嗤う伊右衛門

2003年、日
監督:蜷川幸雄
出演:唐沢寿明
小雪
椎名桔平


 いわずとしれた四谷怪談だが、京極の原作に忠実に作られた映画だった。蜷川演出で、さすがに画面の密度は濃く、監督の細部へのこだわりはひしひし伝わってきた。
 伊右衛門とお岩の愛を描いたものだが、愛が「純愛」として成立つには、愛以外のすべてを顧みないという要素が必要だ。この意味で、伊右衛門とお岩の関係は十分「純愛」として受け止められる。
 浪人という立場にあって、伊右衛門はすべてに執着しないことで己の矜持を守っている。お岩は醜く腫れ上がった顔を隠しもせず、容貌の美しさという女に課せられる桎梏をあえて無視することで、己の矜持を保っている。地位も家柄も美貌も不確かなものでしかない以上、それらに執着しないことは、魂の純粋さと義しさを確信できる方途となるだろう。それは虚勢かもしれないが、彼らの虚勢の張り方自体に精神的な強さを感じた。
 たしかに伊右衛門もお岩も、おどろくほど強い人間である。わたしなどは、逆にこの強さにたじろいでしまった。こうまで独立した個性をもつ者同士でなければ、唯一の執着としての愛は成立たないものなのか。少々とまどっているのだが、思うに、迷うことのない人間というものは、人間像としてみた場合さほど深みや謎や怖さを感じさせるものではない、という気もする。
 原作を読んだときはあまり気にとめなかったが、映画をみたあとでは、伊右衛門やお岩より伊東喜兵衛のほうが印象に残っている。まあ、正しい人間より悪い人間を描く方がおもしろいのはあたりまえかもしれないが。伊藤の妙につるんとした端整な顔立ちと何をみているのか分からない不気味な目は、『悪霊』のスタヴローギンを思い出させた(彼もまた美男子であるが、まだ若いうちにその顔に内面の退廃が表れていたという)。不遜と傲慢と貪欲ゆえに退廃し、どのような悪事を重ねようとも決して満足することがない人間は、その精神の根底の虚無を垣間見みさせるがゆえに興味をそそる。
 ただ映画の重心が伊右衛門とお岩におかれているせいもあるだろうが、伊藤の精神の虚無と飢餓を感じさせつつも、今ひとつ明確に伝わってこなかった。伊右衛門とお岩の愛も純愛すぎて、逆にわたし自身はおもしろみを感じなかったが、伊藤に関してもどこか物足りなさを残したままである。映像の細部へのこだわりに比べると、人間像そのものへのこだわり方は少し平凡ではなかったか。
(27.feb.2004)
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wa