お葬式でした。
死者が祖父母の年代ならば、天寿まっとうということでご苦労様と、比較的気持ちも明るいのだけれど、まだ親の世代の方だと、少し寂しい。でも、見送られる者より見送る者が若くてたくさんいるお葬式ならば、やっぱり亡き人にはご苦労様といいたい。簡単な基準だけど、見送られる人がまだ若いと、どんな事情があったにせよ、胸が痛んでやりきれないから。
わたしなんか親族というだけで故人とそう深いつきあいがあったわけではない。でも、親族だから最期までお見送りする。わたしなんかより、故人ともっと深い関係にあった人たちって確実にいると思うんだけど、親族でなければ最期までつきあうのは遠慮が先にたつかもしれない。そういうものかもしれないけれど、火葬場にまで行くと、ほんとうに最期まで見届けたという気がするから、なんだか不思議な気がする。
こういう日は、記憶のなかにあるお葬式を思い出したりする。「ご苦労様」のお葬式より、やりきれない思いの残るお葬式のほうが、よく覚えている。小学校のときのクラスメイトの顔をひとりひとり覚えてはいないけれど、死んだ子はよく覚えていたりする。その子の時間はそこで凍結してしまっていて、それゆえにか、記憶の底に焼き付けられている。自殺した友達のお葬式は、その日の天気や空気の気配にいたるまで覚えている。
死んだら忘れられる、というのは嘘かもしれない。死んでしまったら忘れられなくなる。