Blade Runner
1982年 米
監督 リドリー・スコット
出演 ハリソン・フォード
ショーン・ヤング
ルトガー・ハウアー
ダリル・ハンナ
いまさらですが、「ブレードランナー」を観た。ただし、ディレクターズ・カット版で、80年代の公開版と比較はできない。自分がこの映画を観たのか観ていないのか自信がなかったのだけど、なぜか途中まで観ていた。なんでここまでしか観ていないのか理由が思い出せず、首をかしげるばかり。
わたしはいい意味でも悪い意味でも?オタクではないので、コスチュームやデザイン等にマニアックな関心はあまりない。凝ってるなあと観ていておもしろかったし、そういう人たちを熱狂させたというのはよく分かる。個人的にはレイチェル(ショーン・ヤング)の、昔の女優のようなファッションはよかった。ただ、街中の猥雑さや多民族的な混沌といったものは、チョコチョコ出てくる日本趣味も含めて、今からみるとあまりにも(サイードのいう意味での)オリエンタリズムで、ちょっとうんざりした。
ストーリーについていうならば、なかなかよくできていて面白かった。映画をみているかぎりでは確認できなかったんだけど、主人公のデッカード(ハリソン・フォード)もまたレプリカントなんだろうと思わせた。レプリカントと自認していないレプリカントが、邪魔者と指定されたレプリカントを始末するという設定には、彼らを造りだし利用しつくそうとする人間の残酷さが織り込まれている。レプリカントのロイ(ルトガー・ハウアー)たちが地球にもどってきて、彼らの生みの親である科学者を殺害してしまうけれど、何か綿密な計画があってそうしたとはとても思えない。奴隷であることの苦しみを人間に知らせることこそが、目的だったということになるだろうか。そして被抑圧者の苦しみを聞いた主人公もまた、彼らと同じ影の存在であろう点は、とても悲しい。
人間の「自由」や「逸楽」は、そういったものを享受できない存在の「労働」と、彼らを作り出す差別構造の上に成り立っている。そういう意味で、この映画は差別やマイノリティの問題を扱っているともいえるだろう。
ただ、抑圧された者、というテーマは90年代以降おそらくもっともポピュラーなテーマのひとつになっているが、この映画では、「抑圧された者」の表現が少々稚拙であったように思う。端的にいえば、デッカード自身が抱える闇の部分が見えにくいし、ロイは語りすぎている。それに、随所に見られるオリエンタリズムもまた、「オリエント」を一括りにして表象してしまう乱暴な眼差しだと批判できないこともない。ただ、それはこの映画のセールス・ポイントなので、こういってはミもフタもないのかもしれないけれど。
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