Chronicle of a Death Foretold
1987年 仏・伊
監督:フランチェスコ・ロージ
出演:アントニー・ドロン
ルパート・エヴェレット
オルネラ・ムーティ
ガルシア=マルケスの同名小説の映画化。何よりもこのタイトルがカッコイイのだが、作品の構成もきわめて理知的で美しい。
「予告された殺人」というのは、被害者以外全員がその殺人の行われる可能性を知っていたにもかかわらず、誰もがその殺人を阻止しえず遂行されてしまった、ということ。むしろ、「殺人が起こるかもしれない」という人びとのある種の期待感が、殺人予告者を真の殺人者たらしめてしまったのではないか、とも思わせてしまうほどだ。
映画はその日殺害されてしまうサンティアゴ(アントニー・ドロン)が、鳥の糞を大量に浴びるという夢をみるところから始まる。なぜ彼は殺害されなければならなかったのか。それは、結婚初夜に処女でないことが分かり、夫バヤルド(ルパート・エヴェレット)に実家に突き帰されてしまったアンヘラ(オルネラ・ムーティ)が、不義の相手としてサンティアゴの名前を挙げたことによる。この恥をそそぐため、名誉のために、アンヘラの双子の兄弟はサンティアゴを殺してやると町の人びとに吹聴してまわるのだ。
多くの人が「バカなことはするな」と双子の兄弟を引き止め、あるいは本当にはやらないだろうと思っていたのだが、運命の歯車が回るように、偶然が偶然をよんでサンティアゴを殺すお膳立てが整っていってしまう。
運命の瞬間、大きな広場に四方八方からこの殺人の成り行きをみようとして人びとが駆け寄ってくる。ぽっかりと空間が開き、そこに何もしらないサンティアゴが登場する。「逃げなさい、殺されるよ!」という悲鳴を聞いてサンティアゴは逃げ出すが、その声に促されるかのように、双子の兄弟はナイフをもって広場に駆け出していく。殺される者と殺す者だけがその空間に踊り出て、悲劇がクライマックスを迎える。息子サンティアゴを匿ったつもりで実は安全な家から締め出していた母は、窓をあけたとたん息子が殺されたこと知り絶叫する。この一連の映像の流れは、息をとめて凝視めてしまうほど流暢で圧巻である。まさにギリシャ悲劇を彷彿とさせるような場面なのだ。
結局、サンティアゴがなぜ殺されなければならなかったのは、何年たっても分からないままだ。ほんとうにアンヘラの不義の相手だったのかも、当のアンヘラもはぐらかしたままなのである。
事件の発端になるバヤルドは、肩からさげた皮の鞄に大量の札束をかかえて、ある日ふらりとアンヘラの住む町にやってきた人物である。彼は花嫁を探しにきたのだという。美しいアンヘラを見初めて、彼は彼女の心を得ようと大胆に迫ってくる。彼女の家族とも打ち解け、とんとん拍子でバヤルドの思い通りにいきそうな成り行きにアンヘラは不満を抱き、バヤルドに無理難題をいいつける。バヤルドはアンヘラの言葉をうけて、彼女のほしがる家を買い取ろうとする。この家には亡き妻の思い出ととも老人がひっそり暮らしていたのだが、思い出に値段などつけられないという老人にバヤルドは大金をテーブルにのせて家を売れと迫る。家を売ることを了承した老人は耐え切れずに涙を流すのだが、このあたり、恋する男の傲慢さが本当にうまく描かれていると思った。
買い取ったその美しい家で、アンヘラとバヤルドは盛大な結婚式を挙げる。人びとに祝福されすべてがうまくいっていたはずなのに、二人の愛はアンヘラの裏切りによって壊れる。バヤルドは町を去る。それからアンヘラは、彼とのたった一夜の思い出を胸に、毎週のように彼に手紙を書きつづけるのだ。
何年もたち、彼女が老いを隠せぬようになった頃、バヤルドは町に戻ってくる。肩から下げた鞄にはアンヘラからの手紙が何千通も束になって入っている。その手紙がアンヘラの家の庭先にばらまかれる。彼女はそれを見つけ、木陰に佇むバヤルドと再会を果たす。
アンヘラとバヤルドがなぜこのような試練に耐えて愛をはぐくまなければならなかったのかは、推測するしかない。映画をみるかぎりでは、彼女は不義の相手を想い続けたようでもなく、バヤルドを愛していたと思われる。彼女は自らの意志で何年も手紙を送りつづける。彼は手紙の封を切っていなかった。切らずとも彼女からの手紙が意味するものはわかっていたのだろう。今度は彼女の愛が、彼を引き寄せたのだ。
アンヘラは、ぬるま湯のような幸福のなかで生きつづけるよりも、自らの手でその幸福を壊して、真実の愛を求めようとしたのかもしれない。自らを破滅させてまでも情熱的な愛を選ぶ女だったのかもしれない。
サンティアゴへの双子の兄弟の復讐劇が熱いパトスの奔流であるならば、アンヘラとバヤルドの悲恋は、恋の情熱を静かに滲ませてくるような関係である。この対称的な構図も美しい。おそらくもっと多層的・多重的に読み込める物語なのだろう。おもしろい映画である。
yo