夕方からお通夜に行くまで、狂った予定の調整におわれた。お通夜ではなぜか乾き物が多くて、おなかはいっぱいだけど今ひとつ物足りない。帰りにスーパーで抹茶葛湯を買う。お湯をいきなりドバドバいれたせいか、ダマがいっぱいできて涙する。水で先に溶いておくべきだった。なんでわたしはこうも雑なんだろう。でもこれは体にやさしい飲み物なので二重マル。
やっぱりこの時期のお通夜は寒くて、体が冷え切っている。お風呂に入ってあったまろうと、ガスの種火をつけていたら壊れた。よくわかんないけど、何かの線が切れたみたい。せっかく、せっかく、たっぷりのお湯でぬくもろうと思ったのに。また修理代かかるの? シャワーだけだとぜんぜん体があったまらないよ。今でもなんだか寒気がするというに。まったくもお。
死というのは、生を終焉させるその時になってはじめて現れるものではなく、実は生そのものと分かちがたく結びついているものだと、昔のエライ人が言っていた。生が際だつためには、死への注視がなければならない。死を眼差すことが、混沌とした生の流れから、「生」を切り取る。だから、際たった生には常に死が寄り添っている。
こういう考え方を、単に美的に文学的に消費するのではなく、もっと根本的なものとして理解したいと思う。それが具体的にどういうことになるのかは、説明できないままなのだけれど。