solaris
2002年 米
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
出演:ジョージ・クルーニー
ナターシャ・マケルホーン
ジェレミー・デイヴィス
ソダーバーグが「ソラリス」を作っているという情報を聞いたとき、タルコフスキーの「ソラリス」があるのにソダーバーグはチャレンジャーだなあと思った。ともあれ、やっとソダーバーグ版ソラリスをみた。以下のコメントは、タルコフスキー版ソラリスを意識したうえで書いている。
ソダーバーグの映画の特徴は、なによりもクリス・ケルヴィン(ジョージ・クルーニー)とレイア(ナターシャ・マケルホーン)の関係に焦点があたっていることだろう。ソラリス上空の宇宙コロニーのなかで、〈レイア〉がクリスの記憶のなかから蘇るわけだが、彼と彼女の間に過去に何があったかが丹念に描かれている。この点に焦点をしぼったことで、この映画は単なる二番煎じには終わっていないと評価できるだろう。
ただ、気になったことはいくつかある。まずこの映画では、ソラリスの位置づけが「何か不気味なもの」以上のものではなかったことだ。タルコフスキーの映画では、ソラリスは「謎を投げかけるもの」だった。ソラリスという「謎」を通して、「われわれとは何か」「人類とは何か」という人間性の根源に問いかける眼差しが、あの映画にはあった。だからこそ、科学者たちはソラリスと接触したがゆえに自己の内面へと直接向き合うことを強いられ、ギバリャンは自殺し、スナウトは鬱屈に陥り、サルトリウスは人間の科学的合理性にしがみつこうとしたのだろう。
けれども、ソダーバーグの場合、ソラリスは人間に脅威を与える客体の域を越えてはいない。ジバリアン(ウルリッヒ・トゥクール)は自殺してしまうが、息子が地球上に実際に生きているのであれば、目の前の「息子」は「不気味なもの」でしかないわけで、自殺の意味がよく分からない。ゴードン(ヴィオラ・ディヴィス)は理性と科学的合理性にしたがって振舞いつづけ、その態度からは内的な苦悩の片鱗すら見えてこなかった。スノー(ジェレミー・ディヴィス)にいたってはどうしようもない小細工がなされていて、これではソラリスと人類の接触も、エイリアンとの遭遇と大差ないように思った。
それゆえ、見所はクリスとレイアの関係に絞られるわけだが、これに関しては先にも述べたように、評価したいと思う。セリフによる説明が多くて、タルコフスキー版のあの寡黙さから生まれる神秘性のようなものはなかったが、かえって生身の人間臭さを感じさせられた。
ただ、わたしは正直、ふたりの関係をずっと追っていくのが辛かった。クリスにとっては、数年前に自殺した妻が目の前に肉体と肉声をもって蘇るわけである。失ったはずの最愛の人を前にして、はたして人は冷静でいられるものなのか。クリスは冷静ではいられなかった。彼は自分の使命もすべて忘れて、〈レイア〉に執着する。〈レイア〉は〈レイア〉で、今の自分がクリスの記憶のなかにある「レイア」のコピーでしかなく、本来あったはずの自己とのズレに苦しみ、自らの意志で自己を消滅させることを選ぶ。ところがクリスは、〈レイア〉の選択を頭では理解しても、もういちど彼女なしの人生を生きることができない。その無意味さと空虚さを前に、クリスもまた一つの選択をするのである。
自分にとってかけがえのない人を失った場合、人は残りの人生を、愛する人の「不在」と折り合いをつけながら生きていくしかない。それがどれほど空虚な時間であろうとも、時間を巻戻すことができない以上、諦念や忘却や反芻によって、自分に死が訪れるまでの時を耐えていくのだろう。ところがソラリスと接触した者は、その心に刻印された傷を、きわめて残酷な形で突きつけられてしまう。ソラリスがなぜそのようなことをするのか、という次元での問いかけが希薄なために、引き起こされた事態の残酷さだけが目立ってしまう。
タルコフスキー版においては、クリスが〈ハリー〉に対して取った行動は、「贖罪」という意味合いを強く帯びていたように思う。それゆえに、どこかしら「救い」や「解放」の雰囲気があった(少なくともわたしはそう解釈している)。ところがソダーバーグ版では、クリスの〈レイア〉に対する態度からは、人間のもっとも弱い部分が剥きだしにされたときの耐え難さ、またそこから来る痛みを、より強く感じとってしまった。わたしにとってこの愛の形は、どこか閉鎖的でどうしようもなく「耐え難い」――そう思わざるをえなかった。
(Saturday, July 05, 2003)
オマケ
この映画を観た人たちとの会話です。
その一
その二
その三
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