とりたてて何事もなくリズミカルに時間が過ぎていく。木蓮の木にまだとんがったままの蕾がいっぱいついてて、これが咲き出すころには一気に春めいてくるのだろうなあと思う。写真にとりたいなと思っても、そう思うときにカメラをもっているわけではなく、その場を去りがたくぐずぐずしてしまう。そういえば、友人の結婚式から持ち帰った一輪のバラも、コップにさしたままだけど、そろそろ枯れてきた。咲きほこる状態もいいけど、枯れていくころに愛着を感じる。
多少時間的余裕のあるときに映画をみたい、みにいきたい。明日くらいには思いきって街中にでるか、どうしよう。
>咲きほこる状態もいいけど、枯れていくころに愛着を感じる。
kiryn ちゃんも大人になったわね、、、 次は古道具市に出かけるようになるわよ。
実は四天王寺の市にはむかしよく通って、得体のしれない古ぼけた鞄とか花瓶とか買ってました(まあ値段はしれてましたけど)。コレクター気質はないですけど、古いものには無条件に惹かれるものがありますねー、、、そうか、枯れていく花が好きなのはそういうわけだったのか(ってそうなの?)。
>得体のしれない古ぼけた鞄とか花瓶とか買ってました
おお。その上、森茉莉が好きなのよね。kirynちゃん、このまま行くと良い味が出てくるわね、きっと。(もう、出てる?)
うー、どうでしょう。
思えば、「喫茶店で原稿を書くような生活」がしたいなどという願望をこっそりもっていたりします。ところがですねー、すでにパソコンでしか文章が書けない体質になっており、願望はもはや実現不可能なのですね。そう思うと、この電脳化された生活のなかで枯れた味わいを楽しむのはなかなか難しいと思う今日この頃です。
>すでにパソコンでしか文章が書けない体質になっており
あらー。私はまだ、「これぞ」という文章は紙に書いて、赤ボールペンや鋏とセロテープを使って校正をしたりしてます。それからパソコンに入力したりします。そうしないと死んだ文章になるような気がして、、、でも、最近は「これぞ」って文を書いてませんにゃ、、、
>「これぞ」という文章は紙に書いて、赤ボールペンや鋏とセロテープを使って校正をしたりしてます。
ええー?赤ペンはともかく、はさみやセロテープなど使ったことないなあ。手が込んでますねぇ。
聞いたところによると、パソコンなどなかった時代、文筆家は頭のなかで文章を完成させてから一気に文字を書いたそーです。ひるがえってパソコン時代では、キィボードたたきながら文章を練っていて、頭のなかで完成文を考えたりしてないのですね。道具が思考回路も規定してしまうのでしょうか。