イゾラド

 たまたまつけたテレビで、アマゾンに住む「イゾラド」=「隔絶された人びと」についての番組を見た。
 接触を試みた「文明人」のもちこんだ病気ゆえに、何部族もがあっというまに絶滅したのだという。今は、猛烈な開発の波が彼らの居住空間を奪いつづけているという。世界を均質化し平準化しようという動きは、独自の存在を消滅させていき、そのことによって、われわれの側もまた人間的な豊かさを失っていく――番組のメッセージのひとつは、こういうものだったと思う。
 番組のなかで中心になっていた一つが、ふたりの「イゾラド」だった。かれらが子どもだったころに、その部族は雷か襲撃か銃かによって、とにかく滅亡したらしい。かれらはたった二人きりで森のなかで生きてきて、80年代に推定年齢30才前半で、「保護」された。2000年前後?に保護区で静かに生きる彼らの姿がカメラに映し出されるのだが、それは、世界から隔絶されてたった二人で生きる人間の姿だった。
 かれらは、ひたすらに矢を作る。けれども、その矢で狩をするわけではない。弓すらないのだ。かれらは子どものときに部族から切り離されたため、狩の仕方を習うことはなかったらしい。
 どれほどの傷を心に負っているのか、言葉という手段が断ち切られている以上、外部のものが想像するための手がかりは少ない。ただ、かれらが矢を作るのは、その不安を、傷を宥めるための行為なのだということだけは、分かる。
 矢をつくるという行為をとおしてのみ、かれらは今は亡き部族へとつながり、外の世界を、文明を、拒否しつづけている。そのことは、自分たちの部族の言葉を喋るけれども、外の世界の言葉をおぼえようとはしなかった彼らの態度にもあらわれている。かれらはその言葉を外の人間に教えようともしなかった。
 
 すべてを平準化していく時代にあって、その波にのみこまれようとしない在り方とは、「隔絶」という形でしか現れないものなのか。そして外の者は、その隔絶を尊重することしかできないものなのか。整然とならべられた大量の矢が、彼らという存在に刻み込まれた傷痕と、ふたりだけの世界に閉じたまま消滅していくことを選んだ彼らの意志とを、垣間見させているように思った。

イゾラド」への2件のフィードバック

  1. あざらしくん

    kirynちゃんの感想を読んで、絶対見なくちゃと、再放送(水曜未明)をチェックしていたけど、見事に寝過ごしました。しくしく、、、

  2. kiryn

    最近映画みるヒマがなく、テレビに走ってます。森茉莉御大の「どっきりちゃんねる」には程遠いですが。チョビが終わってたいへん残念です。ドラマって終わるの早いのねー。
    テレビをみるヒマがあるなら映画もみれるだろうって言われそうですが、見るときの意気込みがちがうのです。

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