アメリカの連続射殺事件、ますます不気味な展開になってきている。
ハリウッド系の多くの映画をみていると、どんなに大量に人が殺されても、どんなにえげつない事件がおこっても、最後は解決するという暗黙の前提がある。安心してみていられるといえばそうなんだけど、なんか根拠なく「わたしたちは大丈夫!」って思えるように洗脳されてるようで、正直肌に合わない。(わたしは自分の運の強さなど信じていないほうなので。)でも、現実ってそうじゃないよね。今回の事件と9・11事件で、とくにそう思い知らされてしまう。
豊かになった社会はどこでもいびつな事件がおきるものだけど、銃はその簡便性と被害規模の大きさの点で、そのいびつさを助長させる。日本の場合、銃をもつ自由は厳格に限定されていて、社会の安全性はこの意味では保たれているほうだろう。このルーツをたどれば、豊臣秀吉の刀狩にいきつくだろうから、まあよくやってくれたよと思う。
どれほど悲惨な事件がおきても、あの国はなかなか銃規制に進まない。いまだ、銃規制に対してではなく、銃をもつ自由のほうに国民的な合意があるようだ。古い伝統をもつ国々よりも、伝統がないからこそ進取の気質に富んでいる国だといわれるけれど、銃規制に関しては、アメリカの「伝統」が大きな壁になっているようだ。
かつては、「敵」に対する防御という意味で銃をもつ自由が支持されていたのだろうけれど、今ではむしろ、「仲間うちに潜む敵」に対する防御の意味でこの自由が支持されている。彼らは、銃をもつ自由をもたない国に住む人間にははかりしれない恐怖と疑心暗鬼を、心の内に潜めているということなのだろうか。
それじゃ、ほとんどホッブズの「人間は人間にとっての狼である」ってやつじゃないか。「自由と責任」とはよくいわれるけれど、「自由と恐怖」もまた対になるものなのか?