レム

 ↓にソダーバーグの「ソラリス」のレヴュー書きました(←cinemathekに移動)。いわゆるネタばれというやつなので、未見の方はご注意を。
 今日レムの『ソラリスの陽のもとに』を入手。ワクワク。しかし当分読むのは自粛です。嗚呼。

レム」への5件のフィードバック

  1. sow

    sowです。
    うおっ!、凄い量のレビューに圧倒されてしまうのですが・・・、なるほどなと思いました。
    ネタバレな話を書いても・・・良いのですよね??
    ↓ネタバレです。




    確かにジバリアンの自殺理由は曖昧でしたねぇ、死ぬ意味ないよなぁ、て。僕なんかは「地球にいるけど、なにか事情があって、会うことができないでいるんじゃないか」とか、穿った考えをしてしまいました。
    あと、痛い・痛い映画ですよね。僕が少し残念だったのは、まぁ、人類の生存理由というとこまで踏み込んでいっていなかったというのはあるのですが、タルコフスキー版であったような、「最後には頼るべきものが何かある」というような終わらせ方をしていなかったことでしょうか。タルコフスキーの映画って、(三つしか観てないけれど)ポーンと放り出していながら、最後には何かしら、ほっとさせるような仕掛けがあると思うんです。
    でも、ソダーバーグ版は、そういうところはなく、むしろ強い映画になっていると思います。厳しく言えば、因果応報というのでしょうか。「自分のやったことは自分で白黒つけろ」みたいな。ここら辺は、監督の違いが出てて面白いと思いました。とにかく、タルコフスキー版へのオマージュではなく、あくまで自らの作品として完結させていたソダーバーグは凄いなと思いました。そして強いと・・・。
    なんだか、レビューに感化されて長くなってしまいました。
    乱文失礼しました。

  2. kiryn

    sowさん、たくさんのコメントありがとう。すっごーくうれしいですよん。
    >厳しく言えば、因果応報というのでしょうか。「自分のやったことは自分で白黒つけろ」みたいな。
    なるほど、ソダーバーグの映画はそういうふうにも解釈できますね。わたしはあの痛々しさにシンクロしてしまって、涙がとまらなくなってしまったのですが、「強さ」というふうに見ることもできますね。でもやはり「救い」の側面は、sowさんもあまり感じられなかったと見てもよろしいでしょうか。
     映画のなかでも「正解なんかない、あるのは選択だけだ」という言葉がでてきましたけど、この台詞はこの映画のポイントのような気もします。選択に伴う運命を引き受けよ、みたいな。
     監督の個性の違いももちろんあるけど、お国柄や文化の違いも反映しているような気がしますね。ソダーバーグのは、どこかプロテスタント的。
     でもこの映画、アメリカとかドイツではあまり評判よくなかったみたいだけど、そんなに悪評たつほどひどい出来ではないですよね。もちろんトータルでみれば、タルコフスキー版のほうが磁力は強いですが、ハリウッド作品にしては異色ですよ。

  3. sow

    またまたsowです。
    そうですねぇ、救済はなかったといえばないんですが、なんというか、タルコフスキー版の場合クリスが直面したことが、人類全体の問題にまで絡んできていて、ここで救済されないと相当辛いのではないかと思うのですが、ソダバーグ版の場合、kirynさんも仰っているように、あくまで二人の関係に絞られているのでこれはこれでありかとも思うのです。つまり
    問題:人類 → 解決:贖罪を受ける
    問題:個人 → 解決:その個人による
    とでもいえば良いのでしょうか。これだと僕が前に書いた「救済がないことへの残念さ」と矛盾してくるのですが、物語として問題の質と解決は密接にリンクしてくると思ってますので、個人の問題なら、この終わらせ方はこれでもありなのかなとも思うのです。残念ではありますが・・・。
    あと、そうですね「正解なんかない、あるのは選択だけだ」のジバリアンのセリフはとても重要だと思います。ここにこの映画の意味が集約されてるのでしょうね。
    そうですか、アメリカ・ドイツでは評判が悪いのですね・・・。ま、評判は評判なので、自分の評価では「良」ですね。
    んー、もしかしたら文章に矛盾があるかもしれないですが、お許しを。
    ・・・、やはり贖罪は必要です(笑)

  4. kiryn

    >アメリカ・ドイツでは評判が悪いのですね・・・
    ネットの記事をみていたかぎりではそういう印象を受けました。ベルリン映画祭かな、記者の質問にクルーニーがキレてたみたいなことが書いてあったんですよ。ああ〜、ソースが示せない! すいません! とりあえず、レム御大は気に食わなかったみたいですね。まあタルコフスキー版も気に食わなかったらしいですから、、、(ますます原作が読みたくなる)。
    映画はたしかに、個人のレベルに収斂していて、その意味ではsowさんの仰る通り、あの結末はありだと思うし、「愛」の描き方も全然陳腐ではなかったと思います。
     でも「ソラリス」の意味ないじゃん、「ソラリス」は何なの?て気もするんですよ〜。人類の問題にとばずとも、二人だけの関係であったとしても、ソラリスの意味を介在させることはもう少しできたのではないか、という物足りなさを覚えるんですね。じゃあどういう風に描けばよかったのか、となると、よく分かりせんが、、、。

  5. sow

    ソラリスの存在意味ですか〜。
    そうですね、確かに。あの映画でソラリスは二人の物語を観客に強く思い描かせるアイテム、というかレイアを蘇らせるアイテムとしてしか存在してないですもんね。
    うーん、僕はあの映画が二人の関係に収斂している以上、ソラリスの存在は、アレで良いのかなぁとは思うのですが、そうですね、例えばこういうのはどうでしょう。
    ソラリスは、もちろん高度な知的生命体で、人間がどういうものか理解しようとしている。そして、蘇らせたものの記憶を共有することができる。そして、これまであの二人の間にある「愛」という感情を理解できない(というか知らない)でいた(これは何回もレイアを蘇らせたことからも分かる、もしもソレを知っていたらそんなことはしないと思う)。しかし、今の二人の間の出来事・感情を観察し、ソレの存在を知ることができた。それにより、レイアは自らの意思で消えることができる(ソラリスの束縛が消えるので)。しかし、「愛」を知ったソラリスは、その能力からレイアの強い心までも読み取り、レイアの心と一体化してしまう。ソラリスにレイアをみつけたハリーは、ソラリスに落ちる宇宙ステーションにとどまり続けてしまう・・・。
    ・・・、只の陳腐なスペースオペラになってしまいました。内容も変わってるし。とほほ。
    どうやら僕はストーリーテラーにはなれなそうです。

コメントは停止中です。