ソ連大使館の謎

 知り合いのサンチョ・パンダ氏が大学に入った80年代半ば、彼は第二外国語としてロシア語を選択した。なんといってもバブリーな時代、ロシア語を選択する学生はそう多くはなかった。だが硬派な彼は時代に逆らって、マルクス・エンゲルスを勉強したいと思っていた。ここで、んん?と思う人も多いでしょう。だってマルクス・エンゲルスを勉強したければドイツ語を勉強すればいいのであって、わざわざロシア語を勉強する必要はないのだから。でも彼はそういう事実をただ単に「知らなかった」のですね。しかもパンダ氏の場合、マルクス・エンゲルスをカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスではなく、「マルクス・エンゲルスという名前の人」だと思いこんでいた、という。そりゃないでしょ。ちょっとイタすぎるぞキミは。
 ともかくどういう経緯であれ、パンダ氏はロシアに関心をもち、専門過程に上がってからはロシア史研究の教授のゼミを選択することになった。ゼミにはゼミ旅行というものがついている。たいがい研究会名目のただの旅行なのだが、パンダ氏のゼミでは、まじめにも当時のソ連大使館に見学に行くこととなった。ただ、日程の都合がうまくいかなかった彼は、あとから合流することにしたのだが。
 さて、当日ソ連大使館に一人で乗り込んだパンダ氏は、コワモテのガードマンの横をあっさり通りぬけ、受付嬢のいるところまでやってきた。(けっこうスンナリいくもんだなー)と内心拍子抜けだったらしい。受付嬢に英語で
「わたしはこういうものである。あなたは知っているか、プロフェッサーXが学生とともにここに来ていることを。わたしは彼らに会う必要がある」
と用件を述べた。だが返ってくる返事は
「Pardon?」
ばかり。通じないのだ、彼の英語が。パンダ氏はあせった。あせると英語はさらに通じない。そのとき、何かトラブルが発生しているらしいと気づいたデカいロシア人が奥のほうから大股に近寄ってきた。彼はどうやら日本語を解するらしく、パンダ氏にむかって開口一番次のように尋ねてきた。
「亡命デスカ?」
なんでやねん、とパンダ氏は思わず心のなかでツッコんだ。80年代後半のこのバブル時代、ジリ貧のソ連に「亡命」しようとする日本人が何人いるというのか? その大使館員はそのように聞かねばならないくらい、「亡命」用件の訪問者がしょっちゅう来ているとでもいうのか? そもそも亡命ってそんなに気軽にできるのか? それともオレの容貌・態度・雰囲気がかぎりなく亡命者に近いとでもいうのか? ワケのわかんないソ連大使館の対応に、パンダ氏は、このままホントに強制亡命させられたらどうしようと、だんだん本気でこわくなったという。
 まあなんにせよ、その後すぐにソ連は崩壊したわけだから、ホント、「亡命」しなくてよかったよね、パンダくん。
(Tuesday, December 26, 2000)