ヴェネツィアは不思議な街だ。そんなに多くの街をみているわけではないけれど、この街ほど人を惹きつける街は知らない。
最初に感じたのは、寂しさだった。他の街に比べて、ここには、住んでいる人たちの気配がなかった。サン・マルコ広場に向かう通りにもヴァッポレットにも、観光客しかいない。井戸のある路地のほうに目をむけても、女たちが立ち話をし子どもたちが遊ぶ姿など、見ることはなかった。まるで書割のなかに迷い込んだようで、自分の足元が覚束ないような気がした。 それから類まれな美しさ。サン・マルコ広場からサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会のある島を眺めると、青い海の上に浮かぶその白い姿も、夕闇に暗く浮かび上がる姿も、今まで見たこともない美しさで、ただ岸辺に立ち尽くすばかりだった。
翌朝めざめたのは、教会の鐘が遠くから鳴り響く音によって、だった。窓から見える空はまだ薄赤く、ヴェネツィアの建物が暗いシルエットのなかにぼんやりと浮かんでいた。冬の朝でバルコニーに出ると、寒さに身が引き締まった。鐘の音はいっそう大きくなり、辺りには水の気配が立ち込めていた。 ただ、静かで儚げな印象だけではなく、この街には視覚的なダイナミックさもある。ヴァッポレットに乗ってカナル・グランデを下っていくと、両岸にぎっしりと並んだ建物が通り過ぎていく。ポンテ・リアルトをくぐる辺りから、川幅が広がり、目の前に一気に海が広がる。これは、おもわず歓声があがるほどの爽快さだった。
今考えても、この街のすべてを知りたいとは思わないし、ここに住みたいとも思わない。ただ、また訪れてみたい。惹きつけられる。たぶん、この街には「秘密」がある。少なくとも、そう思わせるほどの力がある。軽妙なくせに底知れない
(Monday, April 02, 2001)