クリムト展を見に兵庫県立美術館に行った。梅田を通って阪神電車に乗っていく。さすがに時期的に場所的にタイガースだらけ。阪神デパートはほとんどの入り口を閉鎖しているため、地下はさほどの人ゴミではなかった(中はすごかった)。美術館は平日なのに来館者がかなり多くて驚いた。それでもまだすし詰めではなかったので、土日に来なかったのは正解だと思う。
肝心のクリムトだが、有名な作品もかなり来ていて見ごたえがあった。というか、今回はじめてクリムトの作品をまとめて見たんだけど、自分の抱いていたイメージと実物がずいぶんちがって、見に来た甲斐があった。
画集やポスターで見ていた分には、世紀末的な雰囲気を纏った豪奢で耽美的で美しい女性像を描いた作家、という印象だったのだけど、生の絵画はもっと倒錯していた。
「フリッツァ・リートラーの肖像」「エミーリエ・フレーゲの肖像」では、女性たちはたしかに美しいけれど、その顔は、衣服やソファや壁の装飾が前面に押し出されることによって、背後に暗く重く沈みこんでいる。「エミーリエ・フレーゲ」などは、衣服の文様をそのままベタンと貼り付けたようなかんじで、コラージュを思い起こさせる。コラージュの手法が生き生きとした動きや表情を無機質なものに変えてしまうように、クリムトのこれらの絵画も、生身のもつ生命感を殺ぐような効果を発している。作家のこうした視線はどこか倒錯的で、サディズムに近いフェティシズムを感じさせた。
きわめつけは「ユーディット?」だろうか。これは、女のエロティックな表情に視線が向う作品だとばかり思っていた。けれども実物をみると、とくに首に枷のように巻かれた金箔の装飾が異様なまでに存在感を発している。女の表情はたしかに恍惚としているのだけれど、全体でみると、まるで首と胴体が切り離されているようだった。
クリムトの作品をみていて、この感覚は何かに似ているなあと思っていたのだが、そう、アラーキーの作品をみているときの感じに似ているのだ。両者には同質のものがあると思うけど、どうだろう。
クリムト以外にもいくつか作品が来ていて、エゴン・シーレの作品もあった。一見グロテスクに見えていた彼の作風は、実はすごく素直でまっすぐだった。ショップで画集をぱらぱらと見ていたが、シーレの絵って今風。ポップ・カルチャー的というか、普通にマンガでもよく見るようなラインだったりする。今度はシーレ展見に行きたいなあ。どっかやってくれないかな。
クリムト展、いいな。
東京ではやらないんでしょうか?
クリムトの絵って目にする機会は多いけど、生で見るとまた違うんでしょうね。
なんか迫力がすごそう。
こんばんは、tadafumiさん。
東京でやっていないということは、今回のは巡回物ではなかったのかな?
>クリムトの絵って目にする機会は多いけど、生で見るとまた違うんでしょうね。
そう、見慣れているがゆえに、かえってショックでしたね。どこかしら人間に対する冒涜めいたものがあるような気がしました。これは見に行ってよかったです。
「ベートーベン・フリーズ」もあったのですが(複製らしい)、これは、うーん企画物?ってかんじだったなあ。