セプテンバー11

September 11
2002年 仏
監督:S・マフマルバフ、C・ルルーシュ、Y・シャヒーン、D・タノヴィッチ、I・ウェドラオゴ、K・ローチ、A・G・イニャリトウ、A・ギタイ、M・ナイール、S・ペン、今村昌平
 イラン、フランス、エジプト、ボスニア=ヘルツェゴビナ、ブルキナファソ、イギリス、メキシコ、イスラエル、インド、アメリカ、日本――各国の映画監督が「9・11」について撮った短編オムニバス。
 各国の文化的背景を背負った監督たちにあの事件をモチーフに映画を撮らせて、パッチワークのような作品にするという試みは興味深い。けれども、あの事件の衝撃度を考えると、たった1年やそこらで、あれが何だったのかを理解し説明できる者などいないだろう。だから、この映画が何らかの完成した図柄を示しているとはとてもいえない。現実の世界が劇的に変貌しつつある中での思考の軌跡、あるいは思考のドキュメンタリーと考えたほうがいい。今は、こういう形でしか表現できないのだと思う。
 あの事件に喰われていない作品などない、という前提にたてば、それぞれの映画は十分見ごたえがあった。
 ある映画監督が頭のなかに自爆テロの若者とそのテロによって死んだ若い米兵を登場させて、彼らと対話する作品(シャヒーン)、あの日NYの消防士として働いて犠牲になったにもかかわらず、イスラム教徒ということでテロリストの疑惑をかけられた息子を想う母を描いた作品(ナイール)は、事件以後、多くの人が考えたであろう事柄を比較的ストレートに扱っている。
 それから、9・11の意味など考える余裕もなく生きるのに精一杯の「弱者」が、この世界の大多数を占めているということ――あの事件はそのことをわたしたちに知らしめた。日干し煉瓦を作る難民のこどもたち(マフマルバフ)、病気の母の薬代のために学校を休んで働く少年(ウェドラオゴ)、たとえ先進国に住んでいるとはいえ、妻を亡くし孤独のなかに生きる老人(ペン)は、このテーマに関わる存在ではなかったか。
 民族浄化の悪夢の記憶をもつボスニア=ヘルツェゴビナ、自爆テロが続く泥沼のイスラエルとパレスチナ、この地域からの作品(タノヴィッチ、ギタイ)は、まるで対のようだと思った。誰もいない広場で静かにデモをする女たちの列と、自爆テロの現場でのグロテスクなスラップスティック的混乱状態。これらの地域に起こっていることが、9・11よりましだと誰がいえるのか。傷跡の深さに、言葉を失う。
 おそらく、物語はもっとたくさんあるはずで、この映画で扱えたものはほんの一部でしかない。起こった出来事のイメージだけは鮮烈だが、その背景にある謎はあまりにも複雑すぎて全貌が見渡せない。あれは何だったのかという問いに、21世紀を通して、わたしたちはずっと苛まれていくのだろう。
(Sep.18.2002)


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