite
1999 年 仏
監督: ブリュノ・デュモン
出演: エマニュエル・ショッテ
セヴリーヌ・カネル
フィリップ・ティリエ


 ブリュノ・デュモン監督の「ユマニテ」(l’humanite,1999年、仏)について。「ユマニテ人間性」という倫理的な響きを帯びたタイトルで、デュモンが現そうとしたものは何なのか――。
 晴れた日にはイギリスが見えるという町に住むファラオン(エマニュエル・ショッテ)は、刑事だ。二年前に妻と子を亡くして、今は母と二人暮し。自転車で汗を流し、畑で野菜を育てている。ある日彼は、11歳の少女の強姦殺人事件を担当することになる。目撃者がなかなか見つからず、捜査は難航する。捜査の静かな進行とともに、ファラオンが、隣に住むドミノ(セヴリーヌ・カネル)に誘われてその恋人ジョゼフ(フィリップ・テゥリエ)と3人でドライブをしたり海岸に遊びにいく日々が丹念に描かれる――。
 
 映画が始まってほどなく、殺された少女の下半身が映し出される。修正がかけられてはいるが、性器が映し出されている。開かれた白い足には赤い痣が点々とつき、蝿が這っている。草むらに放置された少女の死体を目撃したファラオンは、警察の廊下ですすり泣く。人間のすることではない、と。だが上司に、感傷より捜査だ!と怒鳴られる。
 また別のシーン。アルジェリア出身の麻薬の密売人が検挙される。おそらくひどく訛っているフランス語、母を知らず、麻薬のからんだ生活から逃れることなど思いつきもしない、貧しい男。彼に対してファラオンは言葉をかけず、ただ彼の匂いを嗅ごうとする。強姦殺人事件の犯人が最後に検挙されたときも、ファラオンは泣き止まない被疑者を抱きしめてキスをする。
 ファラオンはおそらく刑事には不適格なほど、繊細である。彼は他人の「悲しみ」や「痛み」を感じ取り、それを嗅ぎ取ろうとする。不器用に思えるほど、「言葉」を人間に対してはかけない。人間に対しては、彼はただ「悲しみ」を抱きしめ嗅ぎ取ろうとする。
 だが、少女の家族も、麻薬の常習犯も、精神病院の患者たちも、ファラオンによって癒されるわけではない。もちろん「癒される」と考えること自体が傲慢である。他人の「悲しみ」がそこにあることを無視せずに向き合うには、ファラオンのような形で共鳴するしかないと思う。けれども誰も救われはしない。
 それに、生きている者には「悲しみ」があるけれども、死んでしまった少女は心ある人々の「悲しみ」の材料になるだけだ。殺された少女の剥き出しの性器は、「強姦」「殺人」という行為のもつ暴力性を露呈させる(いやさせているはずだった。ここに機械的に修正をかけた映倫は、この映画が表現しようとしたことをこれまた暴力的に殺いでいる)。一人の少女がある日突然、誰かによってその生を強制的に奪われる。映画には、彼女の名前も顔も出てこない。死体となって、モノとなって放り出された姿以外の彼女を知る手立てはない。
 ただ傷つけられた死体を残すしかなかった少女には、「悲しみ」を表現することも許されておらず、ただ虚無だけがはぽっかりと開いたままなのだ。
(Sunday, July 15, 2001)


yu